阿部 治正

 

今日は、1923年9月の関東大震災下で起きた朝鮮人虐殺についての現地フィールドワークを、松戸市内で起きた事件に絞って、実施しました。主催は、昨年の松戸市議会での一般質問をきっかけにして、市内での集会を二度にわたって開催するなどしてきた「福田村事件実行委員会」。参加者は松戸と流山市の市議会議員、元学校教師など11名。案内と説明は松戸市在住の元教員の白鳥晃司さん。回った現地は、旧水戸街道沿いの旧八坂神社の周辺、馬橋駅近くの万満寺周辺、旧葛飾橋跡地の三カ所でした。

 

旧八坂神社の周辺は、1923年9月4日に、流山市にあった陸軍経理部派出所勤務の日本人4名が小金町駐在巡査に朝鮮人と誤認されて取り押さえられ、日本人であることが明らかになったが、自警団100名余りがそのことに納得せずに、松戸警察署に同行しなければ巡査を殺害すると威嚇して、騒ゆうに及んだ事件。

 

馬橋駅近くの万満寺は、朝鮮人が列車に乗せられてくると聞いて馬橋駅で待ち構えていたおよそ100名の自警団に6名の朝鮮人が捉えられ、そのうち3名が連行されて、鳶口、刀剣、槍、杉丸太、銃、仕込杖、鉄棒等によって惨殺された場所。他にも馬橋駅近くの鞍屋と言われた場所にも3名が連行されて、うち2名が惨殺されている。

旧葛飾橋跡地は、橋の近くにあった陸軍工兵学校所属の中尉が、部下の上等兵に命じて朝鮮人を射殺した場所。

 

とにかく大変な猛暑の中で、汗がだくだく、体もふらふらのフィールドワークとなりましたが、やはり現地を歩くということは、事件から101年を隔てているとはいえ、当時の街の成り立ちや雰囲気をある程度は感じられるものです。文字や数字として残っている歴史資料と合わせて、朝鮮人虐殺事件が有する今に至る深刻な意味を、これからも明らかにし続けなければならないと痛感させられました。

私は次のようによく言います。イスラエル国家が最新のハイテク兵器を使って6,000人のガザ市民を虐殺するのに約半月を費やした。しかし当時の日本人は、竹やりや鳶口や木の棒などを使って、わずか3~4日間で6,000人の朝鮮人を殺してしまった。いかにとんでもないことを行ってしまったのかが、この無残な比較からわかるだろうという事です。

 

事件から101年目の今年の9月には、何としても松戸市でも虐殺犠牲者の追悼の催しを開きたいと思います。それが、何の罪もなく、いわれもなく、無残に殺されていった人々に対する私たちの最低限の謝罪の始まりになるのではないでしょうか。