台湾は意外と知られていないが、自転車大国である。

メイドイン台湾として最も有名なのは、ジャイアント(GIANT)でないだろうか。それゆえか、台湾内は自転車専用道路がとても多い。

その中でも気になっていたのが、鉄道の廃線跡を利用したサイクリングロードである、后里鉄馬道だ。

廃線跡の再利用としてサイクリングロードにするのは、最も手っ取り早い方法である。なんせカーブは緩いし、勾配変化も少なく、単線の場合は道路にするには狭すぎるし、サイクリングロードにはちょうど良い広さである。また、跡地の権利関係も単純明快である。

 

后豊鉄馬道の前身は、台湾鉄道台中線の旧山線である。この路線は、日本統治時代の明治36年から38年に、台湾総督府により建設されている。文字通り、海岸際では無くて山際を通っていた。戦後もそのまま利用されていたが、平成9年に複線化工事の為の新線工事が完了した後に廃止されている。

 

さて、后豊鉄馬道と呼ばれるサイクリングロードを走るには、台中市の中の后里(ホウリー)駅が出発点になる。駅前には多くのレンタサイクル屋がひしめき合っているが、客引きが無い店に飛び込む。そして、自転車をレンタルしようとしたが、種類がとてもたくさんある。

もともとは、ダイエット目的で始めたウオーキングやサイクリングである。当然、多段変速のやつを借りようとしたが、店の人が私の体型を見てか?電動自転車を勧める。

こうなると、意思の弱い自分である。300元(1000円/日)を支払ってレンタルする。

いざ、電動を借りるとなると、充電器が心配になる。筆談で、電池は一日持つか確認する。問題ないと返事がくるが、今一つ信用していいものか。

なお、事前情報では、自転車を借りるにはパスポートを預けるか、数千元のデポジットが必要と書かれていたが、パスポートの写真撮影だけで借りる事ができた。

 

 

普通の電動自転車だと思っていたら、店の人からハンドルに付いてあるアクセルの回し方を教わる。電動自転車なのにアクセル?

とりあえず、自転車に跨ってアクセルを回すと、たちまちに発進。電動自転車ではあるが、実際は電動バイクであった。ちなみに、全線でペダルを漕いだのは2回×10秒のみであった。

 

さあ、后豊鉄馬道を出発だ!アクセル全開にしたら、下りだと30kmを超えてしまう。事故でも起こすと大変なので、20km程度に抑えて走る。

 

 

山線が切り替えらえた新線の下に、旧線の橋台が残されていた。それも、レンガとコンクリートであった。煉瓦製の橋台は、日本統治時代に造られたので間違いないであろう。

この様な所で立ち止まって、写真を撮影していると、多くの台湾人に話しかけられる。想像だが、「ここに何かあるの?」って聞いているのであろうか。

 

 

しばらく走ると、レンガ造りの長大トンネルにご対面となる。名称は、九号隧道であり、明治41年に完成している。その延長は、1270mもあり、当時として最も長いトンネルであったようだ。

形状は典型的な馬蹄形であり、単線であった。

 

 

隧道を見るにあたっての楽しみの一つに扁額(へんがく)がある。九号隧道の北口には台湾総督府の後藤新平氏が揮毫した『潜行不窒』があった。

 

 

南口にある扁額は、『気象雄深』の四文字で、第五代台湾総督の佐久間左馬太氏が揮毫したようだ。(TAIWAN TODAY 鉄道見学で台日関係史を学ぼうより)

 

 

トンネルに入ってからの振り返り景色は、どこでも素晴らしい。さっきまで通ってきた道なのだが、一旦立ち止まって、馬蹄形の額縁を冠した景色は全く想像以外の景色になっている。

 

 

内部は全面が煉瓦覆工であり、風が気持ちよい。ただ、トンネルはゆるやかな上り坂が永遠と続いている。素人が自転車で走れる状況ではなさそうであった。

 

 

鉄道トンネルの証明ともいえる、退避坑が等間隔で設置されていた。意味は無いが、とりあえず中に入ってみる。よく考えたら、ミイラの棺桶の様だったので、すぐに脱出する。

 

 

このトンネルで最も気に入ったのがこちら。煉瓦の隙間から苔類の様なものが生えてきている。気軽に立ち止まったが、よく考えたらこのトンネルは自転車の対面通行である。

とても通行の邪魔なので、立ち止まるのはダメだと気付いた。

 

 

トンネルを出ると、鉄橋であった。

大甲渓鉄橋(だいこうけいてっきょう)は、大甲渓を渡る鉄橋であり、下路式曲弦ワーレントラス鋼橋である。なお現地のマップでは、大甲渓花樑鋼橋という言葉を使用していたので併記しておく。

 

 

全長382mで6径間の鉄橋であるが、アメリカンブリッジ製造であり、いったん日本を経由して台湾に運び込んだ様で、明治41年に架設されている。その後、昭和39年に台湾の橋梁メーカーにより架け替えらえている。

 

 

橋名板には「鋼梁廠製造」との文字が読めたが、台湾にはそのようなメーカーが存在しなかった。とても不思議である。今後、調べようと思う。

 

<追記>

「鋼梁廠製造」の”鋼梁廠”が判明しました。”台南在住日記とか”を、運営されているsineadさんから教えていただきました。

それによると鋼梁廠は、台湾鉄路局の鋼梁廠であり、鉄道などに用いられる鋼材の国営メーカーだそうです。ご教授、ありがとうございました。

 

 

この橋梁の歴史について調べていたら、明治37年の読売新聞に大甲渓鉄橋(だいこうけいてっきょう)の事が記載されていた。

要約すると、「台湾本島の中でも屈指の大甲渓谷があり、工事がとても困難である」とあった。見た目にも困難だった工事だと思われるし、明治37年という時期を考えると台湾で最も難しい区間だったと想像できる。

 

 

后豊鉄馬道であるが、トンネル跡と橋梁跡以外は、とても広々としたサイクリングコースである。緑のトンネルの中を、ペダルを一切漕がずに、左手のアクセルだけでビュンビュン飛ばせる。気持ちいいとしかいいようがない。

 

 

全長4.6kmの后豊鉄馬道も終点を迎える。

 

 

自転車道は、ここから再び他の廃線跡を巡る事も可能である。こちらは、台鉄台中線の支線で東豊緑色走廊と呼ばれるルートであった。バッテリーの事を考えたら不安であるが、ここは勝負して、全線を走破してみよう。

レンタサイクルのカゴには、緊急用の電話番号が書いてある。とはいえ、電話をしたところで会話もできないし。まあ、最悪はタクシーで帰ればいいか・・・

というわけで、旧山千の支線跡である東豊緑色走廊を走る。

こちらの支線であるが、終戦後の1958年に建設されている。

朴口駅のプラットホームが完全な姿で残されていた。

 

 

東豊緑色走廊では、一か所線路が残されていた。ここで立ち止まって撮影する人はいなかったので、台湾人には線路跡に興味がなさそうであった。

 

 

かしこそうなワンちゃんが、この廃線跡は俺の物だと言わんばかりに立ち退いてくれない。

 

 

大甲渓を渡る梅子鉄橋は、トラスとプレートガーダーを組み合わせた橋梁であった。

 

 

ただ、トラスの橋脚が新しいのと周辺の取り合い状況から、台風被害で架け替えられたのかもしれないと思う。(根拠なし)

 

 

東勢隧道は、斜角がついた立派なコンクリート造りのポータルであった。

 

 

現役時代の写真を台湾の林志明氏が残されていた。(撮影 1989.11.12)

 

 

東勢隧道を抜けると直線であった。

 

 

約12kmの旅で、終点の旧東勢駅に到着する。このあたりは、現在工事中でほとんど立入ができなかった。旧駅舎をリニューアルして観光公園にでもするのであろうか。

 

 

昔は勢いのあった町だったのかもしれない。現在は、ガランとした印象を受けた場所である。

 

 

今回のレンタサイクルの旅であるが、后豊鉄馬道往復で4.6km*2+東豊緑色走廊往復が12km×2であった。合計33kmの旅であるが、椅子に座り続けているので尻が若干痛くなったが、ペダルは漕いでいないので全く疲労感は無かった。

台湾の電動自転車(電動バイク)は恐るべきパワーと充電池の持ちが売りなのだろう。ちなみに最高速度は下りで40km程度で、上りは30kmくらいである。ヘルメットなんぞは貸してくれないので、転倒すれば死亡事故につながりかねない危険性も事実である。

くれぐれも自己責任で、安全運転が必要であろう。

 

のんびり走れば、数時間の旅である。景色の移り変わりは美しいし、なんといっても空気が美味しかったのが印象的であった。