竹富島では,レンタサイクルで島内をめぐるといった観光の楽しみがあります。
自転車を借りる方法ですが、石垣島からのフェリーを降りたら、多くのレンタサイクル屋さんが待ち受けています。その中の店を適当に選ぶと、そのままミニバスに乗せられて、集落群の中まで連れていかれます。
そこで、自転車を選ぶのですが、電動自転車から子供用の自転車までたくさんが置かれていました。おすすめは電動自転車らしいのですが、竹富島はあまりアップダウンが無いと勝手に自分で判断。いわゆる、ママチャリを借りて島内散策にでました。
結果的に言えば、フラットな地形の竹富島ですが、これが予想に反して自転車レベルではアップダウンが激しいです。フラフラになりながら自分で漕いでいました。正直言って、電動自転車が絶対にお勧めです(笑)
伝統的集落を見学後は、特に目的がありませんでした。西桟橋と呼ばれる文化財があると観光マップに書かれていたので、なんとなく見に行くことにしました。ただ、集落からはひたすら下り道です。
帰りの上り坂が気になって、途中で引き返そうかと、何度も思ったくらいです。そして、西桟橋は突然目の前に開けました。
私が見たのは昼一番でしたが、ここは夕日が有名なポイントの様です。ですが、こういった土木遺産は暗くては全貌が見えません。やはり、昼間で晴れが似合います。
西桟橋をジックリと観察して、寸法などを測っていると、登録有形文化財に指定されているプレートがあることに気が付きました。
その情報から文化庁のデーターベースで調べみました。
それによると、西桟橋は竹富島に初めて造られた近代的桟橋です。
延長約105m、幅員4.4mの土木構造物であり、内部は琉球石灰岩の乱積みで、その周辺をコンクリートで覆ったもののようです。
昭和13年に完成して昭和46年まで使われていたとありました。
桟橋の先端は、海中に潜っていくようなスロープが取り付けられています。これは、干潮の時の荷揚げで使用できるようにと、工夫しているようです。
近くには、この西桟橋の説明看板がありました。その内容を要約すると、『竹富島では稲作が困難だったために西表島にまで、この桟橋から船で渡りコメを作っていた』とありました。
その内容があまりにもあっさりしていてよくわかりませんでした。そこで、この桟橋の本当の目的などについて調べてみることにしました。
~西桟橋の本当の建設目的~
1.稲作の必要性
竹富島では、かつて人頭税ということで、いわゆる本土と同様の『米』の年貢を納める必要があったようです。しかしながら、竹富島では米が作れないので、わざわざ海上で20km以上離れた西表島にまで、米を作りにいっていました。
人頭税という言葉は、歴史の授業で習った記憶がありません。調べてみると、人頭税は琉球王朝が八重山諸島に果たした税金であり、それも差別的なものであったようです。期間的には1600年代から1902年までとありました。そして、人頭税は、成人男性に強制的にかかるもであり、平均的に1石8升を現物納付する必要があったそうです。
2.竹富島の地質と稲作
竹富島では、何故稲作ができないのかですが、こんな聞き取り調査結果を教えてもらいました。
【中筋地区の長老より 竹富は5寸掘れば珊瑚礁、米はできん。だから西表や由布島にいって田んぼを作った。田小屋つくっていたら泊まり切で田植えをしたり、田草をとったり。食べ物は栗を炊いたり、サツマイモの団子くらいだった。大変だったさ
・・・森まゆみのブログ くまのかたこと 震災日録2011年8月12日より抜粋】
要は、竹富島の地形がほぼ全域にわたって琉球石灰岩の地形ですので、水がたまらない地形となり、稲作には適していません。
前回のブログにも書きましたが、琉球石灰岩は穴だらけですので、すべての雨水は地表にとどまらずに、地下深くにしみていきます。また、井戸はあるのですが、ほとんど溜まらないので、人の飲料水を確保する程度しか容量が無く、とてもじゃないですが稲作ができるほどではないのではないでしょうか。
上の図は、前回作ったものですが、そこには大きな問題点がある事に気が付きました。
それは、日照りが続くと、琉球石灰岩の下に溜まった地下水が排出されていくということです。
つまり、雨が降らないと、いつかは地下水は無くなるといことでしょう。
3.西表島への移動手段
西表島への移動手段は、時代によっては変化していたようですが、杉をくりぬいた丸木舟やサバニなどを使っていたようです。
<沖縄県立博物館・美術館 沖縄の船 サバニ ―過去・現在・未来―資料から転載>
ちなみに、このあとで西表島にフェリーで移動したのですが、2日間は強風で欠航している路線がありました。その当時では、本当に命がけの航海だったのではないでしょうか。
4.西表島での農耕と、由布島での日常生活
西表島では、牛車で有名な由布島に宿泊拠点を置いて、そこから西表島本島にあった田へ日々通っていたそうです。その距離ですが、そんなには離れていませんし、海水があっても歩いて渡れる程度です。ですが、農作業をするために、ここを往復するのは、それはそれで面倒な事は間違いないです。
現在は、牛車での観光で有名ですが、それはあくまで観光だからいいのだと思います。
<手前が西表島、対岸が由布島>
何故、わざわざ田から離れたところに宿泊していたのかというと、西表島問題となっていたマラリアを避ける為だったようです。
そして、西表島では、そのマラリアによる死傷者数がとても多かったようです。マラリアといえば、蚊が媒介します。また、蚊が生息するためには水たまりなどが必要となってきます。
そこで、地質に関して確認すると、竹富島では水たまりができにくい、”琉球石灰岩”が主体ですので蚊が生息しにくいです。
また、由布島も同様の石灰岩の地質です。
ただ、少しか離れていない西表島は、石灰岩が無く、複雑な地形な為に、水がたまりやすい場所なようです。つまり、竹富島の住民は、住居地に存在しないマラリア被害を恐れて、西表島の中でも、もっとも竹富島に似た環境であった、由布島で寝泊まりし、日中はそこから色表島に”出稼ぎ”に行っていたということなのでしょう。
もう一つの考え方としては、西表島から少し離れた由布島は石灰岩がメインで水が無い場所ということは、農作業には適していなかったし、生活するのにも不便なのは間違いないです。よって、西表島の住民は、由布島には関心が無かったので、無人島として土地が余っていたというのが実情ではないでしょうか。
【追記】
マラリアですが、それを媒介する蚊ですが、昼間は活動しなくて、夜間だけ活動するようです。よって、昼間は蚊がいる地域にいても問題なく、夜だけ蚊がいない地域に移動すればいいといった、まさに生活の知恵なのでしょう。
5.西桟橋の他の活用法
さて、竹富島の西桟橋へと話が戻りますが、一番多く利用したものとしては、他島との交流だったようです。実は、竹富島の伝統的住宅ですが、元々はありませんでした。それこそ、いわゆる掘立小屋に住んでおり、瓦葺の家ではなかったようです。そもそも、瓦屋根は明治22年まで、特権階級や士族などの家に限られ、普通の人はお金があったとしても禁じられていました。明治の後半からは自由な住宅が自己判断で造れるようになってきて、徐々に今の街並みが形成されていったそうです。いわゆる掘立小屋から瓦葺の家にするための最大の課題は屋根荷重の増大になります。その荷重の増大に耐える為には、太い柱と梁の木材が必要になってきます。そこで問題となってくるのは、琉球石灰岩が主体の竹富島には太い木が生えないということです。また、瓦なども生産できなかったようです。
6.西桟橋の本当の目的
以上から、西桟橋の本当の目的は、他島との交流というよりも、資材の荷揚げ(輸入)といった側面が強いのではないかと思いました。この桟橋なくして、今の赤瓦の伝統的集落はできなかったのではないでしょうか。
ここで疑問がありました。竹富島ではどうやって、すべての建築材料を外から輸入する財力があったのでしょうか?それについてはよくわかりませんでしたが、島外への出稼ぎによる仕送りだったのかもしれません。
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竹富島について詳しく説明された”ぶらたもり”が先週に放送されていました。
その放送の中には、竹富島と他島の交流や、稲作の必要性が紹介されていませんでした。個人的には、そのあたりが竹富島の本当の”キモ”だと思いました。
そこで、せっかくなので”西桟橋”を主役にして、ブログを書いてみることにしました。
離島にはいろいろな歴史があるのだなあ・・・それが本当の感想でした。