【Bunnmei blog】

 

斎藤幸平氏が「「コモン」とは何か」(NHK)で次のように具体的に述べています。

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例えば、神宮外苑の再開発を例に取りましょう。今、神宮外苑には樹木を伐採し、銀杏並木に悪影響がでることが懸念されているスタジアムや高層ビルを建設する、再開発の計画があります。東京都は事業者に対し、樹木の保全については具体的な見直し案を提出するよう要請していますが、保全がどこまでされるのかは現段階では不明です。再開発に伴い、市民が手軽に体を動かせるスポーツ施設のほとんども廃止される予定です。 これに市民や著名人が反対の声をあげているのは、神宮外苑という場所がもつ公共性があるからです。そもそも戦前の外苑は国有地でしたが、終戦後に国から明治神宮に格安で払い下げられました。ただし、その際、「民主的に運営すること」「国民が公平に利用できること」などの条件がついていて、ここにも公共性の高さがうかがえます。 ですから、景観や広場、スタジアム、樹木の保存は、企業が勝手に決めていいものではなく、本来、地域住民やスポーツ関係者などが一緒になって考えるべき問題なのです。だから、反対の声が上がっている。そして、ここに育てていくべき自治の萌芽があります。(引用終わり)

 

現代においても、地方の田舎に行けば「入会地」などがあり、地元の人なら当たり前に自由に土地の恵みを受けることができます。そして、そもそも大地とは、それを耕す人、利用する人の占有や所有であるのが自然だと思われているようですが、そうではありません。耕地や道路や公園や森林は、人類の営為として歴史的に存在するものなのです。それらは共有財産でしかないのです。それらを活用するにはアソシエートした人々の共同管理だけが運用することができるはずです。

 

マルクスは資本論第三巻で以下のように語ります。From the standpoint of a higher socioeconomic formation, the private property of particular individuals in the earth will appear just as absurd as the private property of one man over other men. Even an entire society, a nation, or all simultaneously existing societies taken together, are not the owners of the earth. They are simply its possessors, its beneficiaries, and have to bequeath it in an improved state to succeeding generations, as [good heads of household]【日本語直訳】より高い社会経済的形成の観点から見ると、特定の個人による土地の私的所有は、他の人間を所有することと同様に不条理に見えるだろう。たとえ一つの社会、国家、または同時に存在する全ての社会が集まっても、彼らは地球の所有者ではない。彼らは単にその所有者、受益者に過ぎず、次の世代に対して良好な状態でそれを引き継がなければならない。これは、良い家庭の主としての役割を果たすものである。

 

「possessors, its beneficiaries」と言う言葉は、要は土地の私的所有の否定ですね。

 

つまり「possessors, its beneficiaries」という言葉は、土地の私的所有を否定していることを意味します。この文脈では、地球は特定の個人や社会、国家によって所有されるものではなく、全ての存在する社会が共有するものであり、次世代に対してより良い状態で引き継がれるべきものであると述べています。つまり、土地は私的所有の対象ではなく、全体の利益のために管理されるべきだという考え方が表現されています。これは「そうあるべきだ」と言うのではなく物象的世界を取り払えば出てくる、現実の姿である、と言うことが大切です。

 

現代の「公有地」は地方自治体や国家の所有であり、決してコモンではありません。「公有地」という擬制のもとで実体としての私有化に浸食されています。だから次々と不動産資本による再開発などのために「囲い込まれ」私有地に転化してしまうのです。それは、国家の性格や本質が避けられないものなのです。「公有地だから安心だ、みんなのものだ」というのは現実ではないのです。これらもまた運動により闘いとるほかありません。(了)

 

 

[寄稿]東アジア、脱資本主義の代案はどこに? 

: 社説・コラム : hankyoreh japan (hani.co.kr)

 

 

現在の世界経済は、人為的な景気浮揚策や負債経済の促進によって延命している。この状況では、いかなる政権が発足しようとも妙手はない。自然は枯渇し、人口は少子高齢化へと突き進む。今や「発想の転換」が答えだ。「たくさん食べてたくさん出す」これまでの成長主義を捨てよ。「少し食べて少し出す」代案構造が突破口だ。 
 
カン・スドル|高麗大学融合経営学部名誉教授

//ハンギョレ新聞社

 

 5月16日と17日、晋州(チンジュ)の慶尚国立大学で国際学術行事が開催された。正確なタイトルは「東アジアにおけるポスト資本主義的諸代案:マルクス主義的視点」。2001年から20回の国際会議と研究チームを率いてきたチョン・ソンジン教授はあいさつで「日本、韓国、中国などのアジア諸国は20世紀の経済開発の『先導モデル』でもあったが、21世紀のグローバル資本主義の複合危機においてはむしろ『弱点』ないしは『震源地』となっているため、今後はマルクス主義の視点や学際的な方法論を通して21世紀の東アジアのためのポスト資本主義的代案を模索する必要がある」と語った。この行事では、韓中日はもちろんインド、ドイツ、ノルウェーの6カ国の35人の学者が発表と討論に積極的に参加した。すべての内容を紹介することはできないため、ここでは社会的討論が是非とも必要ないくつかの事項のみを見ていく。

 

 第1に、行事のタイトルでもある「ポスト資本主義的代案」についてだ。学術用語における「ポスト」は、しばしば「後期」という意味で用いられている。例えば、大量生産と大量消費を結びつけて資本を蓄積してきた「フォーディズム」に対して、多品種少量生産と消費の多様化を柔軟に結びつけた蓄積様式を「ポストフォーディズム」という。だが、「ポスト資本主義的代案」におけるポストとは「後期」ではなく、「脱皮」ないし「止揚」という意味を帯びる。むしろ「脱資本主義代案」の方が良かったかもしれない。なぜなら、現在私たちが直面している複合危機(経済、政治、金融、社会、心理、教育、文化、気候、生態、平和など)の底では、資本主義がとぐろを巻いているのだから!

 

 資本主義とは何か? それは「金(資本)によって金(利潤)を得る」システムだ。より大きな価値を得ようとして競争する。だから自然を資源化、人間(労働力)を商品化する。人間の労働は、一方では原料や機械の中の価値を商品へと移転し、他方では自分の労働力以上の価値を商品に具現する。価値と非価値は「共に」資本主義を構成する。ここで重要なのは剰余価値を作る労働だが、最近韓国政府が週当たり労働時間を40時間から52時間、最大で68時間に増やそうとしたのは、「絶対的剰余価値」のためだ。 同じ時間であっても、ケア労働に移住女性を投入したり、社会全般の生産性向上によって労働力の価値が下がったりすれば、「相対的剰余価値」は大きくなる。そのうえ特定企業が技術や組織の革新で優れた生産性を示せば「特別剰余価値」まで手にする。ここで敗れる企業は滅び、労働者も失業する。殺伐とした生存競争だ。最近のコロナ禍やロシアとウクライナの戦争は物価の暴騰まで招いた。このようにすべての企業が利潤競争をする中、大儲けするのは一部の資本家や投資家のみだ。大多数の労働者は労働と消費、負債のわなに閉じ込められて病み、疲れ果て、その間に地球の汚染、温室効果ガス、気候危機は深刻化し、人類を崖っぷちに追いやる。韓国はもちろんのこと、全世界の現実だ。今や「脱資本」こそが時代の精神(Zeitgeist)だ。

 

 第2に、日本の資本主義について。2012年以降のアベノミクス(金融緩和、財政支出、成長促進)や2021年以降の岸田文雄首相の「新しい資本主義」政策(成長と分配の好循環の強調)は、果たして1990年代以降の「失われた30年」の回復にとどまらず、「脱資本」の可能性を持つのか、という疑問がある。率直に言って、2008年の米国発の世界金融危機は、1980年代以来の新自由主義の終えんであるだけでなく、事実上、世界資本主義の破産宣告だった。もし米国政府が1兆ドル以上、欧州連合(EU)が2千億ユーロ以上の救済金融を緊急投入していなかったら、世界経済はドミノのように崩壊していたはずだ。

 

 現在の世界経済は、まるで病院で重症患者が酸素呼吸器をつけられて無理に寿命を引き延ばされているように、人為的な景気浮揚策や負債経済の促進(「借金して家を買え」)によって延命している。この状況では、いかなる政権が発足しようとも妙手はない。自然は枯渇し、人口は少子高齢化へと突き進む。今や「発想の転換」が答えだ。「たくさん摂取し、たくさん排泄する」これまでの成長主義を捨てよ。「少し摂取し、少し排泄する」代案構造が突破口だ。このような脈絡から眺めると、立教大学の佐々木隆治教授が強調した「公有地の奪還」や、大阪経済大学の隅田聡一郎教授が提唱した「人種差別を乗り越えた超国家的アジア連帯」が目を引く。このように共有と連帯は脱資本にとって重要だが、実際のところその諸主体の意志が問題だ。

 

 第3に、東アジアで最多の人口を誇る中国はどうか。まず、中国の経済システムについての「社会主義市場経済」vs「国家資本主義」という問いは有効だ。南京大学元総長の張異賓教授は、「国家資本主義」だという一部の学者の批判的規定に難色を示しつつ、「中国式社会主義」であるとの立場を堅持した。彼は「新MEGA」研究はもちろん、青年期と後期のマルクス比較、最新のマルクス主義哲学の探求を続けている。また『マルクスに帰ろう』という本では、中国式社会主義の革新を促している。習近平主席も2017年の第19回党大会で、「生態文明体制」による「美しい中国」の建設を強調した。これこそ、中国がアンリ・ルフェーヴルの空間理論や日常生活批判、さらには非物質労働やプラットフォーム労働にも関心を示す背景だ。一方、「中国式プラットフォーム社会主義」、「プラットフォーム協同組合」の可能性や「道家主義エコフェミニズム」も、一部限界があるにもかかわらず、新たな代案の模索に重要な糸口を与えてくれる。

 

 しかし、中国がいかに「社会主義」や「生態文明」を強調しようとも、「フォックスコン」ないし「アリ・テム資本主義」に象徴される構造的矛盾は相変わらずだ。国家的統制による自律的で民主的な労組の不在、労働過程の低賃金、長時間、無権利などが特徴だ。農村から押し寄せた農民工の生活環境は劣悪で、貧富の差は韓国や米国に勝るとも劣らない。いかに米国覇権主義の圧力と脅威が巨大であろうと、このような問題を正当化するのは難しい。

 

 一日を凌ぐのも大変な現実社会において、「脱資本」の代案など時代錯誤的な机上の空論だろうか。しかし、こんにちの複合危機を招いた根が資本主義だとしたら? 資本とは結局のところ、歪曲された社会関係だ。したがって「資本主義」をきちんと洞察するという、主体の変化が必要不可欠だ。19世紀を激しく生きたマルクスを21世紀になっても読む理由はここにある。「つややかな額は感受性欠乏のしるし」、「笑っている者は恐ろしい知らせをまだ受け取っていない者だけ」というベルトルト・ブレヒトの詩が胸をえぐる。