あの日から一年が経ちました。
2011年の3月11日。
僕は皆さんと同じく普通に働いてました。
あの日の朝たまたま通勤路に猫の遺体を見つけて、猫を飼ってる僕は何か暗い気分で出勤したのを覚えています。
ランチタイムが終わり同僚が休憩に行き、僕はキッチンで仕込みをしようか洗い物をしようか考えていて冷凍の食材を解凍するために常温の場所に移した後でした。
「あ、地震だ。。。」
最初に気づいたのはホールの女性スタッフ。
「本当だねぇ。。」
なんて言っていると、段々揺れが大きくなる。そして長い。
あぶない!と思ってガスの元栓を切り、フライヤーを止めようとした時に(フライヤーは電動)油が大きな波を打って飛んできた。。よけて波に合わせてスイッチを押す。
お客さんは不幸中の幸か二人だけで。でも、「隠れられないんだけど~!」と叫んでらっしゃる。
そう、テーブルには学校の机のように物入れがあって下には入れなかった。
慌てて僕はカウンターの椅子を蹴飛ばしてお客さんを下に誘導した。
不思議と窓の外に目が行った。ガラス越しにみた実質8階からの景色は店内とは打って変わって外は本当に穏やかな午後の景色。
ついに首都直下型が来たか。。。俺、ここで死ぬのかな。。最後くらい音楽やってる時がよかったなぁ。。
と、ぼーっとしていたら
「マサヤさん!隠れて!」とスタッフの子に怒鳴られて我に帰った。
日本人ってのは子供の頃からの防災訓練である程度は地震に無意識に対応できるようになってるんだなぁと思った。そしてビルも大丈夫だった。やはり日本は地震国なのだ。
何にも情報は入らない。泣きながら遅番のスタッフが着替えも中途半端で店に入ってくる。
そのうち携帯を持っていたお客さんが
「仙台、、、仙台みたいよ」と言う。
それを聞いた同僚が「マー君!震源仙台だよ!!」と教えてくれた。
その瞬間、色んな事が頭をめぐった。だって東京でこんなに揺れたんだ。地元は。。。
そのビルからは隣のビルの大きな液晶ビジョンが覗ける。
そこに映し出された光景を見て凍りついた。
仙台空港が波に飲まれている。
津波だ。
もう、真っ白だった。
すると、まっ先に仙台の弟からメールがきた。
「とりあえず俺は大丈夫です、姉も大丈夫みたいです」と書いてあった。
弟は新婚だ。奥さんの事も心配だろうな。。と思うと胸が締め付けられた。
数日後、家族やご近所の無事は確認された。
その後は東京とて震災の煽りをモロに喰らったが、地元を思うと何とも感じなかった。
でも、やりきれなさだけが残った。今もだ。
「脱私即的」
ある人の座右の銘だが、この言葉と一番遠いところにいるような僕はいつかそんな人間になれるだろうか。
あれから1年。被害が甚大過ぎて被災地はまだまだ復興と呼べる形にはなっていないようです。
14時46分の黙祷を終えたあと1年を通して様々なメディアから知る「あの日」にこの国の強さと儚さを思い知ると同時に日本人として仙台で生まれ育った者として様々な事を考える日でした。
この震災で遍く大切なものを失った方々にはその心中察するに辛すぎて「お見舞い申し上げます」なんて言葉では言い表せません。うまく表現できません。
そしてお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。