序章
私は1951年9月16日に広島県神石郡三和町(現在は神石高原町)という、その中でも14軒ほどの農家しかないオンジ(穏地)と名づけられた山村の一番奥の茅葺屋根の家で生まれました。

弓場家に付いていた屋号は「せどなや(背戸納屋)と名づけられていました。
つまり、薮の入り口にある納屋というような意味です。ですから、子どもの頃は「背戸納屋のきいちゃん」(清孝)と村や学校の同級生は、そのように呼ばれていました。

弓場家は茅葺屋根で竹薮がある裏側の屋根にはぺんぺん草が生い茂り屋根としての形相はありませんでした。大雨や台風雨が降ると居室は雨漏りどころではなく、母が洗面器やタライで外へくみ出していました。唯一、雨漏りがしていなかったのが、家族5人が寝所としていた8畳間の部屋だけでした。

我が家は農家でしたが、いわゆる小作農家で父が懸命に育てた稲も半分以上は籾を土地所有者に持っていっていました。

農業が暇になる、9月半ばころには父母は山林の土地所有者に断りをいれて山に入り雑木を手鋸で切り倒し、二人で薪作りをしていました。

学校の授業が早く終わった日や日曜日、休日には私たち兄弟(姉)も手伝わねばならなかった事を今でも思い出します。
切り倒した雑木を父が薪の長さ(約40cm)に手鋸で切り、母が背負い子に背負えるように針金で縛り、、私たちが山裾まで背負い子に背負って下ろしました、当事、一束3円、子使い代として貰いました。急な山道でなんども足を滑らせ尻餅を付きながら下ろしました。このお金が我が家の経済を少しだだけ潤しただけでなく、私たちの村祭りの小遣いにもなりました。
(続く)
2016・10・17 文責:弓場清孝