甲子園の思い出 | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

夏の高校野球が中止になった。

1969年の太田幸司の時代から高校野球を見始めた。翌年は箕島の島本講平。71年は日大一高の保坂がいた。日ハム行った保坂。この左腕が星飛雄馬みたいやったわ。72年には東洋大姫路にファアルばっかり打つ前原君がいた。津久見に今久留主もいた。72年は日大桜ヶ丘のジャンボ・仲根正広が人気者に。知らんかなあ、仲根、2メートル近くあった。早う死んでしまった。そうこうしているうちに江川が登場。まあ凄かった。打てる気がしなかった。銚子商業の土屋が完成された投球していてのそのあと定岡がいて、原辰徳が出てきて、我々の時代は奇跡のPL。西田、木戸のバッテリー。その下に簑島の石井、嶋田のバッテリー、牛島、香川の浪商バッテリーがいた。

中止ってちょっと寂しいねえ。

高校野球も部活動の一貫だから・・・って、そんなことだれも思っていない。あれは高校生がやっている国民的風物詩なんやから、今更“部活動の・・・”なんて言われてもねえ。無観客でも何でもええからどこかでやらせてやりたい。テレビもなしでええやん。やらせたれよ。

 

甲子園に初めていったのが小学三年生。51年前の季節は今頃。1969年5月の阪神対読売。父親の取引先の人に乗せてもらっていった。ネット裏。甲子園がきれいなカラーでね。総天然色。白黒の画面でしか見たことなかったからこんなにきれいだとは思ってもみなかった。興奮した。

1番・藤田、2番・野田、三番・遠井、4番・カークランド、5番・藤井、6番・大倉、7番・山尾、8番・辻、9番・江夏。その年、入団した田淵は出ていなかった。対する読売のピッチャーは堀内。カークランドが4の4.打球のスピードがすごかった。阪神が5対3で勝った。当時は球場の敷地内に自動車を停められた。食堂は汚いテーブルが無動作に並んでいてメニューもカレーとかうどんしかなかった。通路でコーヒーを販売していた。

それ以来、中学を卒業するまで、年に一度以上はプロ野球を観に行っていた。1985年優勝の前後から応援が派手になってねえ、どうも馴染めなくなった。

滞空時間の長い、田淵のホームランがぼくの夢そのものだった。

一番好きなプロ野球選手は、と問われたら田淵幸一と答える・・・が、聞いてくれる人もいないからこうやって力業を使って自分から言っている。一番すごい外国人は、と聞かれて多くの人がバースと答えているが、ぼくが実際見た中では断然「ペタジーニ」だ。奴の破壊力は他を寄せ付けなかった。打撃練習からすごかった。ライトスタンドにボンボン入れてくるから目が離せなかった。当たったら死ぬぞ、と思わしめた。

ピッチャーでは断然、ヤクルトの伊藤智仁。この人を上回るピッチャーっているのかね、というほどえげつないスライダーだった。すごかったのはプロ生活5か月間だったけどね。

そんなこんなで、早く野球が見たい。

できれば、甲子園に行きたい。