創造から破壊へ…ディセンション、火星大接近160531NO6 レビュー | ヘミシンクピンポンパン

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山で別れてしまった3人のおばさん達は三つの霊団、三つのパラレルを意味していた。希望の金星と、絶望の地球、それに滅亡の火星へとアセンションとともに人々はこれまでの無数無軌道なパラレルから、それぞれにぴったりな惑星の選択という収束へと至るのだ。
ここでクリックアウトしてしまった。バシャールとの会話はまだ続いていたが記録には取れず《コン》という大きなラップ音で意識を戻した時にはもういなくなっていた。私は彼に《ありがとう》といって終わった。
(続く)



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《ディセンション、火星大接近160531NO6 レビュー…創造から破壊へ》


《人が登るところを目指さないように…覚醒や導きや引き寄せをビジネスにしている人々は間違った方向に進んでいます…霧や夜の闇や、凍りついた世界に踏み込んでいく人々です》バシャールはこのワークの最後の方でそんなことを言った。

ビジネスは大きなポジティブな行為だが、気づきや引き寄せをビジネスにする人達が間違った方向に進んでいるのだとしたら、ブログやネットの自称スピリチュアルのあら方は全滅する。ここには恐らく悪質な自己啓発や心理分析カウンセラーや、それにブラック企業の先生方も入る事になるのだ。もちろん本物もいるには違いないのだが、本物と出会うまでに人類は宇宙の梅族ピロ菌魂とそれに潔癖症で壊滅する。

それは覚醒や導きという教義ではなく集客、集金というビジネスの営利目的が布教活動にすり替わっているという現実であり、かつての宗教の二の舞いになっているのだ。新興カルト宗教組織が構築した本部や支部や絢爛豪華な寺院を見ればそれはわかることだ。

彼らのやっている金儲けは金権教、神様御本尊様資本主義であり金の前には人類を屈服させることが出来るという信念であり、それはかつてのバラモンの行いだ。こんなものは宗教でもスピリチュアルでさえもない。信者は今日生きる金もないというのに支部長様の優しい言葉が欲しくてせっせと教祖様に貢ぐのだ。

彼らはブログやネットで囲い込みという行為に血道を上げている。数年前あなたのブログは囲い込みすら出来ていないといわれて私は驚いたことがある。何故そんなことをする必要があるのか今もわからないのだが、その人たちの言い方は私が常識をわかっていないと言わんばかりの態度で唖然とさせられた。

こういう言い方をする人々は信者をつくって何かを売りつけるということを前提にしており、綺麗にいえば囲い込みはマーケティングの手法、売れる仕組みで、スピビジネスが当たり前になっている人々にとっては常識なのだろう。残念なことにこうした人々にスピリチュアルは全くなくただ人を操る技術ばかりが磨かれているのだ。

ブログという媒体ではどうにも書きにくいことを私も別の手段で書くことを検討しているが、その時は有料にする。それはビジネスではなくコストがかかるためなのだが誰も買わないのであればそれで結構。読者が私一人だとしてもそれは今と変わらないので何ら問題はない。なので囲い込みとか顧客管理とか広宣流布やら折伏やら座談会という営業活動は私には全く必要がない。

ブログ記事の一番上の欄にCDの販売についてのお知らせを載せているが、これはCDを制作してくれた人のために私も宣伝に協力しただけであり、私のところには一円のお金も入っていない。このお知らせ欄はどういうわけかフリーズしてしまい、消せなくなったのでそのままにしてあるだけなのだ。

他にメッセージ欄ももう何年も前から使えなくなっており、コメント欄も一週間ばかり帰宅が遅くなった時にやむを得ず閉じたのだが10日後、元に戻そうとしても基本設定は全く無反応で、やはりフリーズしてしまいしかたがないのでそのままにしてある。これも6月20日・アセンションの日の直前のガイドのはからいだったのだと思い当分は騒がずそのままにしておくことにした。

アセンションは厳しいがディセンションは親切で優しいのかもしれない。アセンションは怖くて死ぬような思いをし、ディセンションはままごとで癒されるお医者さんごっこの味がするのかもしれない。バシャールも笑スピ引き寄せの法則なんぞに利用されてさぞかし迷惑に思っていることだろう。だが彼らはイヤということはしない。人類に奉仕するように彼らは創造されたのだから。ディセンションする畜獣達にもお付き合いするのだ。

磁石のN極とS極はどちらがポジティブでネガティブだろうか。陽子とその周りを回っている電子はどちらがポジでネガだろうか。ポジとネガとはそのような意味なのだ。それは性質でありそれ以外の意味は無い。魂のポジティブ性とは他者奉仕者でありネガティブは自己奉仕者のことであり、神の目から見るとき、それはどちらも同じく宇宙に奉仕する存在なのだ。

お花畑と砂場の笑スピさんのいうポジとネガは恐らく善と悪とか光と闇、美と醜みたいな価値観を当てはめているというより、それそのものになっており、ポジが正義でネガが悪徳であるというふうに仕分けされているのだ。そのような解釈や価値の感じ方、仕分けの仕方、カテゴリーという分離、分析がそもそも非常にネガティブであり、こういう場合のネガティブは観測するという受け身、消極性、自分がそこにはない、自己否定とか嫌悪、拒絶という意味が強いのだ。

このような現象をプレアデス偏光と呼んでいる。そして互いをバラバラに引き剥がし、それによって意味を見出し理解し、そして対立構造によって互いの存在価値を際立たせ、争うこと、競うことによって世界を構築するという精神構造を宇宙連合はフタイシツと呼んでいる。その行き着くところは破壊であり滅亡なのだ。我々は創造の神から破壊の神へと移り変わり、それに合わせるように神も立場を入れ替える。  

(続く)
マサト