嘗て、催涙弾とか放水とか楯だとかと向き合っていた時代の総括として、どのような「政権」であったとしても、『権力構造』という宿命を孕んでいることを忘れては欲しくないと願うばかりです。
ミャンマーの軍事政権が、アウン・サン・スー・チーさんを何度も自宅軟禁処分にしている。
この現象を見た時に、たいてい多くの人々は何を思うのかと言えば、「こういう政権を許せない」と思い、「アウン・サン・スー・チーさんを釈放、救い出したい」と思うでしょう。
そう思ったときに人々の胸中には何が走るでしょうか
過去何度も同じような自宅軟禁を繰り返す政権に対して、話し合いで解決出来きると思えるでしょうか?
話を聞いてくれるような相手だと思えるでしょうか?
多分、多くの人々は違うでしょう。
では何を思いますか?
そう…一瞬でも、武力と言う、「力の行使による奪還の図」を描かない、と言ったら嘘ではないでしょうか?
思わず「武力行使」を思い描いている心根を正直に見つめるべきでしょう。
これは、対立構造の象徴です。
そして…こちらの側から見れば『奪還』でも、あちらの側から見れば『略奪』なのです。
そう…物事には『両面』があります。
この「二律相反性」という哲学は、人間界の価値観です。
さて…こういう国際的に憂うべく事柄に対して、中立的立場と称される国連は、こういう事柄であっても、「非難」では無く、「憂慮」というマスコミ向け声明しか発せられない。
ここに現状の国際連合の「機構の命題」があります。
何故「命題」か。
それは、「非難」できずに「憂慮」だからです。
さて…こういう事象を睨みながら、米国アメリカは、「世界の警察」と自認している経緯から、より強い、「勧告」という声明を通して、何がしかミャンマー政権に対して所謂『恫喝』をかけています。この『恫喝』の裏側には、『軍事による武力行使』…という図があることはお判りでしょう。
これは、平和主義者と思われているオバマ氏が、アメリカ合衆国大統領であっても、現状の構図は描かれているという現実です。
もちろん、行使の有無は賢明な判断のもとで回避されることを願うばかりです。
そこで考えてみたいのです。
「『行っても良い武力行使』という思い方、考え方を認められるだろうか?」ということです。
私見としての結論は、「武力行使」は『悲しみの連鎖を促す』ので、どういう事柄であっても一切認めないと決しております。
歯がゆいかもしれませんが、国連は、世界各国の自立的国政運行に対して「内政干渉をしてはいけない」という命題と「生命の問題」を天秤に掛けて結論づけることが出来ないという現実を所持しております。
内外共に、生命、平和を守るためには、外交努力(交渉能力)という力がいかに大きいかを知るべきでしょう。
一方で、日本の平和ボケした、なんでもかんでも「自由、自由」と主張のできる国家に生きていることで、この「自宅軟禁」という手法と事象の本質が見えているのかも、検証しなければなりません。
まず…これだけ国際世論が注目する構図に置かれていることで、スー・チーさんは、「投獄」もされず「暗殺」もされず、それも「自宅」に居られるということで、あの美しい笑顔を世界に披露できている、ということを冷静に見つめてみましょう。
ミャンマーの軍事政権のような、非人道的と見られる国家政権に対して、悪戯に「怒り」を所持し、「弾圧だ!」と反対運動にて気勢を挙げるのはたやすいことです。
しかし、ミャンマー国内において何が起きているのか…を客観的、冷静に俯瞰的に見てみると、ミャンマーに生きる人々が、少しづつデモクラシー力を蓄え、軍事政権を、力では無く自分たちの抵抗する姿とスー・チーさんの不屈の対話を通しての議論のエネルギーにより変革しつつある、微力に見える変化の兆しがあることです。
軍事政権側の対応に関して、微々たる変化を来たしている事にお気づきでしょうか?
国際世論という注視力をバックに、不屈に闘い続けているスー・チーさんの姿こそ、安易に対立構造を持ち込ませず、「愛と義」を貫く見習うべき示し方だと感服です。
そろそろ人類は、拙速にことを運ぼうとすることの過ちに気付かなければならないでしょう。