かつて、日本では鉱山や炭鉱の存在は、国としてとても重要な産業でした。特に、明治維新後に国家を支えるためには、必要不可欠なものでした。そして、昭和の中期くらいまでは鉱山需要の活況は続いていました。しかし、途上国の安い賃金や、機械による露天掘りが主流になってくると、日本は競争力が弱くなってきました。そして、高度経済成長期が終わるくらいは、大部分の炭鉱や鉱山が閉山となっています。

現在では鹿児島県の金山や三石の鉱山くらいしか、残っていないようです。

 

明延鉱山も、鉱石が枯渇したわけでは無いようですが、コスト的な競争力で途上国に負けてしまい、昭和62年に閉山となっています。

 

さて、大仙粗砕場で”こぶし大(8cm程度)”に一次破砕された鉱石は、鉱物が含まれた石と、何も含まれていない石に人力で選別されています。その選別された鉱石を含む石を、約6km離れた神子畑選鉱場まで鉄道で運ばれていました。

その運行ですが、10tトロリー型の電車が2台で牽引し、3㎥グランビ鉱車を30台連ねていたようです。(現地説明板より)

その鉄道路線は、上部鉄道や、明神軌道などとも呼ばれていました。また、その路線は大変山深いところでした。よって、全路線6kmの内、76%にあたる4.5kmがトンネルでした。

そして、この軌道の特徴ですが、鉱石を送るために使用したのと同様に、坑内を充填するための選鉱廃滓を帰りの便で運んだり、用水用の配管も軌道に並行して設置されていました。

 

なお、グーグルマップでは、大仙粗砕場を、”明延選鉱所”と記載されていますが、そちらは誤りの様です。正しくは、”大仙粗砕場”になります。

 

  <日本鉱業会誌 明延鉱山 唐沢氏他著を改変>

 

 

大仙粗砕場から神子畑選鉱場までは、架線式の電気機関車で鉱石が運搬されていました。

実際の鉱石の運搬は、牽引車である10t電気機関車と、台車であるグランビー鉱車30台が連なっていたようです。

 

 

中瀬鉱山にも、同様の組み合わせが保存されていました。なお、グランビー鉱車は、荷台を横方向に倒すことができ、それによって鉱石を荷下ろしができる特徴を持っています。

つまり、単純に言えば、荷下ろしが簡単だということでしょう、

 

 

さて、この路線が有名になったのは、鉱山全盛期の頃に鉱石運搬と一緒に、旅客運搬も行っていたからになります。

そして、乗車料金が一円の為に、通称「一円電車」と呼ばれていたようです。正式名称は「明神電車」ですが、徐々にその名称では呼ばれなくなったようです。

 

 

客車内も見学が可能です。ただ、ここは子供たちに大人気なので、朝一番ではないと撮影が困難です(笑)

 

 

さて、これからは明延選鉱所から神子畑選鉱場までのルートを踏査します。

 

選鉱所を出発した明神鉄道ですが、かなり山深ルートを通ります。こちらも、徒歩で登れる場所ではありません。よってドローンにて撮影しています。

 

 

急斜面の土地に無理やり鉄道を通していることがよくわかる、厳しい地形です。

 

 

上記の場所を、下から望遠カメラで撮影してみました。半分だけ橋梁という、珍しい構造です。

この様な木々の間をドローンで縫うように進んでいきます。自分で言うのもなんですが、ドローンの腕前は、かなり上達している気がします(笑)

 

 

 

山の等高線に沿って、鉄道を敷設していますので、沢などは鉄橋で越える必要があったようです。

 

 

小さな沢は小さな鉄橋を架設して、場所によりケースバイケースで構造が違うようです。

 

 

河川部分の鉄橋は撤去されていましたが、その橋台は残されていました。現地で採取した川の石を使用した、コンクリート造りでした。

 

 

明神トンネルの坑口が見えてきました。そのアプローチは、掘割ですが、土留めとして石積が施されていました。

 

 

明神トンネルは4km弱の延長があったようです。現在は、鉄製の扉で固く閉ざされていました。

 

 

この明神トンネルの出口に、神子畑選鉱場の上部に行きつくはずです。残念ながら、この先へ進む道路は通行止めとなり、立入禁止措置がなされていました。

残念ながら、これ以上進むことはできませんでした。

 

 

さて、これから先は再び車に乗り込み、明延鉱山へと一旦戻り、そこから神子畑選鉱場へと向かいました。

 

神子畑選鉱場は、かつて東洋一と呼ばれた巨大な選鉱場だったようです。いまは、建屋こそ取り壊されていますが、基礎設備は全て残されていました。

 

 

 

この神子畑選鉱場の上部に、明神鉄道のホームがありました。そこで、乗客をおろしたり、鉱石をストックヤードにおろしていました。

 

 

巨大なシックナーを見る事ができます。これらは観光用に、あえて取り壊さずに残してあるそうです。

 

※撮影は、敷地外から許可を得て撮影しています(敷地内は立入禁止)

 

私が、神子畑選鉱場で最も好きな景色は、インクラインの線路跡です。立ち入って登ることはできませんが、直下から眺めることは可能です。一円電車を降りた乗客は、このインクラインのケーブルカーを使って上下できたのでしょうか。もしそうなら、どんな眺めだったのでしょうか。想像が膨らみます。

 

 

 

さて、この周囲にはまだまだ多くの見どころがあります。神子畑選鉱場の向かって左側には、鉱石のズリ捨て場で使われた鉱滓(こうさい)ダムがあります。

鉱滓とは、鉱山から算出した鉱石から、必要な鉱物(錫、銅、亜鉛等)を取り出した後のカスになります。いわゆる、廃棄物であり、単なる石ころともいえます。

 

 

鉱滓ダムの近傍に、旧神子畑小学校の体育館が残されています。

 

 

この体育館は、昭和30年代に建設された様なのですが、プレキャストコンクリート工法(プレコン工法)で造られているようです。

当時としては、斬新な工法を採用したようです。

プレコン工法とは、あらかじめコンクリート工場で部品を造っておき、それを現地で組み立てる方法です。よく大手一戸建て住宅メーカーが造っているのは、プレハブ工法です。それは、部材が木材や鉄骨などになります。

部材が何ができているかで、名称がプレコン工法やプレハブ工法に変わるのでしょう。

 

これくらいの規模の体育館なら、木造でも十分に建設できたと思います。ですが、現地で一から建設するのは時間がかかります。ですが、設備が整った遠方の工場で造った部品を現地で組み立てるだけなら、素早くできます。問題は、プレコン工法は値段が高かったのではないでしょうか。

おそらく、この体育館を当時日本でも珍しかったプレコン工法で造った理由ですが、私はこう考えます。

当時の鉱山業界は、戦後の好景気もあって飛ぶ鳥を落とす勢いだったんでしょう。また、人もどんどん増えていったので、インフラ設備も急拡大する必要があったのでしょう。その当時の人々は鉱山産業は永遠に続くと思っていたはずです。

それらを考えて、早くできて、長持ちする建築物を採用したのかもしれません。根拠はありませんが。

 

ただ、それらの鉱山産業も、昭和の中盤から後半になって急激に衰退していくとは、誰が想像できたのでしょうか。それも、資源が固結したのではなくて、世界的な競争に費用の面で負けていくとは・・・

 

次回に続く