和歌山県の最南端である串本町にある、選奨土木遺産である樫野崎灯台。

 

前回のブログで、その樫野崎灯台について書いてみました。ですが、書き上げてアップした時点で、いろいろな追加の疑問点が沸き上がってきました。

 

その疑問点について、検証したくなってきましたので、樫野崎灯台(その2)についてのブログをお付き合いください。

疑問点1 :灯台を嵩上げしたメリットは?

 

日本最古の西洋式の石造り灯台である、樫野崎灯台。明治3年(1870年)に完成した時は、灯搭部分が1階と、灯ろう(光源体)が1階の合計2階建てでした。

 

 

それが、初点灯から84年後の昭和29年(1954年)に、灯搭部分に中継ぎ部分が追加され、灯搭が3階と、灯ろうが1階の合計4階建てに改築されました。

 

 

改築された理由ですが、それは誰もが思いつくでしょうが、灯台の光が達する距離(光達距離)を遠くする為になります。

ですが、とても疑問に思いました。

この灯台程度の、ほんのわずかの嵩上げで、それほどまでに光達距離が変化するものでしょうか?

地球は丸いです。

それゆえ、遠くに行くほど、地球の丸さの影響で、遠くのものがみえなくなるはずです。

 

せっかくなので、検証してみることにします。

まずは、肝心の樫野崎灯台の平均海水面の高さから、灯頂部までの高さをデーターを基に算出します。

 

あとは、地球の半径を6378mとして、船の高さを5m、灯台の高さを上記として光の到達距離を計算してみます。

 

以上より、灯台の高さを嵩上げする事によって、光の到達距離は約1.5km増える事が判明しました。

この1.5kmの価値がどれくらいなものかはわかりません。ですが、時代が進むにつれて船舶の大型化や通行量の増大などから考えると、わずか1.5kmですが、されど1.5kmなのかもしれません。

 

まとめると、樫野崎灯台は灯台を嵩上げする事によって、より遠方まで光が届くことが可能にになり、船舶の安全運行に貢献したということになるのでしょう。

 

 

この灯台ですが展望台が併設されており、レンズの近くまで寄ることができます。説明板によると、光の強さは44万カンデラ。光の届く距離は約34kmとありました。

私が計算した値は約32.5kmでしたので、まあまあの近似値が求められているようです。

 

ただ、私が計算した地理的光達距離ですが、光の屈折による6%割り増しをかけていません。そこで、計算値32.5kmに6%をかけると約34kmになり、灯台のレンズの性能と同等だということが判明しました。

 

灯台のレンズの選定ですが、計算した地理的光達距離とたまたま一緒だったのでしょうか?

いいえ、たぶんたまたまとは違うのでしょう。なんらかの計算式があるのかもしれません。

(以上は、個人的に地理的発想で計算してみた結果ですので、本当の計算とは異なると思われます。ただ、個人調べでは、これ以上の計算方法については、わかりませんでした。)

 

 

疑問点2:トルコ軍艦の遭難事故と嵩上げの関係

樫野崎灯台付近での重大な出来事といえば、明治23年9月16日に発生した、トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事故になります。

 

 

この遭難事故の直接的な原因は、当時発生した大型台風によるものです。この事故を契機に灯台の嵩上げが検討されたと思っていました。

ただ、トルコ軍艦がどのあたりで座礁したのかがよくわかりませんでした。そこで調べていくうちに、座礁場所が海上保安庁の資料で特定できました。

とても意外だったのですが、樫野崎灯台からはるか沖合では無くて、本当に近くの岩礁でした。

 

 

トルコ軍艦の事故と、灯台の嵩上げに因果関係はなかった様です。

 

疑問点3:石材の採取場所

 

樫野崎灯台は、『日本最古の洋式石造り灯台』とあります。

 

 

では、その石材はどこが産地で、どうやって持ってきたのでしょうか。

調べてみると、宇津木と呼ばれる地区でした。

文献によると、川を船で下って、海を渡った様です。

 

<地質調査総合センター 地質図NAVIより転載した後に、加工>

 

宇津木より運搬した根拠ですが、和歌山東漁業組合のホームページに以下として記載がありました。

『明治2年(1869)3月15日偉人樫野埼に灯明台屋敷拵えにかかる。その石を宇津木より取り寄せる。大石一個、目方千貫より百貫まであり、石屋百五十人の賃金は段々にて…中略…家大工の賃は一人前…以下省略』
 

せっかくなので、その石材の産地である宇津木を見てみたいものです。そこで、グーグルのストリートビューを利用して、宇津木地区を見てみます。

残念ながら、岩肌を確認する事はできませんでした。

ストリートビューの左端に、古座川一枚岩の看板があります。

 

 

地質図で確認すると、宇津木の地区の地質と、古座川一枚岩の地質は、全く一緒の事に気が付きました。そのメインは、『火成岩』になります。

地質図で見ると、薄黄色の帯状の地帯になります。

  形成時代: 新生代 新第三紀 中新世 後期ランギアン期〜トートニアン期

  岩石: デイサイト・流紋岩 溶岩・火砕岩

 

 

そこで、古座川一枚岩について、書いてみようと思います。

 

 

古座川の一枚岩ですが、国指定の天然記念物になります。

その詳細については、現地の看板に以下の様に書かれていました。

『古座川の一枚岩は、高さ100m、幅500mの大岩盤です。これらは熊野カルデラ火山の地下深くで、マグマからできた岩体です。火山活動から長い年月を経て、地蔵に現れた岩体が風化、浸食され珍しい形となりました。紀伊半島の生い立ちを物語る貴重な地質遺産のひとつとして、古座川弧状岩脈に選定されています。』

 

 

一枚岩盤ですが、近くで見ても亀裂がみられませんでした。これだけ大きいものですと、日中の直射日光を浴びると岩盤が膨張し、夜間は冷えて縮小しますので、いたるところに亀裂が入るはずです。それが無いという事は、一枚岩盤の奥行きが広くて、一枚といった表現よりも、塊といった表現の方が適しているのかもしれません。

 

 

あらためて樫野崎灯台で使用されている石材と比較してみると、色・艶などが一緒の事に気が付きます。

 

 

明治3年に切り出されて運ばれてきた石材なのですが、近くでみてみると、本当に緻密な加工状況が確認できます。お雇い外国人でイギリスからやってきた現場監督ですが、この加工技術を見たら、かなり驚いたのではないでしょうか。

おそらく当時の普通のイギリス人から見ると、日本は未開の国であり、技術も何もない、とんでもない”遅れた”国だと思っていたのではないでしょうか。

それが実際に日本に来てみたら、このような精密な石材加工が、地元の一般的な石工さんでできるなんて思いもよらぬ事だったんでしょうね。イギリス人の驚いた顔を想像してみると、なんだか誇らし気な気持ちになってくるのが不思議です。

 

ただ当時の日本人は、こういった加工石の組み合わせ方法や建築物で使用する事などは、あまり知られていなかったのではないでしょうか。

こういったジミチな触れ合いから来る信頼感が、後の日英同盟につながったのかもしれませんね。