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私達が、関鼻さんに家を借りたのは、昭和二十年の三月の末か四月の初めだったと思う。着るものは、空襲にあって焼ける前に、たまたま疎開させておいた荷物の中に、何年か分の着つなぎのできるだけの衣類が入っていた。
衣食住とは、よく言ったものである。住む所も、何とか確保することができたが、農村という、当時では食料のある場所におりながら、お金がないということだけで、食料を十分に手に入れることが出来なかった。
当時の農村の人々も、お金という不安定なものよりも、生活に役立つ物を欲しがっていた。日本全体、どんな物でも、すべてにわたって、物資が不足をしていた。そんな中にあっても、どういう伝手を頼ってか、母は、我が家のなけなしの衣類を持って、お米や、小麦粉、サツマイモ、ジャガイモなどと交換をしてきた。母は本当に強かった。当時は、こういうことを物物交換と言っていっていたが、本当に、やるせない時代だった。
物のあるうちはよいが、なくなってしまったら、それでお終いである。それで、当時、そんな生活を、人々は
”竹の子生活”
と呼んでいた。よく考えてみると、竹の子は皮が剥がれて、大きく成長できるが、貧しい私達は、身包み剥がされたところで、成長できなければ、それでお終いになる。この集落にも、疎開して来た人がいて、竹の子生活で立ち行かなくなった人がいた。そのことについては、又別に話をしたいと思っている。
終戦の年の、五月の末か、六月の初めの頃だったと思う。
何時もは聞こえる、関鼻さんの家の真紀野さんの織る、機の音が聞こえなくなった。その理由を暫くして知ったのだが、長女の民野さんが、満州から里帰りして来たのである。満州とは、現在の中国東北部のことである。
この戦争の激しい最中、何故、危険を冒してまでも、満州から里帰りしたのか、理由はわからなかった。機の音の消えた日から、民野さんは、機織機のある部屋に居て、外に出ることもほとんどなく、帰省の日から、終戦間際に、満州に帰るまで、その部屋にひっそりと住んでいたのだった。
私は、その部屋で、着物を着た民野さんが、正座に近い状態で座って、縫い物をしていたのを見たことがある。民野さんは、私に向かって、声もださずに軽く会釈をした。それが、民野さんを見た、最初で最後のことである。一言くらい話をしたかも知れないが、私の記憶にはない。影の薄い、寂しそうな人だったと覚えている。
三女の藤野さんは、戦後すぐに、藤岡の町のサラリーマンの家に嫁いで行った。関鼻家では、盛大な結婚式が行われた。田舎でみる初めての結婚式で、夕方から夜更けまで、延々と披露宴が続いた。
後で、藤野さんは、私の母に
「母親のいない娘は哀れなものなのよ。嫁入り道具も、本当に竹行李一つだったのよ。」
と、言っていた。嫁いだ家も知っていたので、何回もその家の近くに行ったが、遂に寄ったことも、声をかけることもしなかった。長屋の一軒で、甲斐甲斐しく働いている藤野さんを、遠くから見ることがあった。長屋のおかみさんになったなと思った。
父が、群馬藤岡駅の近くにある職業安定所で、満州の開拓団に入団するよう勧められたのは、終戦の年の七月の末だったと思う。入団の手続きや、支度をしているうちに、八月の十五日が来て、そのまま満州への移民は消えてしまった。
一方、関鼻さんの長女、民野さんは、七月の末には、しっそりと、満州へ旅たって行った。何のために、里帰りしたかは遂にわからなかった。危険な本土を、危険な海を、どのような気持ちで、渡って行ったのだろうか。寂しそうな姿と共に思い出すのである。
これも、大分時間の経ってのことである。無事に、日本に引き揚げて来たと聞いている。引き揚げにどのような苦労をされたかわからないが、本当によかったと思っている。
行く者。留まる者。人生って、本当に悲喜こもごもで、先は見えないものである。
人生ってそれだから面白いと言いたい所だが、天国と地獄は紙一重だなと思う。
私の大家の関鼻さんのことについて、少し、話しておこう。
我が家が、住まいを借りたときの、関鼻さんの家族は、六十五歳は越えた思われる家長の梅次郎さん、今の目で見れば、赤銅色に日焼けした肌と、顔に刻んだ深い皺から、七十歳は越えているように見えた。この集落の人は、関鼻梅次郎さんの”関”と”梅”をとって、”関梅”さんと呼んでいた。
それに、二十歳は越えたと思われる四女の真紀野さん、二十五六歳位の三女の藤野さんの三人家族であった。
しかし、実際は、一男四女の六人家族で、長男の富太郎さんは戦争にとられて外地に行っていた。長女の民野さんは、満州へ嫁に行っていると聞いていた。次女の吉野さんは、東京で看護婦をしているとか聞いていた。関梅さんの奥さんが、何時亡くなったかは知らない。その後、関鼻家の四人の姉妹とは、別別の機会に、顔を会わすことになった。美人の四姉妹であった。しかし、年齢については、何回か聞いたと思うのだが、興味がなかったのか、記憶をしていない。
群馬県には「かかー殿下に空っ風」という言葉がある。上州の女は養蚕、農業とよく働くので、この言葉がついている。関鼻家の女達もよく働いた。
三女の藤野さんも、四女の真紀野さんも、一日中、くるくると動き回っていて何らかの仕事をしていた。蚕の季節は、蚕の飼育を。秋から冬にかけては、麦作の仕事を。初夏から秋にかけては、稲作の仕事をと。その間、畑の仕事。農閑期には、繭から絹糸を紡ぎ、染色し、その糸で反物を織っていた。
三女の藤野さんとは、ほとんど話したことがないが、四女の真紀野さんとは、よく顔を会わし、話もした。農閑期の時間のゆとりのある時、玄関とは別の、母屋の東側にある出入口のところで、繭から糸を紡いでいた。この出入り口は外にあるトイレに行き来するためのものでもあった。
真紀野さんは、大きな練炭七輪に、大きな鍋をかけ、そこに水をいれ、ぬるま湯の状態にした。その鍋に沢山の繭を入れ、その中の一つの繭から一本の糸を取り出し、十個位の繭の糸を一本の生糸に紡いで、糸車に巻いていた。
一個の繭から、何メートルの糸が取れるか知らないが、一つの繭の糸がなくなると次の繭へと、器用に継ぎ足して、巻き取る糸には継ぎ目がなかった。私は、トイレに行く時、もくもくと仕事をしている真紀野さんの姿を、よく見かけた。時には、そこに立ち止って、真紀野さんが、糸車をゆっくりと回しながら、繭から糸を紡ぎ、巻き取る姿を、飽きもせず眺めていることもあった。
糸車に、ある分量を巻きとると、それを一つの束にして竿にぶら下げていった。この糸の束がある程度まとまると、この束を染色して、母屋の軒先に吊るした。日陰干しをし、反物になるだけの束が出来ると、糸を庭の端から端に張って、機織機にかけられるようにしていった。
何故か、糸は、いつも紫色に染色され、出来上がった反物も、紫の反物が多かったように思う。一つの反物が出来上がるまでには大変な時間と労力がかかるのだなと思った。蚕を育てることも、大変な仕事であった。
真紀野さんは、時間のある時は、母屋の西側にある、機織機の置いてある部屋で、機を織っていた。横糸の船を、紐を引っぱって移動させると、ぺタルを起用に踏んで、縦糸を交互に交差させた。障子戸を閉めていても、その音を聞くことによって、機を織っていることがわかった。
真紀野さんと、時々は話をしたが、私から話しかけない限り、話しかけてくることはなかった。いつも能面のような顔をしていて、感情を表すこともなかった。私を、小さな子供で、話相手にもならないと思っていたのかも知れない。後年、こういうタイプの女の人を何人か見たことがある。真紀野さんも、確かに、そんなタイプの一人である。
真紀野さんについては、真紀野さんの、面白い秘密を知ってしまったことがある。
関鼻さんの、東側の出口と、外のトイレとは向き合っていて、距離は二メートルと離れていない。トイレは小便用の肥溜めが二つと、大便用の個室よりできている。この小便用の肥溜めには、私の妹が、冬の寒い日に、落ちたことがある。
私が、大便のため個室に入っている時、急に夕立がやって来て、大粒の雨が落ち始めた。私は、大便をしながら、個室のトビラの板の隙間を通して、雨の様子をうかっがていた。
すると、トイレに行こうとした真紀野さんが、トイレまで二メートルと離れていないのに、激しい夕立のためか、母屋のトビラを開けたまま、着ていて着物をお腹のところまで巻くりあげ、膝をすこし広げてしゃがみ込み、表に向かって、放尿を始めた。私に向かって、オシッコをしているようなものだった。私が、トイレに入っていて、大便をしているなんて知らなかったのだろう。
隙間を通して見ているとはいえ、真紀野さんの白い肌と、黒々とした陰部、そして勢いよく飛び出すオシッコが、妙に艶かしく感じられた。おかしな秘密を知ってしまったものだとも思っている。その後、真紀野さんの顔を見るたびに、その時の光景が想い浮かんでくるのである。
真紀野さんには、まだ幾つかの想いでがある。次の機会に話をしてみたい。
若い女の人の秘密を知ってしまったという意味で、これと、同じようなことを、高校生の時、山手線中で、経験している。
二十五歳位の綺麗な女の人だった。そんなに混んでいる電車ではなかったが、その女の人は、連結器の傍の、私の座っている座席の前に立っていた。その人は、急にもじもじ始めたかと思うと、身に着けていた赤いスカートの下から、黄色い液体を流し始めた。足元に小さな水溜りが出来た。
病気だったのだろうか。急なことで、耐え切れなくなったのだろうか。失禁をしたようだった。その女の人は、当惑と好奇な周囲の人の目を気にして、恥ずかしさに耐え切れず涙を流していた。
その時、前で座っていた私は、何故、その人を連結器の中に入れて、周囲の好奇な目から、離してあげなかったかと、今でも、悔いが残っている。
その後、二回ほど、同じような経験をしたが、その時は、すぐに助けて上げることが出来た。