先ほどの「甲神部隊」の話しの続きです。部隊の隊長は三原清雄陸軍中尉で広島市中区基町(中国104部隊=中国軍管区歩兵第1補充隊内、広島城址東側)に本部を置き、部隊は甲奴郡上下に駐屯していました。
 原爆が投下された昭和20年8月6日の被爆当時、部隊は広島市内の建物疎開作業(防火帯を作る為の家屋取り壊し)に従事中に被爆、あるいは現場に向かう途中で直爆を受けた人もおられたようです。直爆を受けられた人は当然、即死だったと聞いています。こういう家屋取り壊しというのは当時は全国的にも行われていたでしょう。

     

 広島では女子学生まで動員されていたと2015年の8月7日に平和記念公園の中にある国際会議場を訪ねた時に記念資料館の課長さんが、そのように言われていました。

    

 「甲神部隊」の中で作業に出ず助かった人もおられたようですが、いずれにしても被ばくは避けられなかったでしょう。なぜなら、死体処理に向かわれたり、救助に行かれたりして、被ばくを余儀なくされたでしょう。いわゆる、厚労省が言うところの「3号被爆」です。あるいは「黒い雨」にも接しられた人も当然おられたと聞いています。下の写真は神石郡の被ばく犠牲者をまとめたものです。豊松、油木、三和、神石とあります。被爆時の平均年齢が30代後半で死亡時平均年齢が50代です。

        

 つまり、助かって帰郷された方でも原爆病を発症され15年くらいで亡くなられています。この中には私の生まれ故郷の人もおられます。井伏鱒二の「黒い雨」にも出てきますが、次の一説があります。しかし、この話しはウソだとも言われていますが、私はそのようには思っていません。

 「救護班員は高蓋村では21人のうち現地で一人死んで帰って来て原爆病で11人が死んだ

 なぜなら、私の生家から5軒ほど離れた家の節子姐さんも先に建物疎開で入市された兄の救援のために入市されて、被ばくされているからです。(つづく)