松本誠也氏をしのんで

【ワーカーズ一月一日号より転載】

 



 松本誠也(ペンネーム冬彦・夏彦)さんが、ご逝去されました

 自治労などでご活躍された松本誠也さんは、残念ながら十二月十五日に69歳でお亡くなりになりました。

 ガンで闘病中でした。ワーカーズの紙面にも多くの投稿をいただきました。また私自身大変お世話になりました。ラインで近況を知らせあっていたのですが、十二月二十日反応がなく大変心配していたところ、松本さんの友人からご連絡をいただき、びっくりし、大きな悲しみに襲われました。ご冥福をお祈りするとともに、松本さんとの思い出を振り返りながら追悼させて頂きます。

また、ワーカーズ紙面では、本名を出さず「冬彦」「夏彦」さんというペンネームでした。

 松本さんとは、七年ほど前に、自治労の集まりが宮城県であり、私達の自宅に来られました。その時にアイヌ関係の勉強会をしました。また縄文土器についても、素晴らしいレポートを書かれており頂きました。青葉城に一緒に観光しました。

 さらにアイヌ関係のことを学んでいきたいと思った私達に、実際に活動されている方に合わせて頂きました。また、私が北海道に出張の時に、パートナーが松本さんと一緒にアイヌのことを研究されている方々と交流しました。アイヌ関係の慰霊祭にも誘って頂き、昨年行く準備をしていました。しかしパートナーが体調を悪くして、残念ながら参加できませんでした。今年はパートナーと一緒にアイヌ関係の慰霊祭に参加し、松本さんに色々な案内をしてもらいました。来年もご一緒しましょうと約束していました。

 松本さんに出逢い、私自身視野が広がりました。これからも、松本さんから多くのことを学びたかったのですが、とても残念です。私自身も一度寛解したガンが再発しました。人間はいつか亡くなります。どんなふうに生きていくかが、毎日を過ごしていく上で大切なことだと感じます。私も松本さんのように、精一杯人生を駆け抜けたい。松本さんとの出会いは宝物です。これからも大切にしながら松本さんの意思を引き継いでいきたいと想います。(宮城 弥生)



 松本誠也さんへの追悼文

 ワーカーズの仲間から松本さんが12月15日に亡くなられたと聞いて大変驚きました。

 私の記憶では私より若いはずだと思っていました。聞けばまだ69歳との事。まだまだ活動出来る年齢だと思い残念でなりません。

 私が松本さんを知ったのは、彼が九州の医療関係職場で働いていた時でした。当時の彼がワーカーズに投稿した原稿を振り返ると、「『働き改革』の背景は何か?」「安倍政権の政治的おもわくは?」「日本型企業主義的労使関係の限界」等、労働者の立場に立った諸問題を取り上げています。

 選挙闘争についても「次の反撃は地方自治体選挙で」のタイトルで「労働者派・市民派・平和派は次の反撃にそなえなければなりません。その舞台は地方自治体選挙です。広い意味で労働者的な候補を地元で応援しましょう。政治的方針の違いについては、一緒に闘いながら、率直に議論していけば良いと思います」と述べています。今読んでも大変参考になる文章だと思います。

 私が松本さんを尊敬していたのは労働運動だけでなく、彼が「アイヌ問題」に強い関心を持ちいくつかの論文をワーカーズに投稿していたことです。

 一例を上げると、「北方領土の共同統治案について~アイヌの視点もふまえて」という論文があります。

 彼は「幕末から近代にかけて、樺太も千島もロシアと日本との間で、双方の帝国主義的な覇権争いの対象として、ある時は『ロシアの領土』にある時は『日本の領土』にされ、そのたびにアイヌは幾度も強制移住をさせられてきたのです。」と述べています。さらに「このような『北方四島』に限らず千島列島も樺太も、帝国主義的な覇権争いにより、ある時は『ロシア領』、ある時は『日本領』とされた歴史、もともとこの地域は交易民として樺太アイヌや千島アイヌ、そしてロシアや和人の商人が自由に往来していた歴史を顧みるなら、この地域の『共同統治』と『自由な往来』こそが、あるべき姿ではないでしょうか?「固有の領土」という観念に固執するのではなく、『国境』の概念を相対化し、EUをお手本として、『自由な往来のしくみ』をつくることが、平和をめざす私たちの目標ではないでしょうか。」と訴えています。

 今の世界は領土をめぐりきな臭い戦争が世界各地で続いています。この点で、松本さんの「地域の『共同統治』と『自由な往来』」はまさに今の世界の課題であり、私たちにバトンタッチされた課題だと考えます。(富田英司)



  労働運動・市民運動を積極的に実践した人だった

 松本誠也(ペンネームで冬期は冬彦・夏季は夏彦)さんは主に北九州福岡で医療関係の職場で働きながら自治労の運動を積極的に担っていましたが、定年後嘱託職員を経て東京に戻り、地域で環境問題や・医療問題に積極的に活動を続けていた。

 一昨年病に冒され闘病生活をしながらも活動をしてきた同志でした。

 「ワーカーズ」への投稿は自治労時代から多くの投稿をいただきましたが、「色々出来事があってもすぐには書けない」と言ながらも、時節を先読み色々書き留めていたようで、毎号一つ以上の原稿を編集締め切り前には送ってくれ、最近では書評を中心に投稿してくれていました、その準備の良さや、その誠実さには感心するばかりでした。

 労働組合活動や市民運動にも積極的に参加し、大衆的で活動的な人だと思います。

 大衆的な活動家として惜しい人を亡くしたと残念でなりません。

 彼はワーカーズ640号の一面記事『エネルギー・食糧危機に抗して「命を守る春闘」を!の●世界的連帯を視座に正規労働者と非正規労働者の分断を越えて、グローバルサウス、ウクライナ民衆、ミャンマー市民、トルコ・シリアの被災者との連帯を深め「命を守る闘い」を貫こう!』と呼びかけましたが、分断化し戦争が多発する現代社会で彼の呼びかけは的を得ており、労働者大衆と積極的に交流を図り大きなうねりを作り出せる可能性のある優れた活動家を失ったことは返す返す残念でなりません。

 彼の意思を受け継いで社会の不条理を正すため「団結と連帯を求め」てアソシエーション社会を目指します!。 (池田)

 

 

追悼-いつも笑顔の松本さん

 

ワーカーズでは、年3回は総会を含め会議を行っています。会場は会員の居住する県を選び、午後からの会議になります。私たちもそうですが、松本さんは早く来て駅前の地図案内の前に立ち、散策の準備をされていました。いつもリュックを背負い身軽な恰好で、街並みの自然に触れ歩くが恒例のようでした。また、尼崎市のクボタが原因となったアスベスト問題にも取り組まれ、会場で顔を会わせたこともありました。

 

 コロナ前の2019年秋は、松本さん居住の福岡が会議の場所となり、会議後は、松本さんの企画した観光案内で楽しませてもらいました。記憶に残っているのは、八幡製鉄所の工場見学で赤く焼けた鉄板を見たこと、佐賀の民族博物館では豊臣秀吉が朝鮮出兵を視野にお城(名護屋城)を構えていたことなど、私には初めて知ることでした。

 

 昨年の11月に再度九州へ。孫娘が佐賀大学に通っているので宿泊させてもらい、吉野ケ里遺跡に行ってきました。その時、ふと松本さんと一緒なら、古墳に詳しい

ので説明してもらえるのにと思ったりしました。でもその頃は、松本さんは闘病中で大変な時期だったのですね。

 

 一つの考えに固執せず、柔軟な思考で問題を解決しようとされる姿勢に、学ぶことが多くありました。今も松本さんのレジメを読み返せば、懐かしい穏やかな声が聴こえてきそうです。どうぞ、安らかに、そして笑顔で私たちを見守っていてください。(折口恵子)

 

学び、議論し、行動する人

 

一見控えめな印象のある松本さんですが、その実は意欲的な活動家でした。彼の眼線は絶えず、底辺の人々、被抑圧者、被差別者に注がれてきました。

 

私が松本さんと「ワーカーズ」の枠を超えて付き合うきっかけとなったのは「アイヌ」問題でした。私も未開社会や部族社会の独特の文化に関心をもつひとりでした。あるとき札幌で、松本さんから誘われて彼の仲間や大学の先生たちとアイヌ関連古文書の「翻訳作業」の現場に立ち会うことになりました。それはとても地道な作業でしたが、あらためて彼の幅広い活動に驚きました。

 

 松本さんは、自治労の活動家でありまたいくつかの市民政党とも関係して来たことは聞いていましたし「日本ケルト協会」の会員として民衆文化の研究論文や歴史理論を展開していました。

 

このような多面的な関心と熱意を持っておられた松本さんの死を改めて悼むものです。彼の書き残した論文や記事は実に膨大で多様です。多くの方に読んでいただけたらと願っています。阿部文明