明治維新以降に、日本は西洋諸国から取り残された産業の工業化を向上させるために、々な行動を起こしてきた。
殖産興業(しょくさんこうぎょう)という言葉がある。
その言葉の意味を辞書で調べてみると、殖産興業とは明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指しているようだ。

平成27年7月に世界遺産として、「明治日本の産業革命遺産」が選ばれている。
その対象エリアは九州から東北までの8つのエリアに分かれており、日本全体にまたがった世界遺産だといえよう。
その中でも、九州の遺産群は8つのエリアの内、5つも含まれており、九州が明治の産業を引っ張ってきたといえよう。その様子を実感するために、国土地位院の地図を加工して、「明治日本の産業革命遺産」の選定場所をプロットしてみた。



 

「明治日本の産業革命遺産」は工業化が主体の遺産なので、その分類は「製鉄・鉄鋼」「造船」「石炭産業」に分類されている。
また、時代の推移によって、産業化の歩みや意味合いが異なっているようだ。
上記を基に、”明治日本の産業革命遺産MAP(福岡県世界遺産登録推進室作成冊子)”を参考に、産業革命を時系列にまとめてみる。



以上から導き出される個人的見解は以下と思える。(専門家では無いので、あくまで想像です)
①明治維新以後、産業革命は試行錯誤で進めていたが、それは全国的に同時に行われていた。

②明治維新の混乱期から脱却した時期くらいで、西洋の科学技術が整頓だって導入されていった。それは、

九州のみであった。
 

③産業革命の成熟期になるにつれて、産業基盤が確立されてきた。
 こちらも、九州のみであった。
 

④産業革命が九州主体に進んでいったのは、なんといっても蒸気機関を動かす為に水を沸かす為の燃料や、製鉄を行う為の燃料としての石炭の産出が九州主体であったと思われる。

 

 

それらの世界遺産構成遺産の中に、大牟田市にあった三池炭鉱も含まれている。そして、三池炭鉱に含まれる、『三池炭鉱専用鉄道敷跡』も世界遺産の中の構成遺産である。

ここは、全国に多数残されている”廃線跡”の中でも、唯一無二の”世界遺産”なのである。

前置きが長くなったが、三池炭鉱専用鉄道敷跡を巡る旅をスタートする。

 

最初のスタートは、大牟田市にある宮浦石炭記念公園から。

ここは、厳密には世界遺産の構成遺産では無いが、廃線跡のスタート付近なので紹介する。

ここには、かつて三池炭鉱の宮浦鉱と呼ばれる坑口があった。現在は閉塞されてるが、その雰囲気は感じる事が可能だ。

 

 

その宮浦鉱へ出入りしていた、鉱山鉄道が保存されている。

 

 

世界遺産の構成遺産に含まれていない、宮浦鉱をあえて紹介したのは、ここには当時の煙突が三池炭鉱内で唯一残されているからである。

 

 

この煙突は、宮浦鉱の第1立坑の巻き上げ機を蒸気機関で稼働させる為に設けていた、ボイラー室の付属施設である。

明治21年に完成しており、高さは31.2mで、耐火煉瓦は約13.8万枚使用されている。

(出展元は、文化庁)

 

 

廃線敷きは、三井化学の現役線までつながっていたようだ。よって、これから先が廃線跡となる。

 

 

つづく