「一握之灰」の内容の中で前置きが長くなりますので、先に「甲神部隊」とは何だったかについて転載します。

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 この緊迫した状勢の中で、軍都ひろしまをB29から守るために執られた策が家屋疎開であった。その作業ははじめ、市民の外中学校や高等女学校の動員学徒、次に周辺町村からの応援隊の手によって進められたが、そこは中国一の都会のこと、遅々として捗らず、遂に県内都市単位で、補充兵を動員することとなった。

 

 


 これに応じて馳せ参じた中に、三百人の甲神部隊というのがあった。
 陸男さんはメガホンを口にあて「おおい神石郡小畠村の甲神部隊ものはおらんか。高蓋村のもの」と呼びかけながら歩いた。が目につくものは瓦のかけら、崩れた煉瓦の壁 (中略)
 甲神部隊というのは、甲奴郡と神石郡から召集された混成部隊のことをいい、広島市内の民家を取りこわしするのが目的だったので、殆ど予備役の40才台の者ばかりだった。(中略)


 両郡内から集結した300人は八月三日に広島市にはいり、六日の朝基町の第三病院を取りこわしに行く途中ピカに会い二百七十八人が死んだ。中でも小畠分隊は、みんなより一足先に兵舎を出たばかりに三十一人のうち、二十九人が死ぬという悲惨な目に会った。冒頭の二節は、その救護班が廃墟の町に点在する収容所を、甲神部隊の消息を求めて回ったときの記録である。と

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 記中の「小畠分隊」の中に高蓋村の人も存在していたという事です。そして、被災の後に救護班が広島入りして、被災者を収容していた救護所を歩き回り「おおい小畠村の者はおらんか。高蓋村の者」と呼びながら探されたという事です。

下の写真画像は原爆資料館に展示されている内容ですが、これをGサミットの首脳たちが見たかどうかはわかりません。ちなみに、救護に向かった人の中に私の郷里の家の近くのお姉さんも補充兵として動員された兄弟の行方を求めて投下2週間前に広島入りされ、後になってから原爆病を発症され、福山の病院に入院された事を覚えています。

 つづく

2023年5月29日

船橋市海神:弓場清孝