落語のまくら
久しぶりに、上方落語の話です。
落語の構成は、まくら→本題→落ち、という流れになっています。
まくらの果たす役割は、いかにスムーズな流れで本題に繫いでいくかという導入部分になります。
自己紹介をする、小咄などで笑わせて本題の前に聴き手をリラックスさせる、本題に関連する話題で聴き手の意識を物語の現場に引き付ける、落ちへの伏線を張る、などがあります。
なーんか、私が今やっている講師の仕事と共通しているんじゃないですか。参考にしなくっちゃ。
独断と偏見を交えて断言しますが、まくらでも上方の方に軍配が上がります。センスがあって、腹から笑えます。だって、そうでないと、観客が許してくれませんから。お江戸のように、箸が転んでも笑ってくれるような優しい客はいませんしねえ。
江戸落語は、話芸ですから、笑いよりも型を大事にしています。
さて、これは、桂米朝が演じる「はてなの茶碗」のまくらです。
本題の概略は、こんな感じです。
清水寺の茶店で、著名な茶道具屋の金兵衛が茶碗にひびもないにも茶が漏れるのを不思議がって、「はてな」と言い残して店を去る。横目で見ていた油屋が、千両の値打ちがあると思い込む。店主に強迫まがいの交渉をし、なけなしの二両でその茶碗を買い取って件の茶道具屋に売りにいく。ところが、鑑定は二束三文。情けをかけてもらって三両で買い取ってもらい、赤っ恥をかく。その後、茶碗の噂が関白、更に帝の耳に入って、直筆の箱書きが加わると千両の値打ちがつく。これを聞いた油屋が、水が漏れる水壺を見つけてきて、「十万八千両の金儲けや」という話。
その本題に持っていくまでのまくらが、これです。
物の値段というのは不思議なもので、誰が決めるというと自然に決まっていくもんなんですなあ。ほしい人にとってはえらい値打ちのあるもんですが、ほしくない人にとっては何の値打ちもない、ということがあります。
私らなんかも色紙を頼まれたりするんですな。度胸で書いてますさかいに、字書いてるんやら、恥かいてるんやらわからんですが。たまたま、ひょんな拍子でええのができたりします。以前名代の古本屋で、私の書いた色紙が立派な額に入って2万円という値がついたんですな。店主に言うたんですわ。「そんな2万円なんて値つけなはんな。わたい恥ずかしくて道頓堀歩かれへんがな。」「心配しなはんな、額縁代が1万8千円や」
展覧会なんか行ってみましても、確かに結構なものがあるなあ、ええなあ、と思っても分らんのが値段なんですなあ。何十億という値段で外国から絵を買うたりいたします。
壺が並んでいて、同じ色目で同じ格好してるんですな。模様も同じ模様がついていて、その大きなほうが20万で小さいほうが40万なんですなあ。
「なんでこんな値段が違いますねん?なんでこっちが20万で、こっちが40万ですんやろ?」「そらこっちの方が40万の値打ちがあるんやさかいに、こっちが40万ですな。」「そやけど、これ同じ焼きモンでっせ。材料も一緒やんなあ。色目も形も一緒やし、ついてる模様も同じで、なんで大きいほうが20万で、小さいほうが40万ですねん?」「焼き芋買うんやないんやさかいに、大きい方が高いって、そんなもんやなあいねん。小そうても、これには40万の値打ちがあんねん。」「どこが40万?」「大きな声出しなはんな。こんなものは、ちょっと見ただけでは分らん。鑑賞せなあかん。気を静めて、じーと味わうねん。目でな。40万の方をじーと見てみなはれ。この模様がだんだん浮き上がって、迫ってくるように思えまへんか?」「なるほどー。じーと見ているとぐっときますなあ。」「ぐっときまっしゃろ。」「あー。やっぱり40万でんなあ。こっちは大きいけど、なんとなく品がない。」
なんて言うてたら、係員が来て、「すんまへんなあ、値札間違うてました」と値札を入れ替える。
こんなもんでっせ。半分は分ったような顔してまんねん。
やっぱり、さすが人間国宝。