離宮とは、いったい何でしょうか。ずっと疑問でした。

 

宮内庁の職員の方に質問してみました。その回答は、「離宮とは、皇居以外の別の場所に設けられた宮殿」でした。ですから、一概に別荘だけでは無かった様です。

 

京都には離宮と呼ばれるものが3か所あり、「桂離宮」・「修学院離宮」・「二条離宮」が、それに該当するようです。ですが、現在の二条城である「二条離宮」は、離宮から離脱しています。

よって、現在の京都における離宮は、2か所という表現が正しいことになるそうです。

 

桂離宮を見学してから、雅を尽くした庭園土木に惚れこんでしまいました。すぐに、修学院離宮にも見学の予約を入れてみました。幸いなことに、こちらもお一人様なので、すんなりと予約の許可が下りました。

叡山電車の修学院駅から、徒歩15分程度で参観者用出入口に到着します。

 

 

予約時間の1時間前に到着しています。もちろん入場は出来ないので、予定どおり修学院離宮の外周道路を歩くことにしました。

そこからは、修学院離宮の付属農地を見ることができます。

このあたりの農地は離宮とは関係なかったのですが、景観保持対策として昭和39年に8万㎡にもわたる隣接地である私有地を国家が買い取っています。

その理由は、駅から歩いてここまで来れば想像がつきます。それは、宅地化が山沿いまで進んできたという事だと思われます。もし、その時に買い取っていなければ、目の前の景色は全て宅地化されていたのではないでしょうか。

 

 

さて、定刻になりましたので、修学院離宮の参拝者入口に戻ります。身分証明書を提示して、受付をすませれば、簡単に中に入ることができます。

中に入ると庭園を維持管理している、おばさま達に出会いました。古風なカッコをされていますが、”あえて”そうしている様です。許可を得て、後ろ姿を撮影させてもらいました。

広大な離宮内の維持管理を、このように近くで見る事ができるのは貴重ではないでしょうか。

作業を見られることが多いからでしょうか。とてもきれいで上品な方でした!

 

 

修学院離宮の内部には、多くの日本建築が残されており、そのすべてが内部にこそ入れませんが、限りなく近接して鑑賞できます。それこそ、日本建築をメインテーマにしたらブログ4回分くらいになりそうです(笑)

 

 

およそ400年前に書かれた襖絵も、ゆっくりと鑑賞出ます。このような四輪の車で、”あられこぼし”を通行していたのでしょうか。

 

 

修学院離宮は、下離宮、中離宮、上離宮の3つのグループに分かれています。それぞれが、独立して離れて配置されているといった方が、わかり易いでしょうか。

中離宮から上離宮に行くには、松並木の築堤を歩きながら高度を徐々に上げていきます。

 

 

松並木は、わざと曲線を描かせている様です。やはり、曲線というのは美しいですね。

 

 

上離宮の隣雲亭(りんうんてい)に到着しました。

 

 

深い軒下の土間は、たたきと呼ばれる三和土が塗りこめられています。そこに、俗称「一二三石(ひふみいし)」がランダムに配置されています。

 

 

漆喰を敷きならした土間に、小石を”ひとつ”、”ふたつ”、”みっつ”と埋め込んでいます。この小石ですが、鴨川(賀茂川)の上流である貴船や鞍馬あたりで採取された、”加茂川石”が使用された文献に記されています。あずき色の石(鞍馬)と、青黒い石(貴船)が規則性も無く並べられているところが、なんだかワクワクします。

修学院離宮の中でも、私なりに見どころだと思いました。(他の方は誰も興味を示していませんでしたが・・・)

 

 

さて、修学院離宮の最大の見どころは、隣雲亭から眺める浴龍池(よくりゅうち)にあります。

ここでは、学芸員さんの説明も一旦中断して、みなさんが思い思いに景色を楽しむ趣向を取られていました。

 

 

この絶景を見られたみなさまは、この美しい景色に感動しておられました。

ですが、私はこの池が「人造池」だということに驚いていました。

 

ここで、副題。

浴龍池はダムで堰き止められた、ダム湖だった

 

その事について、独自に調べてまとめてみました。

 

上離宮で最も高いところにある隣雲亭(りんうんてい)から、浴龍池(よくりゅうち)を眺めると、池を堰き止めた築堤(ダム)の姿がなんとなく見えてきます。

 

 

展望台からは築堤(ダム)の様子がよくわかりませので、帰りに正面から見てみました。

段々の形状の石垣と、盛り土の全貌が見えます。

 

 

国土地理院の最新の地図と、治水分類地図を比較してみます。この分類図から、ここが堰き止められた人造湖なのがよくわかります。

 

 

国土地理院の航空写真から、築堤(ダム)範囲を判定したところ、およそ200mであることがわかりました。また、下の写真の”黒線”部分で断面図を書いてみます。

 

 

現地の等高線や、古地図の等高線などを参考にして、浴龍池がどうやって造られたかを想像してみます。

 

そして、完成時(現在)の姿を、想像で書いてみました。

 

以上より、この築堤は、延長200m、高さ15mの土で盛られた構造が想像できました。

(高さ15mの根拠:国土地理院の地形図計測より、築堤の天端EL=140.1m、下端EL=125.1より、差し引き15m)

 

さて、この築堤は高さが15mだと書きましたが、この寸法は重要になってきます。

現在の河川法では、高さが15m以上の構造物を”ダム”と呼びます。

 

水資源開発公団HPより・・・「ダムとは、一般的には水の流れをせき止めたり、変えたりする建造物のことです。法律的には河川の流水を貯留し、又は取水するための構造物で、基礎地盤から堤の頂上までの高さが15m以上のものをダムといいます。」

ということは、この築堤は”ダム”と呼んでも、間違いでは無いような気がします。
となると、日本最古のダムは香川県の「豊稔池ダム」ですが、実は修学院離宮の”こちら”ではないのでしょうか?

”いっちゃんさん”のご指摘で、日本最古のダムは狭山池ダムであることが判明しました。

あくまで、ダムの概念の話であり、法律に則る最古のダムはもちろん豊稔池ダムですし、ここは法律上のダムではありません。そもそも、江戸時代にダムという言葉はありません。

 

さて、築堤が造られてから約400年が経過しますが、今でも盛り立てた土砂が崩れずに、当時の姿のままを現代に見ることができます。土砂で人工的に造られたものは、雨などの自然環境に大変弱く、やはり長期にわたると崩れていく傾向にあります。それが、何故ここは健全な状態が続くのでしょうか。

その理由は、「大刈込(おかりこみ)」にあります。

大刈込とは、多くの種類の樹木を植林し、それを刈込んで、高さを一定にします。その方法のポイントは、2点あります。1点目は、多くの種類を混在させることで、どれかが枯れても、それ以外の種類が生き残って、全滅を防ぎます。2点目は、低い高さで一定に切りそろえるので、全体に満遍なく日光があたり、全体的に成長し、それが根となります。

 

つまり、大刈込とは、樹木の根を満遍なく張り巡らせ、盛り土の強度を高める事にあるようです。また、凄いところは、リスク管理をしっかりと考えており、樹木の全滅による盛り土の崩壊も防いでいます。

そんなに凄いなら、全国の土のところに大刈込をすれば、災害が減るのではないでしょうか?

残念ながら、それは不可能です。理由は、多大なる手間と、超・超・超高額な費用でしょう。

 

 

大刈込のアップです。目の届く範囲だけでも、5種類の木々が群生しています。全体でいえば、数十種類の品種があるようです。

 

 

江戸時代に行われた、大規模な浴龍池のダム工事。その土の量は、約=50,000m3(平均断面306m2×平均延長150m)となります。
一人当たり1日あたり1.5m3の土を運ぶとすれば、33,300人が必要。一日あたり50人が仕事に来て、約2年かかったと思われます。

さりげなく、美しい庭園と池が自然環境に溶け込んでいますが、その為には大変な労力と時間と費用がかかっていると想像します。

 

縁の下の力持ちである、”浴龍池のダム”は、

ワシもダムカード作ってくれよ!

ウィキペディアで日本一最古のダムは、ワシと書いてくれよ!

・・・って、思っているかもしれません(笑)