「脱成長コミュニズム」批判に反論する

【ワーカーズ八月一日号】

 

 

「脱成長コミュニズム」のコンセプトは斎藤幸平などによって提唱され、国際的に注目を集めていますが、左翼誌「Jacobin」「Monthly Review」「Climate & Capitalism」などではいくつかの批判がなされています。以下はその代表的な論者と彼らの批判の特徴と私の反批判です。

 

■「脱成長」とは緊縮財政や経済停滞のことか?

 

  批判者の代表的存在であるリー・フィリップスは、脱成長が気候変動や環境問題の原因を誤って診断していると指摘しています。彼は、経済成長そのものではなく、資本主義の特定のダイナミクスが持続不可能な慣行を促進していると主張しています。乱開発、自然破壊、化石燃料依存等々が資本主義と深く結びつくことを、フィリップスは曖昧にしたいようです。

さらに脱成長を緊縮財政と同列視した上で「私が脱成長に反対するのは、それが欧米の労働者階級の所得の停滞、あるいは減少さえも要求するからだ」とします(「脱成長は気候変動の解決策ではない」Jacobin)。

つまり「パイを増やそう、そうしないと労働者の取り分も減りますよ」「だから成長は必要だ」という考えです。このような批判は馬鹿げたものです。

資本主義の危機は「気候危機だけ」ではなく経済格差や少子化問題も今では資本主義の生み出した深刻な問題であることは明白です。その根底に強蓄積、利潤追求、生産性向上・・つまり「資本主義的成長」が存在し、幾多の矛盾を生み出しつづけています。フィリップスは問題の本質を見ようとしません。

労働者の生活水準の低下や格差拡大を取り上げれば、搾取と労働分配率の低下や租税負担やインフレなどの追加収奪にこそあります。資本主義の改良で労働者の生活アップとは、先進諸国ではそれこそ非現実的です。

歴史をほんの少し振り返りましょう。富の蓄積は階級社会の形成に連動して開始され、それとともに生産の増強が民衆に強要されるようになります。例えば貢納、地代、租税、利潤という形で剰余生産物・価値の収奪のために、開発が叫ばれ時の支配階級により生産力や成長は求められてきました。資本主義はより極端な形で同じことをしています。

 

■市場経済なのかそれとも「脱」市場経済なのか?

 

脱成長運動は、実質的な政治的変革を実現するための現実的な理論を欠いていると批判されています。批評家たちは、グリーン・ニューディールのような持続可能な成長を目指すアプローチが、広範な公的投資を通じて、より実現可能であると提案しています。ダニエル・ドリスコルは「脱炭素化のツケを払うためには、世界的な投資ブームが必要であり、多くの脱成長支持者が主張するような投資の減少ではない」「地球を脱炭素化するためには、グリーン成長プログラムが必要です。」(「脱成長運動の4つの問題」Jacobin)。などと主張しています。

 「市場」も「資本」も「成長」も彼らの改良プランには不可欠です。しかし、投資は拡大しても脱炭素もカーボンニュートラルも現実は何一つ改善されていません。「炭素税」をテコとしたカーボンプライシングによる「緑の成長」や富の再分配(トリクルダウン)こそ最もばかげた市場経済への幻想です。「緑の投資戦略」により見事に資本は活性化し新分野への資本の投資で経済「成長」が実現し、雇用は増大し所得も上がり、温暖化ガスは大幅に削減できる…泡沫の夢のプランです。これは先進国がすでに採用してきましたが実際には気候危機回避も所得の増大も実現できていません!

だから斎藤幸平らの「脱成長」は、脱資本主義であり脱市場経済であり、同時に太古的協同体の一定の(しかし、本質的な)復活として考えるべきだ(脱成長コミュニズム)という提起がなされたのです。資本主義を含む階級社会の止揚として提起されなければならないということです。最後にも述べますが、階級社会を打破した地平において、私たち社会の目的は富の拡大ではないでしょう。

すでにお分かりの様に、脱成長は環境課題に対処するために提起されましたが、それだけではありません。むしろ、大衆の搾取や格差や貧困の問題と表裏一体に結びついているのです。大衆への収奪と自然への収奪は不可分のものなのです。それにもかかわらず、各左翼誌の批評家たちは、総じて市場経済はそのままにして「悪い成長」をやめさせ持続可能で「良い」成長に焦点を当てた代替戦略の方が、解決策を提供する可能性が高いとの視点から、マルクス的なあるいは斎藤幸平の提起した「脱成長コミュニズム」を相対化し、矮小化し、改良主義を対置しているにすぎません。

 

 

■太古の共同体における「ある種の物質的潤沢さ」の仕組みを復活させる!

 

ブライアン・M・ナポレターノは「カール・マルクスは脱成長共産主義者でしたか?」 (monthlyreview.org)において、マルクスが1868年以降、ヨーロッパ中心主義歴史観と生産力主義を乗り越え「脱成長コミュニズム」を目指すようになったという斎藤幸平の主張に対して長い文献批判をおこないました。批判が「マルクスはこう言った」あるいは「言っていない」といった引用になっていることは、それこそ「生産性」が悪いものです。私はそれをスルーし原始的共同体の経済ついて短く述べ反論に当てようと思います。

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著名な文化人類学者M・サーリンズ著1972年の『石器時代の経済学』をみてみましょう。

《生存のみの経済》《激しい労働にもかかわらず飢餓に追い立てられる生活》《そもそも<生活>などとも言えない》《文化も歴史もない》・・と植民にやってきた西欧人に酷評された狩猟採集民ですが、そうではなくその偏見は転倒されなければならない、とサーリンズは言います。

 

「市場=産業システムは、全く類を見ない仕方で、また、どこにも比べるもののないほどに、希少性を制度化している。一切の生計が金銭の収入と支出に依存しているところでは物質的手段の不足が、あらゆる経済活動の、明白な、出発点となっている」と。すなわち希少性と欠乏が現代資本主義を特徴づけていると。

それに対して「原始豊かな世界」では「ある種の物質的潤沢さがある」と言います。「彼らはある種の物質的潤沢さの中で生活していた。なぜなら、日常生活に必要な道具を、周りに豊富に見出せる材料、誰でも自由に取ることのできる材料(木材、アシ、武器や器具を作るための骨、網を編むための繊維、屋根をふくための草)から巧みに作っていたし、こうした材料は少なくとも(共同体)全人口の必要を満たすのに十分であった。」

「自然資源への立ち入りは典型的にざっくばらんだし(誰でも取るのは自由)必要な道具はみんなが占有できるし、必須の技能は誰でも知っている」。ところが「狩猟採集民は、我々ほど労働していない、というのが証拠歴然なのだ」(一日平均2~4時間程度)。倍働けば倍の物質的豊かさがあったとしても働くことはない。「もし私に収穫が無くとも誰かが獲物を仕留め《宴》を開いてくれる」のでそうは困らない。留意すべきは「(オーストラリア)アーネム・ランドの狩猟民の栄養摂取量は適切であり、アメリカ・ナショナル・カウンシルの基準を満たしている」ことです。

 

このような生活スタイルの根底にあるのが、自然と共同体に対する信頼――つまり「自然と社会はいつでも私に与えてくれる」――であることは容易に推測されます。だから個々人の欲望は制御される(暴走しない)のです。お気づきの様にサーリンズの考察は斎藤幸平の「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」(「人新生の<資本論>」等)の議論に通底しています。いや、サーリンズの『石器時代の経済学』全体が、斎藤への実証的な援護射撃となっています(ここで言う「石器時代」とは狩猟採集社会および農業社会のことです)。

 

 話を戻します。では経済活動にさほど熱意がなく労働時間が少ない、この原始的な狩猟採集民たちは、有り余る余暇をどのように過ごすのかに感心が集まるでしょう。それが、訪問、談笑、昼寝、祭礼、ダンス、唱和等々。つまり彼らにとって「生産力の増大」どころかそもそも経済活動それ自体が、共同体的生活に従属しているか、あるいはその一部にすぎません。目いっぱいあくせく働き続け「家に帰れば寝るだけ」とか「過労死」に脅かされる現代とは生活原理が異なるのです。前にも指摘しましたが、その違いは支配階級による剰余生産物・価値の収奪があるからです。

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 端的に言って、人類史を約600万年とすれば、人類はそのうち599.5万年はこのような「脱成長」的な生活の中にあり、共同体としての原理の上で生活し自らを進化させてきたのです。このような共同体的原理の高次の復活としての現代コミュニズムこそが、求められているのです。その社会は事も無げに「脱成長」に回帰するでしょう。地縁や血縁といった狭さを超えて、自然と社会の相互の調整あるいは労働手段との本源的統一を広く復活させるには、計画性や科学性が必要ですし、そのためにアソシエートした個々人の、より意識的な統治や管理を打ち立てる必要があります。これが現代のマルクス主義的指針だと考えます。

(阿部文明)