日本の芸能人-タレント-俳優、取り分けこの度の覚醒剤騒ぎの酒井法子さんの取調べ状況ということで、本人の供述がいちいちニュースになっている。


どういう経緯で覚醒剤と出会い、どういう風に吸引していたとか…どうしたとか、かにしていたとか…


警察の取調べ状況を、いちいち、大きくニュースで取り扱うことにどういう意味があるのか…


覚醒剤という物(ぶつ)が、人体にとって、また社会的に悪いもの-認められないものとしてのキャンペーンとして取り上げているというより、単に、興味本位な内容ばかりにしか聞こえてこない


この国政の大事な曲面にこういう事柄を、大きくニュースで取り上げている意図はどこにあるのか疑念ばかりが膨らむ


あの天下のNHKでさえ、大きく枠を取って報道している実情に、首を傾げたくなる


もっと取り扱うべき、国民の抱えている多くの世情の問題にメディアとしての掘り下げる視点を持つべきではないか…


警察の取調べにおける本人の供述を流布することにどんな意味があるのだろうかパンチ!

日本文化は、言語体系的に、yes,noという二者択一性の思想哲学に裏付けられている文化とは異質なので、○×式の二律背反的に物事の選択を迫ることに違和感、異和観を覚え、異質に感じる


否、この二律背反的思考にはとても危険を感じる。


これは嘗ての歴史を総括した時に、第二次世界大戦参戦突入当時、「国を挙げて…」という気運の基に、国民一人一人が総動員されて行く構図。

そして敗戦(終戦)後、アメリカ統治による、戦前教育の全否定から及ぶ、日本的と言われる文化、伝統までをも「墨消しされた」時代の構図。

両方の時代を思い起こさせるからである。


ブレナイことは、本当に正しいのだろうか?


ブレナイということは、それは真っ直ぐかもしれないが、折れやすい…ということでもないか?


一斉に全てが真っ直ぐであることは、全てが画一的であり同じであり統率の取れた均衡という、それは一瞬美的に見える目


そう…それはあの北朝鮮の軍事パレードの兵士たちの足並み

そう…それは嘗てのナチスドイツの兵士たちの挙手

…が思い起こされる

ナチスは軍国主義からの出発では無い。

社会主義を標榜するところからの出発であったはずだ。


この美は、その真っ直ぐさにそぐわない、当てはまらないものを排除する排他的、硬直性を所持する


つまり、ブレナイ事は、表面的には正しいことの様に見えるが、多様性の否定でもあることも認識しなければならない。


多様性の否定は、弱者の否定にも連なる。


そのことの本来性を理解できているのだろうか?


「ブレナイこと」「正しいということ」整理して区分けしなければならないだろう


みんなで一斉に、「ブレナイ」という『否定の論理』に乗っかって、「政権交代」という気運に乗り、日本の本質的に多様な価値観とタオヤカサを尊重し、柳と風の風情に情緒を感じ、心豊に育んできた伝統的文化価値観をかなぐり捨てるような、こういう選択の迫り方の今で大丈夫なのだろうか?


○×式の二律背反的欧米論法で日本を変えようとすることに無理はないか?

日本人的に一番苦手な選択手法になってはいないか?

混乱と困惑は、正しい判断からは遠くなる。


米国追随を非難、否定しながら、変革の手法を欧米的論法で迫っている矛盾に気が付きませんか?


米国批判をしながら、米国の大統領はステキでカッコ良くて正しくて…でもアメリカ追随は駄目…


鎖国的ナショナリズムで外交政策を迫ったり、都合の良い時だけアメリカ文化を踏襲し、都合の悪い時にはアメリカ政府の政策非難、批判をし…


こんな風に日本国は、良いも悪いもブレまくってこの地球に存在している。


政治の文化的、思想的体系の検証をしないまま、ただひたすらに走ってきただけの国なのである。


この国を、否定の論理で改革するのでは無くヤジロベイのようにバランスを取りながら改革していくことが、今こそ問われていることではないだろうか


ブレルことは悪では無いと考える。


なんで、ヤジロベイという玩具が日本に或るのか。


日本文化の特色は、良いも悪いも鷹揚である。だから…今、『洗濯』が必要なほど、歪と垢が溜まってしまったのだろう。

良ければ柔軟。優柔。

悪ければ不断。


この『ヤジロベー的大きな視点』による交代、という構図は認めることは可能だが、者択一の『否定の論理と風向き』で、国民が一斉に顔を並べて同じ方向を見ているような構図が、きな臭い叫びわんわん



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テレビドラマだが、豊臣秀吉時代末期に大名たちに涙の国替え強いていた場面を見ながら、怒りが湧いてきた。むかっむかっメラメラ


これからの話は現実の話だ。目


多くの地域に対して、自分の町の名前が無くなることを、涙を呑んで、嫌々納得せざるを得ない国策強いて来ながら、今更…「地方分権とは、現場市町村単位に対する分権だ。地方に権限を渡すことだ…」と、どうして言えるの叫びドクロ


国民を愚弄するのもいい加減にして欲しいドンッドンッメラメラメラメラ


このことを主張している方々も、嘗ての国会審議に参加し、積極的に進めて居た側でも居るはずですよね!!ダウン


政権が替わったら、これってどうなるの…責任持って元に戻してくれるわけぇ~むっ

この不況期に国民誰もが経済的に困窮している渦中において、どうしてどなたも、みずからの「議員報酬」の削減か返上を進言する議員が一人としていらっしゃらない事が、とても…不思議です…パンチ!

(みんなの党さんがいらっしゃいましたネあせる失礼いたしましたあせる8/26)



そのことが話題にならないことも…不思議ですむかっむかっパンチ!

今、日本の政治家の理想像的存在の米国オバマ大統領は、保険医療改革問題に着手し始めたところ、反対勢力の国民たちから猛反対議論をしかけられている。


「何でも自分の自由」-金の使い方まで国にどうこう言われたくない。

バックに保険料を企業収益としている保険会社の姿もチラホラ見え隠れしている…目


さて…医療を必要としている国民を多額な負担の構造から救いたい…と想っている大統領の思惑を理解させることが出来るだろうか!?


「公職選挙法」という既成の法律ザル加減とそのザルの目を掻い潜って平気で法律を犯し、破っていることにもシカトをし、黙認されている現実。むかっ


この「公職選挙法」という法律を守れない人々が、立法府「国会」に居るという現実。むかっ


このことの社会的通訳内容準備中!メラメラ


乞う!ご期待ひらめき電球

ベルリンの壁の崩壊の意味をよぉ~く考えてみましょう目


社会主義国家が人々から疎んじられる本質はどこにあったと思いますか?


自由であるということと、反体制を唱えるということを分けて考えるべきです叫び


我が国の人々の内にある、擦り寄りと持たれ合いの精神構造が、全ての既得権益という権利主張と利益誘導、シガラミという拘束と束縛を生み出し、織硬直と制度疲労を招く


「公」という『おおやけを見渡すこと』より、「私」という『自分の状況しか思いを廻らすことしか出来ない、「私物化意識の蔓延している文化風土」において、軽はずみな自由そうな反体制を唱えることで、さもそれが正義であるかの如くの風潮をつくりだす宣伝に騙されてはならないむかっ

そのものの語る政策とやらも、鵜呑みにしてはならないむかっ


官僚国家から政治優先という甘い言葉の影には、逆説的管理統制の臭いがプンプンするドクロ


『悪い奴』と『危険な奴』は違う


ということも考えてみませんか!?


今こそ、国民として、自己責任自立、そして…分かち合いのワークシェァリングの議論こそ、この国の行く末を見渡す議論だと考えます。


国家ビジョンを語れない、明示できない政治家を選び、頼って来た自分たち自身が反省し、立ち上がらなければならない…と


これが、現体制に対する、真の反体制運動と正義です爆弾

仕組みは骨格、体制はボディ、制度は筋肉


我が国は自由市場競争原理という仕組みに根ざした『資本主義』経済体制であることを、国民誰一人否定できない現実を認めないと…


自由に競争すると差が出るでしょ…


この体制にて経済活動をおこなっている現実の上に立って、「格差を悪」とする評論こそ、滑稽


このボディを支える強靭な筋肉をつけることに努力と工夫をするのか…目


いっそのこと、ボディを替えるのか…


シビアな議論こそ必要叫び


中途半端な社会主義経済論者が政治家風だから厄介であるむかっ


「自由、自由」と主張する根幹と社会主義という『統制管理社会』を切望する矛盾を隠して、ごまかしの論理とイメージとムードで国民を扇動して頂きたくはありませんむかっ

嘗て、催涙弾とか放水とか楯だとかと向き合っていた時代の総括として、どのような「政権」であったとしても、『権力構造』という宿命を孕んでいることを忘れては欲しくないと願うばかりです。


ミャンマーの軍事政権が、アウン・サン・スー・チーさんを何度も自宅軟禁処分にしている。


この現象を見た時に、たいてい多くの人々は何を思うのかと言えば、「こういう政権を許せない」と思い、「アウン・サン・スー・チーさんを釈放、救い出したい」と思うでしょう。


そう思ったときに人々の胸中には何が走るでしょうか


過去何度も同じような自宅軟禁を繰り返す政権に対して、話し合いで解決出来きると思えるでしょうか?

話を聞いてくれるような相手だと思えるでしょうか?

多分、多くの人々は違うでしょう。


では何を思いますか?


そう…一瞬でも、武力と言う、「力の行使による奪還の図」を描かない、と言ったら嘘ではないでしょうか?

思わず「武力行使」を思い描いている心根を正直に見つめるべきでしょう。

これは、対立構造の象徴です。


そして…こちらの側から見れば『奪還』でも、あちらの側から見れば『略奪』なのです。

そう…物事には『両面』があります。


この「二律相反性」という哲学は、人間界の価値観です。


さて…こういう国際的に憂うべく事柄に対して、中立的立場と称される国連は、こういう事柄であっても、「非難」では無く、「憂慮」というマスコミ向け声明しか発せられない。

ここに現状の国際連合の「機構の命題」があります。


何故「命題」か。

それは、「非難」できずに「憂慮」だからです。


さて…こういう事象を睨みながら、米国アメリカは、「世界の警察」と自認している経緯から、より強い、「勧告」という声明を通して、何がしかミャンマー政権に対して所謂『恫喝』をかけています。この『恫喝』の裏側には、『軍事による武力行使』…という図があることはお判りでしょう。

これは、平和主義者と思われているオバマ氏が、アメリカ合衆国大統領であっても、現状の構図は描かれているという現実です。

もちろん、行使の有無は賢明な判断のもとで回避されることを願うばかりです。


そこで考えてみたいのです。


「『行っても良い武力行使』という思い方、考え方を認められるだろうか?」ということです。


私見としての結論は、「武力行使」は『悲しみの連鎖を促す』ので、どういう事柄であっても一切認めないと決しております。


歯がゆいかもしれませんが、国連は、世界各国の自立的国政運行に対して「内政干渉をしてはいけない」という命題と「生命の問題」を天秤に掛けて結論づけることが出来ないという現実を所持しております。


内外共に、生命、平和を守るためには、外交努力(交渉能力)という力がいかに大きいか知るべきでしょう。


一方で、日本の平和ボケした、なんでもかんでも「自由、自由」と主張のできる国家に生きていることで、この「自宅軟禁」という手法と事象の本質が見えているのかも、検証しなければなりません。


まず…これだけ国際世論が注目する構図に置かれていることで、スー・チーさんは、「投獄」もされず「暗殺」もされず、それも「自宅」に居られるということで、あの美しい笑顔を世界に披露できている、ということを冷静に見つめてみましょう。

ミャンマーの軍事政権のような、非人道的と見られる国家政権に対して、悪戯に「怒り」を所持し、「弾圧だ!」と反対運動にて気勢を挙げるのはたやすいことです。


しかし、ミャンマー国内において何が起きているのか…を客観的、冷静に俯瞰的に見てみると、ミャンマーに生きる人々が、少しづつデモクラシー力を蓄え、軍事政権を、力では無く自分たちの抵抗する姿とスー・チーさんの不屈の対話を通しての議論のエネルギーにより変革しつつある、微力に見える変化の兆しがあることです。

軍事政権側の対応に関して、微々たる変化を来たしている事にお気づきでしょうか?

国際世論という注視力をバックに、不屈に闘い続けているスー・チーさんの姿こそ、易に対立構造を持ち込ませず、「愛と義」を貫く見習うべき示し方だと感服です。


そろそろ人類は、拙速にことを運ぼうとすることの過ちに気付かなければならないでしょう。