ソルテア(Saltaire)はイングランドの北部にあるシティ・オブ・ブラッドフォードの街である。
そのソルテアであるが、かつてはアルパカ繊維産業で世界的な街であった。だが、化学繊維の台頭とともに、斜陽産業となり街自体が衰退した。再び、世界的に脚光を浴びたのは、ソルテアの街並みが2001年に世界遺産(文化遺産)に登録されたからである。
ソルテアが繊維産業全盛期の頃、明治維新を終えて近代化へと突き進もうとしていた、日本からの岩倉使節団がこの町をも視察に来ている。
リバプール視察 明治5年8月27日~9月1日
イングランド中~北部 明治5年9月2日~9月21日
ブラッドフォード視察 明治5年9月22日~9月25日
ソルテアを視察したのは、9月23日であったようだ。
その時に記録された「特命全権大使米欧回覧実記」に添付された銅版画と同じ風景を撮影してみたい。岩倉卿も見たであろう景色の150年後の姿を。
「特命全権大使米欧回覧実記:汽車場」
「特命全権大使米欧回覧実記:ソルテア村の寺
」
両方の写真であるが、立入禁止場所などがあるので、実際の記録とは撮影角度が若干異なっている。鉄道の電化架線と、車以外は、150年間変化していないようだ。
岩倉使節団が、ここに立ち寄って視察した理由は何だったのだろうか。現地の案内板や文献を元にソルテアの街を歩いてみる。
ソルテアは、この周辺の中核都市であるリーズから鉄道で向かうことになる。その便は30分ピッチであり乗車時間も15分と短く、なおかつ下車した目の前が世界遺産であるソルテアである。イギリスには珍しく、簡単に行ける世界遺産であった。
ソルテアの街が一時代を築いた理由は世界に先駆けた繊維産業の機械化だった。
その歴史について、日本産業技術史学会の玉川寛治氏が書かれた「岩倉使節団が見たソルテア」から抜粋する。
1.西暦1803年生まれのタイタル・ソルト氏が、ブラットフォード市においてアルパカ糸の製造と高級ドレスの開発で巨大な財産を成す。
2.ブラットフォード市では水量が豊富でなかったので、河川の汚染などや、疫病の発生などで環境被害が顕著になった。また、労働争議が多発した。
3.環境汚染及び労働争議を避けるために、工場の移転を検討。ブラットフォード市から約5km離れた、何もない田舎を候補にした。そこは何も無いが、運河と川に挟まれており、新工場建設には適していた。
4.西暦1850年から計画を立案し、1853年には新工場(ソルテア工場)を完成させている。
5.西暦1872年に岩倉使節団が訪問している。その時は、東洋からの国賓として大歓迎だったようだ。
1853年に造られたソルテア工場を鑑賞する。当時に書かれた絵図を参考にする。
写真① ソルテア工場を跨線橋から撮影する。
写真② ソルテア工場の表玄関と管理棟を撮影する。
写真③ ソルテア工場を撮影する。
写真④ ソルテア工場の巨大煙突を撮影する。
工場は耐火建築にするために、外観は地元で掘削したクリーム色の砂岩や煉瓦のみを使用している。
ソルテア工場は、内部がリノベーションされて、商業施設となっていた。よって、内部をじっくりと観察できた。内部の耐火対策として、梁や一部の柱には当時最先端の鋳鉄を用いており、床板には煉瓦が使用されていた。特に、煉瓦床板(スラブ)の施工方法は特筆ものであった。
ソルテアは、紡績工場のみが世界遺産の構成遺産では無い。ソルテアの村も構成遺産である。
元々何もないところに工場を造成しているので、工場が建てられただけでは従業員や労働者の住む場所も無い。そこで、工場と同時にソルテア村も建設している。そこには、住居はもとより、学校や教会、図書館、病院等の生活する町として必要な全てを用意していた。
・1871に建設されたVictoria Hallは、文字通り公共ホールである。
・通りに面した建物は、商店を含めた公共施設だった。
・労働者階級の住宅は、長屋形式ではあるものの、一戸建て住宅であった。
何もないところに産業を造り、並行して町を造る発想は、日本でいえば長崎の軍艦島や池島などの炭鉱産業にあてはまる。もしかしたら、岩倉使節団がここを見て、その知識を得たのかもしれない。
ソルテアの村を散策しているときに見つけた猫ちゃん。なんとなく、古き伝統を背負った紳士に見えたのは自分だけだろうか。