京都市内の中心部から、ほんの少し大阪側に下った場所に、鴨川を跨ぐ『七条大橋』が架設されています。
なんの変哲もないコンクリート橋にも見えますが、とても歴史があり、貴重な土木遺産になります。
その年齢は、このブログを書いている時点で109歳にもなり、当時としては、とても画期的な鉄筋コンクリート橋だったそうです。
さて、明治末期から大正初期にかけて、京都市内では三大事業と呼ばれるインフラ整備工事が進められていました。
その三大事業とはいったい何なのでしょう。そして、それが必要になった理由は何だったのでしょうか。
京都市内は、明治維新からしばらくは昔の都という事もあって、それなりに近代化が進められていました。その後は、日清・日露戦争など戦争が勃発する中で、手厚いインフラ整備がどんどんと、軍事都市や地方主要都市に移行していった様です。
相対的に京都の地位が低下してきた事により、インフラ整備の老朽化や、人口の増大などに対応できなくなってきました。
そこで、京都市の二代目市長となった西郷隆盛の息子である、西郷菊次郎が「京都三大事業」と銘打って、推進していったと京都市のホームページに書かれていました。
今回は、京都市三大事業の③道路改築工事で建設された『七条大橋』を、たっぷりと愛でたいと思います。
この七条大橋ですが、橋梁台帳によると明治44年に着工し、大正2年に完成しています。その期間は、わずか1年と4か月。現代と違って、便利な建設機械もなかった時代に、よくこれだけの大きな橋が、短期間に架けられたなあと思いました。やはり、京都の威信をかけた大プロジェクトだったのでしょう。
資料を調べていたら、『京都市三大事業誌 道路拡築編』といった工事決算書がありました。
中身を読んでみると、橋梁の工事費なんかも書いてありました。その金額は、およそ17万円です。今の金額ではどれくらいなのでしょうか。橋梁の面積が750坪とありましたので、およそ2475㎡になります。
橋梁の値段を、仮に50万円/㎡(ネット調べた概算金額なので根拠なし)と仮定したら、約12億円くらいになるのでしょうか。
京都市三大事業で造られた大型橋梁ですが、ここと、四条大橋の二橋がありました。しかし、四条大橋は昭和10年の大水害で甚大な被害を受け、撤去されています。
その時の大水害ですが、京都だけではなくて全国規模だったようです。内務省土木局に資料が残されていました。
地図で、青色に塗った部分が浸水していました。川に沿って、かなりの範囲が浸かっています。よくみると、御所なんかは助かったようですが。
その水害で破壊された四条大橋の最後の姿が残されていました。
また、堤防上に設置された京阪電車も、大きく洗堀されて凸凹になった姿が強烈です。
この時ですが、上流側の四条大橋は壊れて、その下流側の七条大橋が無事だったのは何故でしょうか。
その原因を調べていると、四条大橋の橋面まで河川が増水した関係で多くの流木等が橋にひっかかって門を閉じたようになったようです。いうなれば、橋がダムになった感じだったようです。
川の中に突然ダムができたら、その周辺から水が堤防から溢れだす・・・
やはり、水害と言うのは恐ろしいですね。
そういった理由で、現在に残る橋は七条大橋ただ1橋となるので、そこのあたりも貴重な土木遺産だといえると思います。
ただ、完成から109年が経過していますが、すべてが当時のオリジナルでは無いようです。改変されているのは、欄干(高欄)になります。
建設当時のオリジナルは、鋼製(鉄製)の高欄が使われていたようなのですが、太平洋戦争末期に金属供出命令によって、取り外されたようです。
当時の図面から、高欄と親柱などの意匠が、なんとなく想像つきます。とてもカッコよくて、京都の中心に相応しいものだったのではないでしょうか。
こんなところまで、戦争の影響があるとは・・・戦争というのは、直接的な被害が無くても、間接的に被害があるものなのですね。
金属供出後から、木製の高欄になり、その後は幾度か取り換えらた様なのですが、最終的には昭和62年に、現在のデザインの高欄になっています。
この高欄のデザインですが、『三十三間堂の通し矢』をモデルにした、”矢車模様”だそうです。
まあ、そういわれると矢に似ている感じもしますが、それほどでもないような・・・
あらためて、三十三間堂の通し矢の絵を見てみます。
絵をよく見ていると、的に刺さった矢と、抜き取られた矢の後ろの部分が、たしかに七条大橋の高欄の意匠に似ています。
なるほど、納得です。
現地の説明看板には、三十三間堂の通し矢をモチーフにしたと書いていました、調べていくと、御所で使われていた車輪もデザインに関係していたようです。
ここで、思い出しました。
もしかしたら、仙洞御所で見た戸袋の絵ではないでしょうか。
こうやって比較してみると、たしかに似ています。
七条大橋の高欄は、御所の車と、三十三間堂の通し矢の両方をモチーフにした、京都の歴史をモチーフにした洗練された意匠だといえるのではないでしょうか。
最後に、七条大橋の不思議な部分の紹介です。
建設当初は、6径間連続のコンクリート橋でした。当時の図面を見ても確認ができます。
ですが、現在は5径間になっています。
老眼が進んでいますが、5径間は間違いありません(笑)
径間数が6から5に減ったのは、冒頭で紹介した、昭和10年の大水害に関係がありました。
水害後の復興計画で、京阪電車の地下化を行ったようです。地下化をすると、線路の洪水時に路盤の流出リスクがなくなり、また、交通渋滞も解消する事ができるという見込みで、事業を進めたとありました。
ここまで書いて、疑問が発生。
橋梁を6径間から5径間に減らすという事は、川の幅が狭くなって洪水に弱くなるのでは?
京都市のホームページによると、川底を浚渫して、コンクリート護岸を造るなどの対策を行い、より洪水に対して強くしたようです。
なるほど、納得ですね。