令和2年7月豪雨では、たくさんの方がお亡くなりになり、多くの被災者が出ております。

亡くなった方々や被害にあわれた方には、お悔やみ申し上げます。

また、多くの文化財も流出しています。特に甚大な被害が発生した場所の一つは、球磨川(くまがわ)沿いとなるのではないでしょうか。

その球磨川沿いに走っている肥薩線は、特に大きな被害を受けたようです。そして、明治時代に造られた近代化産業遺産である球磨川(くまがわ)第一橋梁と球磨川第二橋梁、そして球磨川第四橋梁が流出しています。

遺産マニアにとっては、とても悲しく残念な気持ちでいっぱいです。

ちっぽけな私が何をすることもできませんが、流出した遺産を大好きであった気持ちをブログに籠める事はできそうです。

実は、過去に肥薩線を旅しています。その旅行記を書き上げて、ストックしていました。内容的には、豪雨で流出した前に書いた旅行記になります。流出した事による内容の修正は行わず、原文のまま発表しようと思います。

お見苦しいところがあれば、読み飛ばしていただけると幸いです。

 

 

 

<令和2年7月豪雨前の旅行記:豪雨前の記事ですが、あえて修正はしていません>

 

明治維新とともに我が国に導入された鉄道であるが、九州の地で最初に開通したのは明治22年の事であった。それから、福岡県を起点に九州各地に鉄道網が広がっていっている。不思議な事に、明治維新で活躍した鹿児島県については、明治36年になってようやく開通にこぎつけている。

その、鹿児島県に初めて建設された路線は、肥薩線(ひさつせん)である。

肥薩線は、熊本県の八代から、宮崎県を通り、鹿児島県の隼人までを結んでいる。その路線の特徴としては、大部分が南九州の山岳地帯を通っているということだ。あえて、海から離れた場所に建設した理由は、仮想敵国の軍艦からの艦砲射撃を避ける為と言われている。

ただ、発展途上の技術力である明治時代に、山岳地帯へ鉄道を建設するのは、本当に大変であったようだ。

難工事を経て開通した肥薩線は、その大部分が今でも現役で使われている。現役ながら、2007年には近代化産業遺産群として指定されている。いわゆる、生きた遺産と呼んでも差し支えないのではないだろうか。

それらの鉄道遺産を、この目で見るために今回の旅を計画した。

その肥薩線を巡る旅であるが、鉄道に乗車して巡るというのが標準パターンだと思われるが、今回は鉄道遺産を見る事がメインなので、全線をレンタカーでの移動としている。

 

八代駅を起点とした肥薩線は、球磨川に沿って建設されていた。ほとんど、鉄道=球磨川と言っても過言ではない。

最初に立ち寄ったのは、鎌瀬駅であった。まるで、民家の裏庭の雰囲気であった。この駅を見るだけで、一気にこの路線が好きになってしまった。

 

 

肥薩線の最初の見どころは、球磨川第一橋梁である。

 

 

起点側の3径間は、プレートガーダー橋。

 

 

終点側の2径間は、とてもスレンダーなアメリカ製トラスである。

 

 

さて、この球磨川第一橋梁の最大の特徴であるアメリカ製トラス。このアメリカ製が採用された経緯であるが、明治時代の歴史を勉強するようで面白い。

 

日本で最も最初に架設された鉄道用トラスは、明治4年に造られた新橋~横浜間である。しかしその構造は木造だったので、スパンも短く、現代から見ると玩具の様であったと思われる。

現代にも通じる鉄製のトラスが初めて架設されたのは、明治7年に造られた大阪~神戸間である。また、その当時の橋の設計と工事監督は、”お雇い外国人”と呼ばれたイギリス人が行っていた。その関係で、明治初期の橋桁は、ほとんどがイギリスからの輸入であった。

もちろん、日本には満足な製鉄所も無いし、鉄を加工する技術も無かった。

その、初期のイギリス製のポニーワーレントラスが、今でも大阪に浜中津橋として残されている。

 

 

イギリス製のトラスは、ヒンジを使用して、”重厚”な姿が特徴である。

 

 

お雇い外国人であるイギリス人が仕切っていた橋梁であるが、九州については地域限定として、ドイツ系なども使用されていた。そのドイツ系の最初の遺構が、鹿本町の水辺プラザで大切に保存されている。

 

 

ドイツ系のトラスの特徴は、質実剛健の”ゴツイ”イギリス系と違って、部材を極力小さくしてスレンダーにした事であるようだ。部材の交点は、イギリス系と同様にヒンジが使用されている。

 

 

明治維新後から”お雇い外国人”であるイギリス人技師のポーナルが、日本の土木技術を牽引してきたが、逢坂山隧道を皮切りに日本人技術者達で建設を進める力が育ってきた。

そして、イギリス人技師のポーナルが帰国したとたん、アメリカ系の橋梁へと転換が進んだようだ。

その初期のアメリカ系橋梁が、肥薩線の球磨川第一橋梁である。

その大きな特徴は、合理的な設計をすることによるスレンダーさである。

 

 

また、イギリス系やドイツ系と異なった特徴は、アイバーを使用した細身の部材である。

 

 

イギリス系からアメリカ系の主要部材を比較してみたら、いかにアメリカ系が合理的で細身であるのかがわかる。

 

 

ここで、明治時代の鉄道用トラス橋の歴史をまとめてみた。

ポイントとしては、設計を主導的に行っていたイギリス人がアメリカ人に変わったとたんに、イギリスからの輸入をやめて、アメリカからの輸入に切り替えた事であろう。

その理由は、不経済な”ゴツイ”イギリス系から、経済的な”スレンダー”なアメリカ系から変わったと、単純な話なのであろうか。

私は、世界的な力関係がイギリスからアメリカに変化していったことが、関係あるようにも思える。

アメリカ製やアメリカ式と書いてきたが、要はメイド・イン・アメリカである。

そのメイド・イン・アメリカも設計の考え方が、途中でガラッと変化している。変化とは、トラスの結合点が「自由に動ける”ピン”」か「がっちり固定された”剛結”」である。

 

 

それらの変化を、この肥薩線では両方見る事ができる、なかなか貴重な路線である。

なお、アメリカがピン結合の工法を改めた理由であるが、ピン部分の保守点検が難しく、長年の使用で穴が摩耗して、ガタツキが発生するからだそうだ。

 

 

球磨川第一橋梁とセットになるのが、鎌瀬隧道である。こちらも明治時代に造られたものなので、煉瓦が主体で、輪石部分のみが石材である。いまでも、観光用の蒸気機関車が走っているので、いまだにトンネル内は煤で真っ黒である。

 

 

鎌瀬隧道を見た後は、一勝地駅(いっしょうちえき)に立ち寄る。ここでは、お土産とし入場券を硬券として販売している。

なんせ、名前が「」なので、縁起物の様だ。

 

 

那良口駅は周辺に全く民家も無いし、道路も狭い、すごいところであった。しかし、待合所は奇麗に整備されており、とにかく秘境駅感がすごい。

この周辺を散歩したみたが、本当に民家が無く、なんの為の駅かが謎であった。

 

 

球磨川第二橋梁もアイバーを使用した初期のアメリカ式トラスであった。

 

 

こちらも河川に対する斜角がきつくて、トラスが面白い形をしている。

 

 

 

今回紹介した、球磨川第一橋梁と球磨川第二橋梁の両方は、河川の氾濫により流出しています。貴重な明治時代の産業遺産ですが、元通りに復元する事は、技術的にも費用的にもありえない選択肢だと思われます。おそらく、最新型の国産トラス鉄橋に架け替えられるのでしょう。

明治時代の産業遺産が消え去り、減っていく事は、とても残念で悲しい事です。

 

写真 M Wariishi