コラムの窓・・・もうひとつの日清戦争・東学農民戦争!
【ワーカーズ九月一日号より転載】

星英雄:日本社会の変革をめざして 「韓国東学農民軍の歴史を訪ねる旅」に参加して㊦ | 連帯・共同21
 

 

 明治維新から「征韓」、日清・日露戦争、そして敗戦へつ行きついた日本の歴史のなかで、日本軍最初のジェノサイド作戦こそが皇軍の残忍な侵略戦争に道を開きました。それは、あたかもイスラエルがガザ住民に南への移動を強制し、4万人もの市民を殺害し、さらに皆殺しへと突き進んでいる今と重なるものです。

 中塚明は「近代日本と朝鮮」(三省堂新書)のなかで、19世紀半ばの情勢を次のように述べています。

「明治維新でいちはやく民族の統一を実現し、欧米諸国の侵略をはねのけて、基本的に民族の独立を達成した日本は、その時点でおなじ目標をめざしてたたかっていたアジア諸民族の進歩の先頭にたっていた」「だが、彼ら天皇の政府の指導者たちは、人民の政治的権利の伸長が、天皇の専制支配をおびやかすことになるのをなによりおそれたため、人民の民主的権利を認め、その力を背景に国の完全独立を毅然として実現するみちをとらなかった。彼らは内には日本人民を専制支配のもとに抑圧し、そして外にたいしては、当時なお封建制度のもとにあって、国の近代的統一をなしとげていなかった朝鮮や中国を侵略することによって、日本が欧州に圧迫されている代償を、政治的にも、経済的にも、心理的にも得ようとしたのである」

 この時、朝鮮では腐敗した王朝政府に対する農民の闘いが、東学農民戦争として燃え上がったのです。1876年、朝鮮は日本と結んだ修好条規によって欧米列強の脅威にさらされるなか、東学の「人すなわち天なり(人乃天)」という人間の尊厳と平等、「斥倭斥洋」(とりわけ悪徳日本商人の跋扈に対する)の民族思想が形成され、やがて下からのナショナリズム運動・農民戦争へと高まったのです。
 
1894年2月15日古阜(コブ)蜂起、4月30日農民軍発足、総大将に全?準(チョンボンジュン・1853年~95年4月24日処刑)、5月31日全州(チョンジュ)城無血入城。その後、王朝政府と和約締結して農民軍解散、故郷に帰って農作業に追われる。そこでは、執綱所(チプカンソ)が設置され、自治が実現しています。

 朝鮮半島で日清両軍がにらみ合いをするなか、日本軍が7月23日に朝鮮王宮を襲撃、占拠して日清戦争へと突入。10月、農民軍による第2次蜂起。これに対し、大本営は当初から「悉く殺戮」命令を発し、殲滅作戦を強行しました。

 今も韓国の幹線道路の3方向から東学農民軍を南西方面へ包囲して殲滅する、最後は珍島(チンド)に追いつめ皆殺しにしたのです。ところが、この日本軍最初のジェノサイドはどの歴史教科書にも書かれてないし、なかったことにされているのです。その後の軍事侵略のなかで、同じことが何度も行われたことを、私たちは恥ずべき歴史として記憶しなければならないでしょう。

 農民軍は地の利を生かし、創意工夫で闘いを組み立てたのですが、竹槍と火縄銃では訓練されたライフル銃の歩兵に太刀打ちできません。農民軍が400メートルまで近づいたら一斉射撃(百発百中、実に愉快)と。

「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾(十)名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」(陣中日誌)。こうして殺された農民軍犠牲者は、3万人とも5万人とも言われています。

 1995年7月、北海道大学で放置されていた段ボール箱から6体(3体はウィルタ民族)の頭骨が発覚、1体は表面に、「東学党首魁」と直に墨書きされ、書付が添付されていました。その後、この頭骨は96年5月31日、韓国に奉還されています。

「髑髏(明治39年9月20日 珍島に於いて)右は明治27年韓国東学党蜂起するあり、全羅南道珍島は彼れが最も猖獗を極めたる所なりしが、之れが平定に帰するに際し其首唱者数百名を殺し、死屍道に横はるに至り、首魁(首謀者)者はこれを梟(さらし首)にせるが、右はそのひとつなりしが、該島視察に際し採集せるものなり  佐藤政次郎」

 この人物は札幌農学校・第19期生で、札幌農学校は植民政策やアイヌ政策と深いかかわりがあり、卒業生は植民者として統監府へ農業技師として渡っています。例えば、卒業生の新渡戸稲造は「枯死国朝鮮」で「此国民の相貌と云い、生活の状態と云い、頗る温和、僕野且つ原始的にして、彼らは第二十世紀の民に非らず、否第一世紀の民にだもあらずして、彼らは有史前紀に属するものなり」と述べています。

 また、東学農民軍については「1893年に、そして再び翌年に、〝東学党〟の乱が起こった。これは反動的狂信家の群で、一切の進歩と変化に反対していた」などと言う、酷い急進植民論者だった。アイヌ民族についても、同じように植民者目線で語っている。「北海道の植民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ民族が、臆病で消滅に頻した民族だったからである」、と。

 武器の力、軍隊こそが全てを決する、植民地支配もその優位が支配と被支配を分かつ。その論理が今も死に絶えることなく、卑近な例を引けば、ロシアやベラルーシとイスラエルを同列に置くなという非難が欧米諸国から聞こえてくるが、まさに植民地支配する側の意識むき出しです。

 内に向かってみれば、岸田自公政権は軍備拡大、軍事産業強大化に走り、日本の欧米化をめざしています。明治維新から始まった恥ずべき歴史を顧みるなら、武力への隷属から脱し、軍隊のない社会へと向かう以外の道はないだろうと思う今日この頃です。(晴)

追記 韓国国会は2004年、「東学農民革命の名誉回復に関する特別法」を制定し、その第2条で「東学農民革命参加者」を、1894年3月に封建制度の改革のため第1次蜂起し、同じ年の9月に日帝の侵略から国権を守護しようと第2次蜂起し、抗日武装闘争を展開した農民中心の革命参加者を言う、と定義しています。

 一方、日本では大逆事件の犠牲者も治安維持法の犠牲者も放置されたままであり、国家権力による弾圧、殺害は不問に付され、犠牲者の名誉は回復されていません。
参考文献 中塚明・井上勝生・朴孟洙「東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争」(高文研)