東京の三河島で、焼け出されて、群馬県の”神の流れる村”の上大塚の上久保という集落に疎開することにより、住居としては、一応落ちつくことが出来た。しかし、一番困ったことは、父の働く場所のないことであった。


 元々、商人上がりの父にとっては、手に職もなく、商売のできないときは、陸に上がった河童も同然であった。しかも、大馬鹿が付くほど、馬鹿正直で真面目で人を裏切るようなこともしなかった。そんなお人好しのため、要領が悪く、自分の体を酷使して、お金を稼ぐしか方法がなかった。


 体を酷使するといっても、体力的には恵まれた体ではなかった。父親が兵隊に採られなかったのも、年を取っていたこともあるが、背も低く、小柄であるため丙種合格にもならなかったためでもある。

   

 東京にいた時もそうだった。統制経済の下、だんだんと商売ができなくなり、空襲で焼け出される直前には、近くの軍需工場に労働者として働きに出ていた。

 上久保の集落に住んでからは、貯えも底をつき、父は、知り合いの農家の手伝いをして、給金の換わりに、米や麦を貰ったりしていた。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、我が家は、その日暮しそのものの生活であった。幸いなことに、米の飯は食べることは出来なかったが、食事に事欠くことはなかった。

 

 そして、父は、私の顔をみると

 「金を稼げ。働け。」

 と、言った。面白いことに、おかしな諺をよく知っていて、時と場所と機会をとらえて、諺を使い分けた。私には

 「働くざる者は食うべからず」

 などと言った。今考えると、父の働けという言葉は、口癖であって、父親が、自分自身に言い聞かせている言葉なのだろうと思えるようになった。当時の貧しかった日本の親達に共通した言葉なのだろうか。


 父は、父なりに、そんな閉塞感を打破しようと考えていたようだ。

 終戦も間近のある日、藤岡の町の職業安定所から、ニコニコしながら帰ってきた。その時の父は四十五歳になっていたと思う。今の感覚でいえば、五十歳を越えたと思われるその父が

 「満州の開拓団に参加し、満州に行くことに決めてきた」

 と、言った。思いもかけず、誰に相談することもなく、思い切った行動に出てきた。

 今思うと、ぞっとするような決断だった。


 戦後、満州からの引揚者が、どんなに苦労をしたかは、皆の知るところでもある。未だに、中国からの”戦争孤児”の問題は、解決したとはいえない。引き上げの途中、自らの命を落とした者。可愛い子供を殺した親。可愛い子供を、中国の人に、養子に出した者など、悲劇は語り尽くせない。

 

 戦前、戦中、日本は、満州や蒙古に、満蒙開拓団という名の移民団を結成し、新天地を求めるという美名のもと、侵略の尖兵として、移民という名の棄民を行ってきた。これは、満州や蒙古の開拓のための労働力。国内の余剰労働力の海外移転という一挙両得の政策だった。


 今は逆に、モンゴルから相撲移民という名の出稼ぎ組みがやって来ている。相撲の出稼ぎ組みが、日本の風土に根付いて、日蒙両国の架け橋となってくれれば、国際交流として、こんなによいことはないと思う。そうなることを願っている。


 私の父親の申し込んだ、満州開拓団は、終戦という大事件によって立ち消えとなってしまった。制海権のなくなった関釜連絡船が、如何に危険なことかは判っていただろう。今も、南米移民という名の下に、不毛の大地に送り込まれて人々が国を相手に裁判を行っている。時に、国家という名のえたいのしれないものは大きな犯罪を犯すものだ。

 

 今、年金問題で、日本中が、国に対して不信感を抱いているが、これは今にこしたことではない。国家は、無知な国民を騙して、とんでもないことをするものだと考えておく必要がある。よほど、気をつけないと、官僚と、、政治家に騙されるということだ。肝に、肝に銘じて心に留めておかなければならない。


 終戦は、神の贈ってくれた最大の贈り物であると思う。

 本当に、間一髪のところで、助かった。 

 

 昔は、そのような父の生き方を、馬鹿に思えてしかたがなかった。しかし、今は、そんな生き方も、あっていいのじゃないか考えるようになった。

 ”騙されても、人を騙さず、馬鹿が付くほど馬鹿正直に肉体を酷使して働き、そして生きて行く”

 そんな父親を誇りに思えるようになってきている。


 小さなみよちゃんは、毎日夕方、三叉路の石柱の所にやって来た。

 一日中お婆さんと二人で居るので退屈し、小学校二年生のみよちゃんにとっては、寂しくて、話相手を求めて、石柱の所にやって来たのかもしれなかった。

 もしかすると、話し相手は、誰でもよかったのかも知れない。

   

 私は、みよ子ちゃんのことを、「みよちゃん」と呼んでいた。私にとっても、みよちゃんが居ると、何か安心でき、みよちゃんの言葉には、自分の意に反して、同調し、みよちゃんを喜ばせようとしている自分がいるのに気がついていた。幼くて、淡い恋だったのかもしれない。


 いつもは、身の回りで起きるたわいもない話を、二人で、夢中になって話をしていた。話し終わると、すぐに帰るみよちゃんが、その日だけは、何故かぐずぐずして帰ろうとしなかった。あたりも暗くなり、もうすぐ、午後の八時も、回ろうとしていた。その時、みよちゃんは、せっぱつまったように急に涙を流しながら

 「前橋の家が燃えてしまったの」

 と、いった。

 

 何時、どのように燃えてしまったかわからなかったが、前橋の家が焼けたということは、前橋にあるみよちゃんの家が空襲にあって、焼かれたのだろう。と、思った。

 その話を聞いて、私は、すでに、薄暗くなっていた空を見上げ、前橋のある赤城山の方へ目を移していった。心なしか、前橋にあたる空が赤くなって、燃えているように見えた。


 みよちゃんは、その話を一気にすると、落ち着いたらしく、

 「さよなら」

 と、いって、帰っていった。私も

 「元気でね」

 といって、別れた。

 

 これが、みよちゃんを見た最後となった。最後の別れでもあった。その後、みよちゃんは、石柱のところに現れることはなかった。集落の外れにあるお婆さんの家にも行ったが、みよちゃんを見ることはなかった。お婆さんに、みよちゃんはどうなったか、と聞きたいと思ったが、聞きだす勇気がなかった。


 一方、下大塚にある、山中さんの家の長女の先生と、兵隊さんとの親しげな話し合いは、順調にいっているようだった。


 そして、終戦後すぐに、長女の先生と、あの親しく話をしていた兵隊さんとが結婚し、兵隊さんは村に残った。下大塚のはずれにある、かって、村に駐屯していた兵隊さん達が自給のために円墳を壊したりして開墾したあの畑のすぐ傍に家を建て、そこで結婚生活が始まった。


 私が始めて見た、長女の先生と兵隊さんとの楽しそうな話し合いは、長女の先生と兵隊さんとの、大きな恋の始まりだったのだと思っている。

 

 私の知る限り、戦後、この村に残った兵隊さんは、長女の先生の夫以外にはいない。長女の先生の夫が、最初で最後なのだろう。太平洋戦争の末期、この村に、兵隊さんが駐屯し、対戦車対策に猛訓練をし、その中で、恋の花が咲いたことなど、知っている人も、少なくなってしまっただろう。これも、この村の歴史の一こまであったことに変りはない。


 その元兵隊さんの夫も、結婚後、勉強して教員の資格をとり、夫婦二人で、教員となった。教員をしながら、かって駐屯していた兵隊さんが開墾した、かなり広い畑を、休日を利用して、耕作していた。


 戦中、戦後を通して、私は、お二人に何回か会っている。元兵隊さんは、おだやかで、気品のある人だった。私には、兵隊さんと教員という落差に、奇妙な感じを抱いていたが、優しくて、落ち着きのある人だった。兵隊さんも、皆、普通の人間と同じだということを教えてくれた人でもある。


 何処の出身であるか聞くことはなかったが、畑を耕作しながら、疲れた体を休めて、汗をぬっぐていた姿を忘れることが出来ない。長女の先生には、子供が二人生まれ、教員を退職して、子育てに専念していた。


 結婚生活も束の間、三年ほどしてご主人が病気で亡くなってしまった。

 長女の先生は、再び、教職に戻り、子育てと、仕事の両方に懸命のようであった。

 しかし、夫を亡くした寂しさもあってか、子供を母親に預けまま、夜遅く帰ってくることが、多くなったと聞いたことがある。


 ご主人が亡くなった年から、二年間ほど、私は、長女の先生に頼まれて、春、夏、秋の農繁期に、学校が休みになる時、農作業の手伝いに行った。当時、この村では、農繁期には、学校が休みになり、家の手伝いをすることになっていた。私の家には、田んぼも畑もなかったから、長女の先生の手伝いは、今でいうアルバイトということになり、お小遣いをもらい、自分の好きなものを買うための貯えとなった。


 長女の先生と、二人で、草むしりをしていた時、先生は、私を一人前の大人のように扱い、人生の悩みを話したことがあった。

 先生の母親が

 「夜の帰りが遅い。何かあるのではないか。心配している。

 と、聞こうと思ったが、ついに口にすることは出来なかった。

 大切なご主人を亡くされて、切なくて、寂しくて、悲しいのだろうと思った。


 このお手伝いでは、食事を出してくれて、暑い真昼の時間は、昼寝の時間も与えてくれた。午前は「十時半」。午後は「三時半」。と言って、お茶の時間もあった。「お十時」とか「お三時」という人もいた。

 

 この農作業の手伝いの時、何時の時間帯に聞いたのか思い出せないが、全米水泳選手権大会のラジオの実況放送を聴いた。日本選手は六人参加していて、三人が入賞するという大戦果であった。今でも、耳を澄ませば、この実況放送を想いだすことができる。私は、この放送を聴いて、大変すばらしい歴史の瞬間に立ち会ったという想いがある。


 後に”フジヤマノトビウオ”と呼ばれた古橋広之進選手が、世界新記録で優勝した時は、長女の先生は

 「勝った。勝った。よかった。よかった。」

 と、三歳の息子と私を強く抱きしめて、喜びの声をあげた。


 ”フジヤマノトビウオ”は、戦争に負けて、心身ともに、打ちししがれていた日本人に、大きな希望と自信を与えてくれた。


 その時より、二年数ヶ月を経て、私が、この村を去るまで、長女の先生は独身で、子育てと農作業、教員の仕事と忙しかったようだ。

 

 私は、その時以来、みよちゃんとも、長女の先生とも、会ったことがない。今は、皆が、元気で、楽しい日々を送っていることを願っている。

 

 

 上久保の集落には、男女含めて、十五人ほどの小学生がいた。

 私と同じ学年の小学生が四人。その四人は、男の子が三人、女の子が一人。私より上の学年の子は五人。下の学年の子が六人ということになる。


 初めの頃は、集落の子との付き合いはなかった。別に寂しいと思わなかったが、いろいろなことを教えてもらえないことには参ってしまった。

 そんな時、この集落のはずれにある七十歳位の一人住まいのお婆さんの家に、孫にあたるかという女の子が、前橋の方から、疎開して来た。


 終戦も近かったと思う。親は、その女の子を、お婆さんの家に預けると、そのまま前橋に戻ってしまった。学校を転校させる訳でもないので、一時的な疎開だったのだと思う。女の子の名前は「みよ子ちゃん」といい、小学校の二年生で、私より一学年下だった。


 みよ子ちゃんは、寂しいのか、上久保の集落の入口にあたる三叉路の所にきては、よく一人で遊んでいた。この三叉路の一つの道は藤岡の町へ、一つは中久保の集落へ、残りの道は、私達の住む上久保の集落の入口にあたる道だった。三叉路は、一種の広場で、毎年一月の十五日に行う道祖神のドンドン焼きの櫓を建てる場所でもあった。


 上久保の集落への入口の道幅は、この部分だけが特別に大きくなっていた。集落に入る道の両端には、祭礼の時に立てる登り旗の基礎の石柱があった。この石柱は、一メートルと二メートル位の大理石の石柱が一対で、道の両端に一対づつあった。


 みよ子ちゃんは、この大理石の石柱に寄りかかるようにして、遠いところを見ていることが多かった。家族の住んでいる前橋の方向らしかった。小さなはぐれ者たちは、時間もかからずに、自然に親しくなった。そして、毎日の夕方、大理石の石柱で会うようになった。


 私の家から,その石柱までは、ものの一分とかからなかったが、みよ子ちゃんの家からは五分はかかったと思う。私は、夕方、みよ子ちゃんの来る頃をみはらかって石柱のところに出かけた。みよ子ちゃんの姿が見えないと、妙に寂しかった。姿が見えると、不思議に安心できた。焼け出されて、三河島を離れる時に感じて以来の感情であった。


 みよ子ちゃんは、在方の子と違って、確かに垢抜けのした、小さくて可愛いく、街に住んでいる女の子であった。しかし、会うと、小さなみよ子ちゃんは、自分の家のことを自慢したり、判りきった嘘をついた。嘘と自慢をすることによって、寂しい自分の気持ちを奮いたたせているのかのようにもみえた。


 私は、見え透いた嘘とわかっても、何故か、みよ子ちゃんを許してあげなければと考えた。毎日毎日会って、一日の出来事とたわいもない話をした。

 

 その後、大きくなって、時々、嘘をつく女の子に出会った。それらの女の子は、小さかったみよちゃんと同じように、小さな時から自身を美化するために、嘘と知らずに自分自身を騙しているのかなと思ったりした。嘘という意識がないのだな。ということを、感じる瞬間でもあった。


 可愛いみよちゃんとの出会い日々は、遠い幼い日の、わずかに、一月間にも満たない時間であった。しかし、今でも、つい昨日の出来事のように、強烈に想い出せるのは、辛い日々の中の楽しい一瞬だったからだろうと思っている。