飯盛鉱山は、和歌山県紀の川市にかつてあった鉱山であり、現在は稼働していない廃鉱山である。

昭和9年の地図には、その存在が記載されている。
 
飯盛鉱山の位置図(地図)
 
明治11年に土地の人によって鉱床が発見されている。その後、明治20年から採掘及び精錬を始めている。大正8年に古河鉱業が鉱山の権利を譲り受けてからは、本格的な近代鉱山として稼働しだした。
鉱山内の地質は、いわゆる三波川系結晶片岩類であり、採掘された鉱種は銅、硫化鉄、ニッケル、コバルトであったようだ。総称すると、奮銅硫化鉄鉱鉱床といえる。
昭和25年の調査報告書によると、在籍人員424名であり、その内訳は職員が55名、坑夫が369名であった。規模的には中規模鉱山だろう。
飯盛鉱山の選鉱方法だが、文献を元にフローをまとめてみた。
飯盛鉱山での選鉱方法の流れ
 
それでは、飯盛鉱山の今はどうなっているのかを見に行くことにする。現在のグーグルはすごい。地図で検索すると、一発で表示してくれる。印刷機器メーカーのデュプロの背面にある山がそうだ。というか、デュプロが鉱山跡地に進出しているようだ。ここ以外にも和歌山県内では妙法鉱山跡地にも進出していたようだ。過去の県議会の議事録を見てみると、「妙法鉱山跡地にデュプロが進出している。飯盛鉱山跡にも企業の誘致を検討しなければ・・・」云々とあるが、結局デュプロが誘致されたんですね。
 
さて、飯盛鉱山の全景を見るには、デュプロ横の農道を徒歩で登っていく。
 
飯盛鉱山と印刷メーカーであるデュプロ
 
農道を10分ほど上がったところから、対岸の鉱山施設跡が一望できる。
 
飯盛鉱山の全景と遺構
 
なかなかの眺めである。知らない人が見たら、ここに鉱山跡があったとは想像もできないであろう。
 
 
最上部にあるのは、水槽だろうか。鉱山といえば、大量の水を使うので間違いないだろう。その下には、鉱石を分別する機械があったのではないだろうか。
 
飯盛鉱山にある水槽跡
 
 
この鉱山跡の最大の見所は、円形の原型が残っている浮遊選鉱機(シックナー)であろう。上部には攪拌装置があったはずだが、朽ち落ちたのかスクラップ処分したのであろうか、何も残っていない。
専門書によると、バルク優先浮遊選鉱機が正式名称のようだ。鉱石と水の中に薬剤を注入して攪拌すると、重い重金属は下に沈殿し、泡に取り込まれた金属は上に浮くようだ。
 
飯盛鉱山になる浮遊選鉱機とシックナー
 
 
浮遊選鉱機で分離された鉱石は、下の設備まで運搬されて、純度の高い鉱石は索道で搬出されていた。
 
 
 
鉱山の最下部に、茶色の液体が入った水槽と、濾された水色の液体が入った水槽が見える。
デュプロが鉱山跡地を購入して、鉱山廃水の処理を行っていたと思って調べていたが、違うようだ。和歌山県の県報(第2216号)によると、足尾精錬(株)が鉱山の排水を浄化処理していたことが判明した。
その処理であるが、坑水中和沈殿施設を使用して、0.1m3/分で坑内排水を処理しているようだ。その原水はpH2.7~3.7程度なので、かなりの強酸性である。
飯盛鉱山と足尾精錬による鉱山廃水の浄化
 
 
最後に、昭和20年代に銅鉱山の状況を比較した論文を見つけたので、考察をしてみる。
飯盛鉱山の規模的には、やはり”中規模”であった。粗鋼採掘量は月に5270tであったが、実際に売り物になったのは月に86t程度であった。その割合は、約1.6%。坑道から苦労して搬出した鉱石であるが、実際に使用されるのは、ごくわずかであり、98.4%がゴミであるのが驚きである。
また、その1.6%の搬出した鉱石も、二次選鉱で本当に使用されたのは、もっと少ないはずである。鉱山というのは、効率の悪い産業であったのかもしれない。
飯盛鉱山における粗鋼採掘量
鉱山跡が山の中に静かに残されている事が驚きであり、廃止されて50年以上が経過しているのに、いまだに鉱山廃水を処理し続ける必要があるところも驚きだ。
ただ言えるのは、我々の生活に銅は絶対に必需品なのである。