安藤広重とは、江戸時代を代表する浮世絵師であり、モネやゴッホの絵などに影響を与えた事でも有名なのではないでしょうか。

絵のことはよくわかりませんが、東海道五十三次絵などは、小学生のころに教科書に載せられていた記憶が鮮明です。

その安藤広重ですが、六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)という浮世絵木版画を残しています。その内容は、畿内七道及び江戸の名所を木版画としてまとめたものです。

合計70枚の大作ですが、大日本六十余州名勝図会という名称で国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。

また、その内容は保護期間が満了しているために、自由に使用することもできます。

 

その、六十余州名所図会の中に、『丹波 鐘坂』と呼ばれる絵があります。

 

出典元:国会図書館デジタルミュージアム

 

この絵は、丹波地方の鐘坂の風景になります。その中でも、とても目立つところは、絵の右上に書かれている部分ではないでしょうか。

山頂に、石梁(いしばり)を見ることができます。

 

 

この石梁ですが、現在では【鬼の架け橋】と呼ばれており、知る人ぞ知る”石橋”の様です。今回は、その石橋を見に行くことにしました。

鬼の架け橋は、兵庫県丹波篠山市にある金山の山頂近くにあります。

 

 

私は、登山はまったくしない素人ですが、観光協会に問い合わせてみたところ、看板などあるので気を付ければ問題ないとのことでした。そこで思い切って登ってみることにしました。

 

 

登山口はいろいろあるようですが、初心者だと丹波篠山市追入地内の大乗寺手前からがいいようです。砕石敷きの駐車場から大乗寺方向にあるくと、すぐに簡易な鉄橋があります。

そこを曲がると登山道です。

 

 

登山道に入ると、いわゆる”七曲り”があり、標高を稼ぎます。このあたりが、もっとも険しかったですが、道自体はしっかりとあるので運動靴さえあれば、なんとか登れます。

 

 

道中には、ところどころ看板がありますので、迷うことはなさそうです。

 

 

道中に、園林寺(おんりんじ)跡がありました。建物は撤去されていましたが、周辺には瓦などが散乱しており、奥まった山地の風景とあわさり、なかなか雰囲気のある場所でした。

 

 

登山道から、約30分の時間をかけて、金山山頂付近の『鬼の架け橋』に到着しました。

 

 

たしかに、石桁橋の形状になっています。

 

 

岩同士の設置面は、わずか5cm×3cm程度でした。いわゆる、点での設置です。ひとたび場バランスを崩すと、谷底まで真っ逆さまかもしれません。この不安定さを見ていると、とても橋を渡る気持ちにはなりませんでした(笑)

 

 

断崖絶壁側からドローンを利用して『鬼の架け橋』を見てみます。いかに、不安定な状況かがよくわかります。そして、左側の岩塊が剥離して滑り落ちた形状がよくわかります。

 

 

そこで、現場の岩盤の状況や、石橋の端部の形状から、実際に鬼の架け橋がどうやって出来上がったのかを想像してみました。(個人の意見)

 

 

せかくなので、ドローンで鬼の架け橋を通り抜けようと挑戦しました。しかし、トンネル形状の物体は風の通り抜けが激しくて、機体を制御することがとても困難です。

風で制御不能なドローンはこんな感じです。

 

 

 

 

さて、何故ここは『鬼の架け橋』と呼ばれるようになったのでしょうか。

その答えは、丹波市観光協会によると、兵庫丹波の森協会が出版した「丹波のむかしばなし 第10巻」にあるようです。

超簡単に要約すると、鬼が麓に下りるために金山にあった石を組わせた造ったとのこと。

ドローンを使うと、その道の険しさは一目瞭然。絶壁の尾根を歩いた様です。そんなにも、絶壁側を歩かなくても•••危険ですね(笑)

 

 

鬼の架け橋が、記された文献等を探してみました。

①1450年 地震により(個人の調査記録につき根拠未確認)

②1814年 伊能忠敬が篠山を測量中に確認し文献に残す

③1853年 安藤広重が六十余州名所図会に浮世絵として

 

結論からいえば、実際にいつごろから、石橋として認識されたかなどは判明していないようです。

 

さて、鬼の架け橋まで来たので、目と鼻の先の金山城址まで登ることにしました。

 

 

金山城址は、典型的な山城でした。ここは、明智光秀が信長の命を受けて、丹波攻略の拠点として設けた様です。丹波攻略後も使われていた期間は短く、本能寺の変後には廃城となったと丹波市観光協会で教えられました。

(余談ですが、金山城址や鬼の架け橋は丹波市の区域であり、登山口は篠山市になります。)

 

 

ここで、金山(金山城)と、鬼の架け橋と、国道176号線(鐘ヶ坂峠)の関係を、国土地理院の地図を参照に断面図化してみます。

 

ここで、再び安藤広重が書いた版画と、現在の断面図を比較してみました。

そうすると、どうも金山(金山城)の位置が違うようです。安藤広重の版画では、鬼の架け橋の右に金山がありますが、実際は左です。

これは、間違いのでしょうか?それともデフォルメなんでしょうか。

この事実に気が付いた人は、どうやらネット上には誰もおられないようです。

版画をじっと眺めていたら、やはり鐘ヶ坂峠から金山にかけては、右肩上がりの方が絵的にもあっていると思います。これは、絵画的な手法の一つかもしれません。

人のあら捜しをするようですが、ちょっとだけ気になります・・・

 

 

最後に、金山城址と鬼の架け橋をフライトしてみます。なお、撮影場所は私有地になりますので、確認が必要となります。

 

 

鬼の架け橋と呼ばれる石橋ですが、人間業ではとても造ることができない事から、鬼が架けたとの伝説が、自然発生的に出来上がったようです。単なる昔ばなしなのでしょうが、火のないところに煙は立たないとの諺もあります。その裏には隠された、なにかがあるかもしれません。

また、その真横にある金山城址は、金山と呼ばれる山頂に築かれています。

こちらも、鬼が麓の人間社会から奪い取った金銀宝石を、山に集めたとの伝承もあるようです。

これらから導き出される答えとして、黄金伝説などはどうでしょうか。

 

もしかして、鬼の架け橋の下には、

鬼が奪い取った黄金がザックザク・・・

 

信じるも、信じないのも貴方次第(笑)