人はいずれ亡くなる。
死ぬ。
親も自分も、妻も、子供もいずれは亡くなる。
昔、親は不死身だと思っていたことがある。
母が亡くなるまではそう思っていたかもしれない。
母が亡くなったのは私が30歳になった年だ。
30歳の大人が、人は不死身だと思っていたのだろうか。
きっとそれは違っていて、親に限ってのことなのかもしれない。
中学時代に親戚の葬儀に参列したことを覚えている。
専門学校時代は後ろの席の子が亡くなった時も葬儀に行った。
人は死ぬんだ。
亡くなる順番なんて決まっていないことも学んだはず。
しかし母親の死だけは受け入れているようで実はそうでもなかったりする。
亡くなってもうすぐ14年。
私が30歳になった年で開業した年なので忘れない。
最近の息子をみていて思うのは、
私がいないことより、母親がいないことの方が激情的に泣く。
昨日もごみ捨てに行っただけなのに、
ママは?っていうから、
どっか行っちゃったね。
どこ行ったのかわかんなーい!
って言ったらもう大変なことに。
泣きすぎて吐いちゃった…。
無駄に泣かすんじゃないよ!
って怒られたのは言うまでもありません。
ごめんね。
息子は母親が一番なんだということ。
ずっと一緒にいるんだもの。
たまに遊ぶ機会がある父親はお友達感覚っぽいのかもしれない。
しっかり相手しろって思われてる感満載ですが・・・。
人の死について書こうとしたが、
母はやっぱり最強だなってことになってしまいました。
生きていることは奇跡。
人の死について母が亡くなったことで少しだけ考え方が変わり、
息子が産まれてからは自分の死について少しだけ怖さが無くなったような気はする。
でも死ぬことが怖くなくなると、生への執着も少しだけ減ったことになるのかな?
死ぬのが怖いから生きる。生きたい。と思うのだろうか。
明日生きているという保証はない訳で。
今の自分は息子が生きていれば、元気に生きていればという考え方に変わってきている。
自分の親はどう思っていたのだろうかと思う。
自分の生への執着から、他人の生への執着に変わってきている。
生というか楽しんで生きているかというところに執着している。
楽しんで生きていくには楽しんで仕事をしていきたい。
他人軸から自分軸の本質を考える。
これから息子が成長していくうちに考え方は色々変わるだろうが、
楽しんで生きる、生きてく。という根本は変わらないような気がする。
人の死をどう想っているかと書いていくうちに、
どうやって生きていくか?と書いていた。
死を想うことで生を考えるということだろうか。