2015年の8月に書いた記事ですが、今も忘れてはいません。井伏鱒二氏の「黒い雨」はドキュメントであり、箇所的には創作もありますが、ノンフィクションでもあると私は認識しています。

 

 

(私の反論)
1、土砂降りの雨でなくても草津港において黒い雨に濡れた可能性は否定できない。最近の知見においても黒い雨の拡大も認識されている。(毎日新聞でも報じられている)

しかも降雨時間は長い地域もあった。また、高丸安子(矢須子)さんは膝などを負傷した状態で焼跡を歩き黒い雨により汚染された川に叔母のシゲ子さんとともに長時間浸かり、その結果として外部被曝、焼跡を歩きまわったことによる吸引によるに内部被曝、及び当時、あるいは汚染食飲物などが考えられこれらをもって晩発性障がいが神石郡小畠村(現、神石高原町小畠)に転居後からさまざまな病状として表れ嫁ぎ後に35歳にして亡くなられている。また矢須子ではなく高丸安子が実名である。



3、「樹齢一千年を超えると云われていたが・・(p125)」と記述されていて井伏氏は肯定はしていない。そして原爆映画の題名は?

4、当時の中国新聞社は井伏氏によれば「福屋百貨店、中国配電本社、中国新聞社、市役所など、大きなビルは火焔のうねりを受けるたびごとに、幾つもの窓から東南に向けて一斉に火を吹いた・・p101」とあり、この記述は重松日記にも書かれていることである。記者が海ゆかばを生徒が歌ったかどうかを当時、直接的に取材ができたかどうかは信じがたい。歌わせたかどうかはではなく一人でも自ら歌えば歌ったことにもなる。尚、第一中学校においては君が代を歌ったとの資料もある。

5、「・・シゲ子と矢須子は川原で人から聞いて来た広島市内の様子を話した。洗濯したモンペやシャツやパンツを川原に干して、それが乾くのを待つ間じゅう、同じように川の水につかって待っている三人の女から聞いた話しだそうだ次のような挿話である。広島県立第一中学校の校庭にプールがある。(以下中略)池のまわりのチューリップの花壇のようである。近づいて見ると、菊の花のように折り重なっている・・(194p-195p)」井伏氏はシゲ子さんや矢須子(安子)さんが川原で三人の女性から聞いた話しを挿話として記述しているだけで肯定しているわけではない。また、「防火用水池」とは著作において記述はない。そして、プールは存在していた。尚、死没者三六六名の名前を刻んだ「原爆死没者の碑」が建立されている。


 

 最後に広島城の天守閣についてだが、「その場に崩落」だけとは言い難い。なぜなら、証言もあるし、「はだしゲン」の広島城の崩落シーンでも載せられている。ちなみに「はだしのゲン」は資料館でも販売されている。

 

 

2022年8月12日

船橋市海神:弓場清孝