養老さんが今年(2011年)、『希望とは自分が変わること』(「養老孟司の大言論Ⅰ」新潮社)というタイトルの本を出していたけれど。

つまり、あえてそう言わなければならないくらい、いまの人は「自分」を変えようとしないんだよ。


いまの人って、自分がいて、相手がいて、その間でのやり取りをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。


コミュニケーションというのはそういうものでないんだ。


やり取りをすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。


そうでなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ人間的に成長することもない。他人とのやりとりのなかで自分の考えを変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整をしながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。


そういうのをすっ飛ばして、自分と意見の違うやつは全部「敵」という感じになってしまう人が、いま、ほんとうに多い。
(マツ☆キヨ マツコ・デラックス 池田清彦 新潮社 2011年)


池田清彦とマツコ・デラックスの対談本の中の一部をお借りしたのですが、これを読んだときに書き留めておきたくなりました。



ついでに「コミュニケーション」という言葉を調べてみました。


『1 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」
2 動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。』


意志や感情、思考を伝達し合うこと・・・伝達とは伝えること。伝えることでお互いに影響し合うことでただ伝え合うだけではないことって意味になりますね。
影響ないことは伝える必要がないから。伝えることで伝えた側に影響があることもある。だから一方的に伝えることも単純にマイナスになるってこともないか・・・

コミュニケーションをとるっていう言葉は広義の意味では伝えること。深い意味ではお互い影響し合うこと。



夫婦の間でも、友達同士でも、コミュニケ―ションは大切ですよね。
自分とは違う考え方、物の捉え方があって、視点も違う。ただ意見を聞くだけで、自分の考え方を変えられないときもある。なるほど、そんな視点もあるんだねとか、自分の意見よりも相手の意見に納得してみたり。



 意見が違うやつは敵だと思うってなんか寂しい考え方だなとも思うし。

子供のころって親から、友達から先生だったり、そのへんのおじさんやおばさんからいろんな刺激を受けて自我を確立していくんだろうけど、全く聞き入れないってなると成長は止まる。

聞き入れ方も尊敬する相手なら聞くけど、嫌いな人の意見って自分もそうだけどなかなか頭に入ってこない。

せめてそういう考え方もあるのだなと思うようにはしているのだが。

 

 自分の仕事は日々、患者さんから色々なことを学んでいます。


一人ひとり考え方も身体も違う。同じ方でもその日によって身体の状態が違う。

テンションも違う。

その時の自分の患者さんとの接し方も同じなようでそうでない。




まだまだ勉強不足で、悔しい思いもするがその分学べることも多い。


著名人のエッセイ、特にマツコ・デラックスさんの本はおもしろいと思います。


人の意見って自分の考えにはないものばかりで吸収できることが沢山。


中途半端なブログw