”神の住む村”のほぼ中心に小学校があった。
上久保の集落に住む私達が、学校に行くのには、いろいろな行き方があった。
一番の最短コースは、私の住んでいる上久保の集落の外れにある円墳の横を通り、田んぼの中のあぜ道を通って、下大塚の集落を抜け、村のメイン通りを通って、学校へ行く道であった。
下大塚の集落に行くのに、上久保の集落と下大塚の集落の間の長方形のように横たわる田んぼを、その辺に沿って進むか、対角線に沿って進むかの違いでもある。辺に沿って進む道は、リヤカーや小さな車なら通ることの出来る道でもあったが、当然、遠回りの道でもあた。
下大塚の集落を抜けるにも、いろいろな道があった。
下大塚の集落も、百軒位の人家があり、その間を細い道が入り組んでいた。
この集落の中心に位置するところにも、火の見櫓があった。この火の見櫓のところは丁字路になっており、上久保から来て、左に曲がれば学校に、右に曲がれば、上大塚の下久保集落に通じていた。
この道は、村のメイン道路といってもよかった。丁字路を左に曲がって、この道を進むと、下大塚の集落の外れで、二つに分かれ、一方の道は学校の東側を、片方の道は学校の西側を通り、新町と藤岡の町を結ぶ舗装された県道と交差していた。 この東側の道は、私が、サイドカーに乗せられて、走った道でもあった。
下大塚の火の見櫓のある丁字路からの、もう一本の道は、下大塚の集落の一部を抜けて田んぼに出る。田んぼの中の道をさらに進むと、四つ角になる。この四つ角は田んぼと畑との境でもあった。真直ぐに行けば、藤岡の町へ。左に曲がれば、上久保の集落へ。右に曲がれば、下大塚の円墳群に向かう。
この下大塚の火の見櫓のある丁字路の角には、消防用のポンプ小屋があった。
この丁字路の道を学校に向かって、二軒目には、江戸時代から続くといわれる剣道の道場があった。ポンプ小屋の前の家は、山中さんといい、偶然のことから、私の母親は、山中さんの奥さんと知り合った。
類は類を呼ぶではないが、この村に疎開している人たちは、不思議な感覚で、仲間意識を持ち、付き合うようになったようである。私の母親もその一人で、この下大塚に住む、東京から疎開してきたという人と親しくなった。その関係で、山中さんの奥さんとも知り合うようになった。
この村では、ほとんどの家がが農家であった。山中さんの家は、珍しく、農家ではなかった。家の前に、野菜を少し作るぐらいの畑は持っていた。庭がほとんどなかったので、庭が畑といってよかった。
山中さんは、六人家族で、父親、長男、そして長女の三人が、教員をしていた。次女は女学校の二年生で、次男は小学校の六年生ではなかったかと思う。教員一家といってよかった。
私は母を通じて、この家族と知り合うことにより、山中さんの家にある沢山の蔵書と付き合うことが出来るようになった。この家族とは、疎開してすぐに知り合い、東京に引き上げるまで付き合うことになった。
私は、山中さんは、何処かの学校の教頭をしているとか聞いていたが、山中さん本人とも、長男の先生とも、ほとんど顔を合わせたことがなかった。私が山中さんの家で本を借り、その家の裏にある防風林の根元に座って本を読んでいる時など、女学校から帰ってきた次女のお姉さんとは、時々顔を合わせることはあった。そんな時、奥さんが、私を呼んで、当時は珍しいお菓子を出し、お茶をいれてくれたりした。
奥さんは、身長の大きい人ではなかったが、次女のお姉さんも、長女の先生もスラリとした綺麗な人だった。長女の先生とは、滅多に顔を会わせることもなく、一言三言を話したに過ぎなかった。
私は、長女の先生が、村に駐屯している兵隊さんの一人と、親しく話をしている姿を、何回か見かけた。階級も上の兵隊さんで、話をしている二人は、とても楽しそうであった。私は、その時、二人の間に、何かあるなと感じていた。しかし、そのことを、誰にも話すことはなかった。
知り合って五年ほどして、奥さんは、子宮ガンになり、高崎にある国立病院で亡くなった。母は高崎の病院に見舞いに行ったようだった。
「もうだめだろう。もう先がない」
と、私は、母からその話を聞いた。
次女のお姉さんが、病院の帰りに、一度、私の家に寄ったことがある。その時彼女は、女学校を卒業し、美容師になるとかいっていた時だったと思う。
「母は、治療の時、痛がるので、見ていることが出来ない。治る見込みもないから、早く亡くなった方が幸せじゃないか。」
と、言っていた。今でも、その言葉が、私の耳の底に残っている。