川岸から川沿いの森に入れば、そこには道らしきものがあった。動物たちの通り道さながらで、熊や猪の影に怯えたが、まぎれもなくそれは人の道だった。私の前に誰かが歩いた道なのだ。私は山と森の中にそれを探し、見つけると安心することができた。
(続く)
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《夢で逢いましょう…すぐ隣の知らない人がNO11》
夢の最初から私の横には、誰かがいたことを今になって思い出した。それが誰だったのかどうしても思い出せない。この人はずっと隣りにいたにもかかわらず、殆ど言葉をかわすこともなかった。あるいは何かあったのかもしれないがほとんど記憶には残っていない。
ノートにも何も書き残していなかった。ふたことみこと言葉をかわしていたが、夢の中ではあえて特別に意識を振り向けるまでもなく、私の近くにいて当然の人だったようだ。だからそんな人物は記憶に残ることも、記録に取ることもなかったのだろうと思う。
夢だけではなく歴史的事実でさえ、あまりにも当たり前に行われていたことは記録されることから、もれてしまう。さらに書きたくないことは書かないという傾向がある。
ルイス・フロイスの《日本史》にはヨーロッパと日本の違いについて克明に書かれているが、あの時代の日本人の歩き方、走り方については書いていない。ここには大きな違いがあったはずなのだが。
生身の肉体でUFOに乗ったと主張する人々は、その詳しく書かれた搭乗記の長くて世にも珍しい貴重な生々しい記録の中にトイレをどうしたのか、彼らの排泄行為をどうやって処理したのかについて、一切触れていないのはどうしたことだろう。
気の利いたUFOコンタクティは、その必要がないように生理現象は《波動調整》されることによってコントロールされていたと言うのだが、その件でいっきに信憑性にひびが入ってしまう。
そんなお話になると全ては《波動調整》の賜物だった…妄想や幻想をインセプションされたのだろうと言うことになってしまうというのに。発言には気をつけなければならない。
宇宙連合との交流は肉体レベルという次元にこだわると、かえって現実性が乏しくなってしまう。誰の夢にもそのような、いつもよく行く場所がある。そして夢でよく会っているのになぜか覚えていない人物がいる。
決して思い出せない場所や人は、それが深い隠された秘密ではなく、案外あまりにも身近にいるからなのかもしれない。ガイドとか守護霊と呼ばれている存在を身近に感じている人は少ないかもしれないが、彼らはいつもあなたのすぐ近くにいる。
彼らガイドは自称教祖様や、成りすま師霊能者様のように祭り上げられたり、拝まれたりしているわけには行かないのだ。彼らにはあなたを守護し導くという使命がある。あなたとガイドは一つの存在であり、あなたなしにはガイドもないからだ。彼らにとってあなたという存在、あなたの行いは他人事ではなく、我が事なのだ。
(続く)
マサト