「沖縄県には鉄道が無い」

40年前に沖縄旅行に連れて行ってもらった時に、ガイドさんから教えてもらった言葉だった。県レベルでは唯一鉄道が無い県として、私の記憶に刻まれており、それは今でもはっきりと覚えている。

その情報が誤っていた事に、最近まで気がつかなかった。

 

私の旅行は、ガイドブックを見るよりは、県の観光課の資料や、埋蔵文化財課の公表資料(ホームページ)なんかをよく見ている。その方が、古代遺跡や産業遺産などの、最新の情報や見学会の開催などがよくわかるのだ。

 

大東諸島の旅行を計画する時に、那覇空港でトランジットする必要があるので、那覇市内での観光地を探すことにした。そこで、沖縄県文化財課の資料を読んでいたら、令和元年5月の「市長定例記者会見コメント」というのがあった。

その内容は、沖縄県営鉄道「転車台」遺構の一般公開であった。その内容を抜粋してみる。

 

<平成27年に旭橋再開発工事を開始したところ、戦前に活躍していた沖縄県営鉄道の転車台の遺構が発見された。その後、遺構の保存工事を行い、このたび公開することができた。当時はケービン鉄道と人々に親しまれていた沖縄の鉄道を、当時の気持ちになって感じてほしい・・・>

そういう事で、たった一日の那覇観光を、あえて美ら海水族館では無くて、【沖縄県営鉄道の遺構探し】にあてる事にした。

 

沖縄県営鉄道は、沖縄県の産業発展の悲願として、一部区間を大正3年に開通させている。その線路幅は762mmと狭軌であり、軽便鉄道(けいべんてつどう)としての出発であった。

路線は全部で3系統あり、すべては那覇駅を中心としていたようだ。

太平洋戦争末期には事実上の軍需列車となり、旅客営業はしていなかった。終戦間際には、ほとんどの設備が破壊されており、運休状態であった。終戦後にはすべての線路が取り外されたり、ほとんどの遺構は撤去されており、復活計画はあったものの現実的ではなく、人々の記憶から忘れられていた様だ。

鉄道が復活しなかったのは、やはり米軍が持ち込んだモータリゼーションの発達にあると思う。なんといっても島なので、車社会が便利なのは間違いないであろう。

 

現在の那覇の中心地である旭橋であるが、そこが沖縄県営鉄道の旧「那覇駅」であった。

今や、軽便鉄道が走っていた思かげは、全く残っていない。再開発された、おしゃれな建物が並んでいる。

 

 

日本最西端の鉄道である「ゆいれーる」に乗って、旭橋からリーガロイヤルホテルに向かう歩道橋の上から、転車台を見る事ができた。

 

 

転車台とは、機関車を転回させる設備であり、ぐるっと回転させることで機関車の向きを変える事が可能となる。現在の電車は、方向転換しないでも運転席が前後で切り替えられるので、あえて向きを変える設備が必要ない。いわゆる、古い技術といえるのではないだろうか。

 

 

旧那覇駅の転車台を通過する写真が、沖縄県公文書館のデジタル写真で見る事ができる。使用されているのは、ガソリンカーであったようだ。なお、写真の出典は、アルバム名:占領初期沖縄関係写真資料 陸軍23の中で、タイトルは「廃墟と化した首都で転車台に載るガソリン列車の客車を点検する兵士」であった。

米軍による接収直後に撮影されたようだ。(1945年6月17日)



これらの転車台を含めた鉄道遺構は、戦中か戦後に破壊されたと考えられており、人々の記憶からは消えていたようだ。それが、平成27年の旭橋地区再開発の工事中に、遺構として発見されている。これは、沖縄県にとっては世紀の大発見だったようだ。その後、保存工事を経て、公園として開放されている。

ここで、転車台の歴史に対する疑問が生まれた。

沖縄県の多くの人々は、この転車台が、戦中~戦後に破壊されたと考えていた。上記の写真が撮影されたのは、日本軍の組織的抵抗が終わって、米軍が完全に制圧した昭和20年6月である。そのから先は、戦争の影響で破壊されたとは考え難い。

 

そこで、一つの結論を考えてみた。

転車台及び、那覇駅付近の設備は、戦争中もほとんど破壊されなかったか、破壊されても修復が可能な状態であったと思う。ただ、鉄道全線で見たら、かなりのダメージがあったのだろう。そこで、しばらくは米軍が軍需目的で那覇駅周辺のみ復興・使用していたのだろうか。しかし、道路の復旧と米軍の持ち込んだモータリゼーションで、鉄道設備は野ざらしになったのだろう。その後、周辺の廃墟と共に破壊されて、土中に埋められたのではないだろうか。

 

那覇市歴史博物館のデジタルミュージアムに、戦前の那覇駅構内の写真が残されており、その転車台も写っていた。この状況から想像するのだが、この時代には、もはや転車台は使われなくなっていたのかもしれない。

 

 

 

那覇駅から先の鉄道遺構はほとんど残っていない様だ。転車台と同様に建築物の基礎(公園)工事中に発見された線路が、保存されている場所がある。

たまたま公園の工事中に発見されたので、保存されたのだろう。これが、建物の下ならば間違いなく撤去されたであろう。そう考えると、奇跡だったのではないだろうか。

 

 

おもしろいところではあるが、この静態保存されているディーゼル機関車は、南大東島で使用されていたシュガートレインの牽引車であったようだ。せっかく保存されていても野ざらしなので、かなり朽ち果てている。

これも文化財の一種だと思うので、屋根付きの保存で整備を進めてほしいと思う反面、あくまでも自然状態で保存し、朽ちるのを待つのも”人工物の宿命”である気もする。

ただ間違いなく、この状態なら、あと少しの寿命かもしれない。

 

 

残念ながら、公園内だけしか線路が残されていない。この途切れた線路跡を眺めて、当時の風景を思い浮かべてみた。子供しかいない公園で、立ち止まって想像するのは危険である。そう、不審者に間違われそうなので、早々に立ち去ることにした。

 

 

真玉駅があったと思われる場所には、マンションと駐車場になっていた。遺構は残されていないと思う。

 

 

真玉橋の近くに、煉瓦橋台が残されていた。1m程度の水路を超えるための橋梁の基礎である。その橋梁が、何でできていたのかは不明なようだ。おそらく、鉄製だったと想像する。

 

 

大正時代に造られた遺構であり、終戦前に使われなくなり取り壊されたものが、かろうじて残されていることに感動する。

 

 

おそらく、橋台の前後は取り壊されて、新しいコンクリート擁壁と暗渠にしているようだ。

 

 

終点側の煉瓦橋台は、その大部分が取り壊されており、かつ電柱の控えアンカーとして利用されていた。その為に、いまにも転倒しそうである。

 

 

沖縄県で最初に造られた鉄道である沖縄県営鉄道。その生涯は、戦争による壊滅的な破壊を経て、二度と立ち直ることができなかった。いわゆる、戦争を経験した鉄道遺構である。

是が非でも、本格的な保存活動を願わずにはおられない。

 

写真 T.Wariishi