日曜日記308・沖縄・糸数壕に通う元日本兵の娘たち

 - アリの一言  (goo.ne.jp)

 

 

 

 5月に沖縄の糸数壕(アブチラガマ)(南城市)を訪れたとき、案内センターの展示品で目を引くものがあった。

 

 大けがでガマに運び込まれ、文字通り九死に一生を得た元日本兵(人形師)が、愛知県に戻った後も100回以上沖縄を訪れ、製作した雛人形を贈るなど、命を救ってくれた地元の人々との交流を続けきた。その人は日比野勝廣さん(享年85)。

 

 日比野さんが亡くなられた(2009年)あとは、娘さんたちが糸数との交流を続け、平和の尊さを訴え続けている。

 

 娘さんたちは今年も「6・23」に糸数壕を訪れた、という記事が29日付の琉球新報に載った(写真)。

 

 訪れたのは長女の日比野裕子さん(75)ら4姉妹。四女の中村桂子さん(71)は平和講話で父から聴いた戦争体験を語った。五女の柳川たづ江さん(69)は腹話術で、友人が相次いで亡くなる中で生き残ったことへの罪悪感で苦しんでいた父の胸の内を伝えた。次女の清水糸子さん(74)の名前は糸数からつけられた。双子の三女・数子さんは生後1週間で亡くなった。

 

 桂子さんは「戦争の記憶を語り継いでほしいという父の遺言を胸に、今後も姉妹で力を合わせて活動を続けていきたい」と話している(以上、29日付琉球新報より)。

 

 勝廣さんは生前、南城市が発行した『糸数アブチラガマ』(1995年)に体験記を寄稿している。破傷風が悪化し傷口に大量の「うじ」がわき、死の入口が見えたとき、救ってくれた「1人の看護婦さん」のことを書いている。

 

「まっ黒になった右手の包帯をていねいにはがし、ピンセットで「うじ」を一つ一つとってくれた。ざくろの割れ目に似た傷口深く喰いいっている「うじ」は汚く、若い女性でできる仕事ではないはずだが、黙々として彼女は手を動かした。その横顔の神々しさ「地獄で仏」とはこのことを言うのであろう。学徒動員で働いている現地女学生のこの人は、解散を告げられて最後の仕事に私を選んでくれたのであろう。明け方近く一言の言葉もなく静かに立って行った。私に深い慰めのまなざしを残して」

 

 そして、手記をこう結んでいる。

 

「今もって、沖縄の鍾乳洞の奥深く、永久に発見されるすべもなく眠っている「みたま」の幾多あることを思うと、「日本国民すべての人が、もう一度悲惨な戦争を想起してほしい」―英霊に代わって、私はそう叫ばずにはおられない」

 

 沖縄の人びとは、帝国日本の「国体(天皇制)護持」の「捨て石」にされ、日本軍に直接間接に虐殺されながら、一方で自分をかえりみず日本兵を救ったのだ。それはこの「看護婦さん」だけではない。この歴史の事実を、「本土」の日本人は知らなければならない。そして忘れてはならない。

 

 勝廣さんの偉大さは、沖縄の人びとに受けた恩を一生忘れず、100回以上沖縄を訪れたことだけではない。口にするのもためらわれたであろうことも含め、子どもたちに自らの体験と反戦の思いを語り継いだことだ。

 

 それを4人姉妹はしっかり受け止めた。そして手を取りながら、父の遺志を継いでいる。

 

 私は娘さんたちと同じ世代だ。14年前に他界した父が19歳で広島・大久野島の陸軍毒ガス工場で働かなければならなかった経過と、その思いを、しっかり聴いておくべきだったと、今さらながら悔やまれる。