喪主 | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

先週、30年ほど前からの友人で仕事上でもお世話になっている人の配偶者が亡くなった。

家族葬で行います、という伝言もきたが、そうはいかない。そんな付き合いではない。通夜式に行った。これ家族葬ちゃうやん、というぐらいの参列者が来ているし、親族席とその他の席までしっかり用意してあった。

ご香料もいただきません、という札が入口の所に掲げてあった。

けど、そういうわけにもいかないので『受け取って』と言って渡してきた。

いつも思うこと。

喪主の挨拶・・・これを当然、我が親友がやった。

亡くなった時の様子を手短に読むだけであとは「残された家族一同・・・」云々でおしまい。

この中途半端感、参列した人にたった一言でいいから胸に届くメッセージを送ってほしかったが、今回もあまりにも心のこもっていないあいさつ文だった。

なぜこうなるのか。邪魔くさいのか?言いたくないのか?葬式や通夜式ってそういうもんだとタカを括っているのか・・・それはわからない。

僕の死ぬまでのささやかな希望は「喪主」をすること。(バカですよね)

参列者の皆さんに「ああ、時間を割いてきてお別れの場に来れて本当によかった」と心底思ってもらえるような感動と感謝と亡くなった人の生涯と人となりを味わい深く伝える弔辞を述べること。(普通、そんなこと考えている奴、ほぼゼロでしょうね)

もう亡くなった人にとっては世間の人に深く思いを寄せてもらえる最後の瞬間なんだから、その人の人生を僕は語りたい。参列者と一緒に振り返りたいし、感謝したい・・・そんな感動的な弔辞を述べたい。

喪主でなければ友人代表で追悼の言葉を述べたい。

 

人が亡くなったというすごく大きな出来事のセレモニーなのになんか心の一切こもっていない弔辞などありえない、と僕は思っている。

徹夜してでもその亡くなった人を振り返り、参列者の心の中に届けたい。

自分の言葉でその人の人生を語りたい。

わかる人にしかわからなくても、それでいい。精一杯の「お別れの言葉」を僕は渾身の力で用意する。

(もし、希望する人がいるなら今のうちに連絡しておいてください)