現在の丹波市柏原町である柏原藩と、かつて篠山藩と呼ばれたと丹波篠山市の間は、目の前を覆うような山々で塞がれている。
明治時代までは、人々は、その山々の最も低い場所である鐘ヶ坂峠を越えていた。

 


現在では、その山々の麓に大きなトンネルが掘られており、国道176号線として交通の要衝を支えている。

そのトンネルは、鐘ヶ坂峠をショートカットする為に「鐘ヶ坂トンネル」と呼ばれている。
鐘ヶ坂トンネルの特徴は、一つの峠に3世代のトンネルが現存している事である。
3世代とは、明治生まれ、昭和生まれ、そして平成生まれだからこそ呼ばれる呼称である。
 

時代が進むにつれてトンネルは大きく、長く、頑丈に、そして便利になっていく。

「鐘ヶ坂トンネル」は、明治維新後から現代の生活レベルの変化を体験できる、貴重な場所である。
そのすべての場所を歩いて回ることが可能なので、今回は徒歩で挑戦してみることにした。

三世代が残されている鐘ヶ坂であるが、断面で表すと、最も標高が高くて短いのが明治のトンネルであり、最も低くて長い距離なのが平成のトンネルである。


 

平成のトンネルの坑口付近から見通せば、姿こそわからないが、おおよそ位置関係が把握できる。なお、平成のトンネルであるが、正式名称は『新鐘ヶ坂トンネル』であった。

 

 

平成のトンネルからは、旧道をそれていくと、間もなく昭和のトンネルである『鐘ヶ坂トンネル』にたどり着く。入り口は頑丈なフェンスで覆われており、立入禁止であった。

 

 

内部はとても奇麗なコンクリート覆工であった。

 

 

昭和のトンネルを含めた道路と、現在の平成の道路を比べてみる。平成の道路は、広くて登坂車線もあり、カーブも緩やかである。それに対して、昭和の道路は幅も狭く、曲がりくねっており大型車の通行はかなりゆっくりとなるだろうし、事故も多かったのではないだろうか。交通量が増大した時代にはそぐわないかもしれない。

この風景だけ見ていると、道路を新しく作り直した理由がなんとなくわかる。

 

 

昭和のトンネルの手前から、明治のトンネル方向に歩いていくことができる。軽トラック程度は通れそうであるが、現在は通行禁止である。

 

 

分岐点から10分程度進むと、明治の隧道と呼ばれる『鐘ヶ坂隧道』に到着する。

この姿が好きで、今回は3回目の訪問となる。季節によって、その姿は不思議と変化している。個人的には、緑の少ない真冬が好きである。

 

 

隧道の坑門(ポータル)は、切石積であり、一部に煉瓦も使われており、大変美しい。

この隧道の歴史的価値であるが、我が国の道路トンネルとしては現存最古であり、トンネルとしては5番目に古いようだ。

この様な山深い場所で、都会から離れた場所でもある丹波地方に、現存最古のトンネルを造って、それが残されているところが凄い。

 

 

明治13年の読売新聞に、この鐘ヶ坂隧道を着工する記録が残されていた。

まず気が付いたのは、「鐘ヶ坂」の文字が「金ヶ坂」と間違えている事であった。

また、着工時の見込みは金2万円と書かれている。それが、完成時の新聞では倍の4万円に膨れ上がっている。

こういった事も、新聞を調べれば、よくわかるので楽しい。

 

 

古い隧道を見る時の楽しみの一つに、ポータル上部にある扁額を鑑賞するというのがある。

篠山市側の扁額であるが、「事成自同」と書かれており、有栖川宮親王が揮毫されている。

 

 

丹波市側は、三条実美公が揮毫された「鑿山化居」である。

両方の揮毫者ともに、明治維新を成し遂げたの中心人物グループであり、歴史ファンとしては感無量である。

 

 

一般的な扁額の作り方であるが、墨と筆で文字を書いた和紙から石材にその輪郭を写し取り、石材を掘っていくといった方法である。よって、扁額の文字は、揮毫者の文字そのものの形が写し取られている事になる。

もっとも、揮毫者の文字が下手なら、職人の手によって、見栄えよく修正するようだが。

もっとも、揮毫してから現地に設置されるまでにかなりの時間がかかるので、誰も文句を言った人はいないようである(笑)

 

さて、明治16年の読売新聞には、トンネルの開通式の様子や、扁額について詳しく書かれている。

 

 

Wikipediaによると、開通式には西郷従道が来賓されたと記載があった。しかし、新聞を読むに西郷従道の名前は記されていない。近辺でどんな活動をしていたかを、新聞で調べたところ、どうも兵庫県には来ていた様だが、鐘ヶ坂には立ち寄った形跡は無い。おそらく、間違いなのであろう。

 

隧道内部は、全面が煉瓦で組み立てられている。下半はイギリス積みで、上半は長手積であり、煉瓦トンネルとしてはオーソドックスな部類である。入り口付近は、漏水や常に風が当たることから風化が進んでおり、かえってそれが色とりどりで美しく感じられる。

 

 

少し内部に進むと、明治の煉瓦が色鮮やかに迎えてくれる。この隧道であるが、明治16年に完成しているので、138年が経過していることになる。この隧道の風景であるが、補修した跡はみあたらないので、当時のオリジナルであろう。

 

 

トンネルから、振り返ってみる。当時の人たちも、まったく同じ風景を見ていたのであろう。これからは、下りだけだから楽だなあ・・・なんて思ったのかもしれない。

 

 

煉瓦の目地だが、漆喰が使われている様であった。その中央が、ポコンと山なりに処理させている。かなりの職人のこだわりが見て取れる。

いろんな煉瓦積みを見てきたが、道路トンネルとしては最古級であるし、この周辺には参考にするトンネルもなかったであろう。おそらく、見聞きした情報だけで造ったのではないだろうか。

いやはや、素晴らしい!

 

 

トンネル入り口付近は、煉瓦が風化しており、いくぶん欠損が目立っている。補修すれば、明治の遺産が台無しになるし、判断が難しいところではないだろうか。

 

 

昭和のトンネルと明治の位置関係を、動画で撮影してみます。

 

 

 

鐘ヶ坂の絵図は、江戸時代の浮世絵師の安藤(歌川)広重が残している。そこに、江戸時代の街道から、平成のトンネルまでを記してみた。

 

 

平面的な位置関係は、以下になる。

 

 

平成のトンネルから、明治の隧道までを巡ってみた。最後に、鐘ヶ坂峠を目指してみよう。

なかなかの登山道を進む。

 

 

かなりあれた道であるが、江戸時代にはこの周辺の大動脈であり、経済の要だったようだ。この道を歩いて、峠を越えるとなると、かなりの重労働であり、時間もかかったと思われる。


 

さて、鐘ヶ坂峠を越えるための方策を、時代ごとにまとめてみた。

 

 

最後に鐘ヶ坂の峠、および3世代のトンネルを歩いての,感想をまとめてみる。

 

 

あきらかに、時代が進むにつれて、道路は便利に早く通過できるようになっている。ちなみに、峠を徒歩で越えるのは2時間。平成のトンネルは、車ならわずか数分。もちろん、運べる資材の量などは比較のしようも無い。”圧倒的”といった言葉が似合うのではないだろうか。

 

江戸時代から現代までのインフラ整備の移り変わりと、それによる生活水準の向上を自分で体験して感じ取れる貴重な場所・・・それが、鐘ヶ坂ではないだろうか。

いつまでも残してほしい、産業遺産。

本当に、そう思う。