大分県日田市に、現存する日本最古と推定される”石組みトンネル”があると聞いて見に行くことにした。

そのトンネル名称は、「川原(かわばる)隧道」と呼ばれており、大分県の文化財に選定されている。
また、土木学会により、平成22年に「川原隧道と石畳」という名称で選奨土木遺産に選定されている。
その選定理由であるが、土木学会では「江戸後期の日田往還道として掘られ、掘削の内部空間は、工夫された石積み構造で防護されている」としている。

それだけではよくわからないので、詳しく調べてみることにした。ほとんどの情報は、日田市の図書館で司書さんに聞いたことをまとめただけである。
江戸時代における日田地区は徳川幕府の天領であり、九州の内陸部ではあるが交通の要衝であり、いまでいうところの物流拠点であったようだ。

 


日田郡には九州の天領を取りまとめる西国筋郡代があり、その石高が江戸幕府天領の2番目の大きさという事もあり、格が非常に高かったようだ。
また、西国筋郡代の役割としては天領の管理以外にも、九州各地の外様大名を動静監視する”九州探題”という役割もあった。
以上から、日田郡の九州地方における重要性が理解できよう。

日田郡からは現在の玖珠町(大分方面)に向かうのに、玖珠川に沿って進む往還道があった。その路線は、かなりアップダウンの激しい地形であったことがグーグルマップの地形図からも読み取れる。

そこで、往還道に隧道を掘って経路を短縮し、米などの物資を牛馬等で運搬できるように石畳も敷設してインフラ整備を進めたようだ。

 

 


その様な、往還道整備の一環として計画された「川原隧道」は、嘉永7年(1854年)に、日田代官塩谷大四郎氏が事業を推進している。
なお、塩谷大四郎(しおのやだいしろう)は、土木事業を広範囲に進めた人物として、日高市では非常に尊敬されている人物のようであった。いわゆる、郷土の偉人であろうか。

さて、川原隧道は玖珠川沿いの国道210号から脇道をそれて進む。徒歩じゃないと見落とすような場所に看板がある。

 

 

家の裏庭風の犬走りを歩いて上がる。

 

 

途中から、往還道の名残りである石畳が現れる。この路線も、川原隧道前後しか石畳が残されていなくて、それ以外はアスファルト舗装になっているようだ。

 

 

歩いていたら本当に気持ちがいい石畳も、旅行者がほとんどいないせいか、だんだんと雑草が多くなる。マダニ対策で長靴で来て正解である。なお、途中で数か所分岐点があるが、江戸時代の通行人になりきると、迷わずに進める。

 

 

そして、ついに川原隧道に到着する。

現存する日本最古と推定される”石組みトンネル”のポータルを見られて感無量です。

 

 

内部は、見事な石板を使用した拝み構造であった。

 

 

隧道中心線で、石板を拝ませている。

 

 

せっかくなので、寸法を測って図面化してみた。

やはり、この隧道の最大の特徴は、拝み方式の石組防護の構造である。頂版にはハの字形に2個の長さ1.5mの石を組み合わせている。また、側壁の石組はアーチ構造の様であり、いわゆる馬蹄形である。
完全なアーチ形状ではないので、頂版の石に過度の負担がかかるのであろうか。または、石が大きいので取り扱いに不便さを感じさせる。

一度造ってみて、失敗したとでも考えたのであろうか。他では見ることができない構造の様だ。

 

内部は、熊本地震で一部が崩壊したようだ。日田市の教育委員会に、その当時の議事録が残されていた。それによると、入り口から20m程進んだところから10m程度が崩落したようだ。今も、一部が崩れている。

 

 

無人偵察機(ドローン)で内部を調査する。

 

 

 

土木学会の資料によると、内部には一部区間で覆工していないところがあると記載されている。おそらく、この場所であろう。隧道の断面が観察出来て、なかなかの生きた教材である。

この断面から、川原隧道の当時の造り方を想像してみる。

 

隧道の反対側に回り込んでみる。

 

 

最大の施工上の問題点は、石板の取り扱いである。

石材重量は、長さ1.5m×断面0.3m×0.3m×比重2.6=0.35t(350kg)と推定できる。人夫一人の作業可能重量を米俵60kgと同等と仮定すると、1本の石材を組み上げる人数は5~6人と仮定できる。それぐらいなら、不可能な作業では無さそうである。

 

こちらも、拝み部分の構造がよくわかる断面を確認できる。

 

 

現存する日本最古と推定される”石組みトンネル”である川原隧道。

その構造は、かつて見たことが無い形であり、実際に目で確認すると力学的に非常に無理がある構造だと思える。また、普通のアーチトンネルでは一つ一つの重量が軽いので、人力でも施工は可能だったろうが、この石板は大変な重量であるし、狭い中での組み立ては非常に困難だったと思われる。

よって、この形式は採用されなくなったのだと想像する。

 

それでは、何故この形式が採用されたのであろうか?案外、この石材がたくさんあったので、それを利用した・・・なんてことが真実かもしれない