北大東島や南大東島が含まれる大東諸島は、台風シーズンに天気予報で紹介されるケースが多い。具体的に、天気予報で伝えている言葉を調べてみた。

「現在、非常に強い勢力の台風10号は南大東島の東の海上をゆっくり南西に進み・・・」

そこで、島名自体は多くの人が知っているケースが多いのではないだろうか。

しかし、この大東諸島が明治33年から入植されて、開発がスタートしたことは、知られていないのではないだろうか。そう、以外に歴史が浅いのである。

 

沖縄(琉球)の歴史でいえば、南西諸島が多くある東シナ海や台湾方面を向いて開発を進めていたようだ。大東諸島までは300km以上は離れているので、その海域は、沖縄にとっては”壁”に近い物だったのかもしれない。

ペリー艦隊が日本に開国を迫った時期に、探検を行っており、無人島である大東諸島がアメリカに確認されている。

明治12年に琉球王国が沖縄県へと改称された時期から、無人島の調査が始まり、日露戦争が勃発する5年前の明治33年に、ようやく入植事業が始まっている。

その入植事業であるが、八丈島の出身者が行っていたので、沖縄県であるにも関わらず、いわゆる異文化の歴史が形成されたようだ。

これらを、地図におとしこんで、沖縄本島と大東諸島、八丈島の地理的条件を確認してみる。相関関係がわかり易いのではないだろうか。

 

大東諸島の産業は、入植当初からサトウキビの栽培と製糖産業が主体であった。その後は、燐(りん)が産出することが判明し、燐鉱採掘事業が発展していく事になった。ここの燐鉱石の採掘の特徴は、露天掘りであり、石炭の様な坑道掘削ではなかった。掘った燐鉱石は、軌道の上をトロッコで運搬して、ストックヤードに保管した。その後は、船舶で本土へと運搬していた。

なお、燐鉱石は最終的には、大部分が肥料になったようである。

 

さて、それらの燐鉱石の施設としては、文化庁から「北大東島燐鉱山遺跡(きただいとうじまりんこうざんいせき)」として文化財指定されている。北大東島では、それらの文化財が立入禁止措置も無く、自由に見学する事が可能であった。

 

燐鉱石の生産の流れに沿って、遺構を整理してみよう。

最初は、燐鉱石の採掘であるが、全てが人力掘りであったことがわかっている。

   <写真は、戦前 ハマユウ荘様から許可を得て転載>

 

採掘された燐鉱石は、トロッコによって乾燥工程に移る。

 

乾燥工程は、ロータリードライヤーで行っていた時期もあった。その遺構が残っているが、台風による波浪の直撃で見事に破砕されていた。

 

 

引き波で転倒したと思われる遺構。台風の威力を感じさせる。

 

 

ボイラー罐の残骸と思われる円柱が転がっていた。手前のトタン等は、単なる廃棄物だと思われる。

 

 

掘りだされて乾燥した後は、ストックヤードに貯蔵される。

そのストックヤードは、旧東洋精糖燐鉱石貯蔵庫と呼ばれており、国指定の文化財である。

 

 

大正から昭和の初期に稼働してきた、ストックヤードであるが、見事な廃墟っぷりである。

 

 

その竪壁は控え壁も無く、いまでも自立しているのが不思議な、本当の遺跡であった。

 

 

旧東洋精糖燐鉱石貯蔵庫の下部には、トンネルがボロボロになりながらも残されていた。ここには、トロッコが出入りして、トンネル上部に貯蔵された燐鉱石を積み込んでいたようだ。

 

 

トンネルは全部で4本あった。その内の一本が、かろうじて破壊から逃れていて、完全な姿を見る事ができる。側部に開口があるが、そこから燐鉱石がトロッコに落とされていたのであろう。

 

 

大正期の燐鉱石貯蔵庫と積出トロッコ線路の関係が一目でわかる写真が残されている。トンネルの開口も見られる。

 

   <写真は、 北大東村村誌から許可を得て転載>

 

貯蔵庫にストックされた燐鉱石は、再びトロッコに載せられて、岸壁の積み出し設備へと向かう。

 

トロッコレールと共に、積み出し設備基礎が残されていた。

 

 

積出が、いかに大変だったかがわかる写真が残されていた。岸壁から、小型船舶(艀)に載せた後に、沖に停泊した大型貨物船に載せ替えていた様だ。

 

   <写真は、 北大東村村誌から許可を得て転載>

 

さて、一通りの燐鉱生産手順の遺構を見てみたのだが、どうしても気になるのが、派手に破壊された燐鉱石貯蔵庫跡である。特に、コンクリート(アーチ)トンネルの破壊が奇妙である。

そこで、この状況を整理して考えてみる事にした。

資料館によると、この破壊は大規模台風による破壊となっている。たしかに、細長いコンクリート柱は、残っていたり倒れていたりする。これは、激しい波浪による影響と考えられる。だが、トンネル天井部の破壊は異様である。

トンネル天井部が破壊された理由として考えられるのは3点である。

1.米軍による空襲等の破壊

2.台風被害

3.何らかの理由による人為的な破壊

 

トンネルの天井部の断面を確認してみる。鉄筋コンクリート構造であることがわかった。

 

 

また、破壊された、天井部の断面を観察してみる。破壊されたコンクリート面が不均一であり、波浪による強力な力での破壊では無いことがわかる。

 

 

天井の破壊面を見ていると、2点の疑問点が浮かぶ。そもそも、ここを人為的に壊す必要があるならば、道路に面した端部から順番に壊すのではないだろうか。また、等間隔に穴があいているように見える。

 

 

博物館で見せてもらった、「北大東村誌」を熟読すると、米軍による破壊と台風被害で無いことが読み取れた。そして、その「北大東村誌」には、この件についての説明があった。それを意訳すると

・・・戦後に機械化を進めるにあたって、ベルトコンベアを設置するために、トンネル天井に穴をあけ始めた。しかし、その作業は途中で中断されて、その内に燐鉱採取自体の産業に幕を閉じた・・・

個人の見解も含めた要約なので、真実かどうかはわからない。ただ、通説の台風被害では無いような気がする。(あくまで個人の現地を見ての見解です)

 

手つかずの自然と、手つかずの産業遺産が残されている北大東島。その全貌を知るには、相当な期間を要するのかもしれない。観光旅行では、その一部の表面部分だけしか、見ることが出来ないのが残念であった。

産業遺産についての詳細は、北大東村から平成29年に発行された「北大東村誌」を参考にさせていただきました。大変詳しい資料であり、その詳しさには驚きました。

 

写真 T.Wariishi