独立ウクライナの階級闘争(上)
【ワーカーズ五月一日号より転載】

 

 

 ロシアの侵略という未曾有の危機に見舞われているウクライナ民衆。ロシアの野蛮な軍事侵略を断固として糾弾し、戦うウクライナ民衆に連帯するものです。とはいえ、ウクライナ国民の塗炭の苦しみがそこから始まったというものではない。独立後三十年。国民は搾取を強化され怒りと闘いの歴史を刻んできた。その渦中でのロシア軍の侵攻。どう戦うべきか?

■ウクライナにおける「自由な資本」の生成小史―あるいはウクライナ民族主義の秘め事

 この項は「ウクライナの国民ブルジョアジーの詳細について」(イリア・イリン2020年5月6日共同・社会批評ジャーナル)を要約し若干のコメントを追加したものです。

 ウクライナの「民族(国民)」ブルジョアジーは、ロシアと同じようにノーメンクラツーラ(ソ連時代の赤い貴族)による国営財産の分割(私的簒奪)と、さらには国家官僚とつるみながらの新興財閥=オルガルヒの形成を特徴とする。

 1990年代初頭、ノーメンクラツーラが新資本家や「赤い取締役」の利益を代表し得たことは、1987年に施行された協同組合法の運用によって裏打ちされた。その結果、これまでの経済犯罪の代表である多くが正式な所有者となり事業を立ち上げ、対外貿易活動を行うことができた(Havrylyshyn 2017: 63)。例えば、ユリア・ティモシェンコ(のち首相)は1988年に外国映画のレンタルビデオ店を組織し(Havrylyshyn 2017: 207)、セルゲイ・ティギプコはドニエプロペトロフスクのコムソモールの第一書記として最初の小企業を組織するのに協力し、1991年までに百件となった(Kuzio 2015: 388 )。

 しかし、ウクライナにおいてはノーメンクラツーらからの収奪(ラトビア)や欧米の多国籍企業による国家資本の支配が横行(ポーランド、ラトビア、チェコ)したとは言えない。  

 ウクライナの「自由な資本」形成は、東欧諸国やロシアに比較して遅れて緩やかに開始された。左右に揺れたり(国営と民営化の反復)東西に揺れたり(ロシア寄りになったりEU寄りになったり)しながら、独自の蓄積手段と内部的暗闘を経て現在に至る。

 とにもかくにもソ連邦の崩壊という過程で、「ノーメンクラツーラは完全な経済的自治を得るためにウクライナ国家の独立を必要とし(独立前、ウクライナはソ連のGDPの5%しか受け取っていなかった(Van Zon 2000: 18))、民族主義者はついに彼らの秘密のアイデアである独立ウクライナを体現できるようになった。 現実のものとなった」(Aslund 2009: 40; Kravchuk 2002: 47)。

【オルガルヒたちによる政府の組織】

 レオニード・クチマ(のち二代目大統領)は、1994年に大統領に立候補した理由を自伝で思い起こしながら、「赤い取締役」と、ウクライナの新しい資本家と政府との関係の図式を示している。ドニエプロペトロウシク、この都市の大企業の役員たちと、ハリコフ、ドネツク、ユジマシュの友人(以前は「赤い取締役」だった)からなる代表団が全員彼のところに来た。この代表団のリーダーであるザポロージエの工場「モーターシッヒ」の総責任者はこう言った。「産業を救える大統領が必要だ。産業を救えば、国を救うことになる」(Yurchenko 2017)。オルガルヒ政権のスタートである。オルガルヒから選ばれる政府すなわち大統領や首相や閣僚(クチマ、ヤヌーコビッチ、ユシチェンコ、ポロシェンコなどすべの大統領はオルガルヒに直結する)を形成した。

 ウクライナのブルジョアジーがノーメンクラツーラの一派から生まれたことで、資本主義的な財産が現実化され、ソ連時代からの根強い高級官僚がブルジョアジーの大義に奉仕することが保証されたのである。官僚とオルガルヒの連合が新しいウクライナ国家の骨格となった。

 国民の政治的悲願はしたがってオルガルヒとソ連時代からの特権官僚、そして両者の汚いつながりを断ち切り、政治を国民が奪還することであった。

【ウクライナ国家は公債でオルガルヒを育てた】

 イワン・ククルザ(2017)は、ウクライナ国家と資本の態度を要約している。

 「"その原点に立ったのは、彼女、ウクライナ国家であった。赤ん坊の母親として、公共施設の民営化によって繰り返し彼を養い、他人の目や心から母性的に彼を守り、利益と富への貪欲さを持つ新生古典的資本主義ビジネスを認識することができたのは彼女だった」(コーン 2017: 18).

 こうして政府と国家は、ウクライナ・ブルジョワジーの生育と保護の主要な道具となり、そのメンバーは国家間の関係において、また国家権力の最高機関において彼らの利益を直接代表し、権力の独占を確実なものにしている。

 公的債務はウクライナ資本の初期蓄積の基礎となり、また、ウクライナ資本をロシア資本に依存させた(ロシアからの支援)。ウクライナの最初の大資本家の一人、イゴール・バカイが言ったように、すべての資本はもともとロシアのガスと石油のおかげで蓄積されたのである(Havrylyshyn 2017: 192)。国民的な資本形成が乏しい中で、ウクライナ政府の選択肢はロシアの資源やIMFらの国際金融機関を頼ることであった。これは多くの開発国のジレンマでもあった。

 ウクライナの支配階級は一枚岩ではない。その非公式な結束は一時的な現象であり、諸派閥間の闘争は絶え間なく続いている。ウクライナは、ノーメンクラツーラ階級とブルジョアジーの継続性のおかげで、中東欧諸国のように衝撃的な新自由化の道を歩むことはなかった。そして、ロシアやカザフスタンで起こったような資本家の国有化への道も、大規模な自然独占と巨大な資源基盤がないために回避された(Van Zon 2000: 40)。

【オルガルヒの暗闘が大衆を巻き込み始める】

 「"脱オリガルヒ化 "という(スローガンが叫ばれた)からには、ある派閥と別の派閥の闘争と理解すべきだろう」。

 この闘争の結果、ウクライナではブルジョア民主主義の特殊な形態が出現する。学生や労働者は、1つまたは別の派閥を擁護するために動員される。ロシアとの緊密な協力かEUへの輸出増加か、ソビエトの過去の(社会制度の?)保護と国有化か、ロシア資本への従属の危険からそれに対する闘争か、言語に対する自由な態度かロシアの言語地政学と帝国主義に対する保護の方法としての言語ナショナリズムか、などである。

 このように、〈今や〉ウクライナ国家(の政治プロセス)は、ウクライナ資本家の異なる派閥の不倶戴天の不断の闘争の結果である。同時に、これらの派閥の存在そのものが、(ロシアのような)国家資本主義の回復を不可能にし、その結果、最終的にロシア資本との闘争を決定づけた。つまり、ウクライナ資本は、当初はロシア資本に近かったが、それが強くなり、選択的にトランスナショナル化(多国籍化)され始めると、ロシア資本を恐れるようになったのである。2008年のWTO加盟とEUとの貿易協定の締結は、ウクライナの大資本に一定の市場を開くとともに、財産権や有効な競争を保証し、ロシアの経済拡大に対して形式的に保護することになった。

 しかし、この拡大は、やはりクリミアの事実上の併合や、ルハンスク州やドネツク州の占領地区における分離主義勢力への支援という形で、ウクライナの大規模ブルジョワジーの生産手段の一部の横取りと共に行われた(Troost 2018: 17)。

【ウクライナブルジョアジーと労働者階級の "社会契約"】

 ウクライナは公的債務の増大によってソ連(時代)の社会保障を部分的に温存している。民営化が遅れ、経済の自由化が進まない理由の一つは、クラヴチュクとクチマによれば、これらの行為は社会のバランスを崩し、貧困化を招く恐れがあるので、「社会的志向の市場経済」を確立すべきだということだった(Havrylyshyn 2017: 73; Kravchuk 2002: 7)。つまり、資本の初期蓄積とともに、ウクライナ・ブルジョワジーは国民の社会保障を維持しようと考えたのである。これは同時に次のような方法で行われた。①公的債務を増やし、保健、教育などへの支出を減らすことを含め、資本と住民の両方にガス料金を補助する(2016年まで(Havrylyshyn 2017: 90))、②(高い税金ゆえの)影の経済の出現、それゆえ賃金の二重払いをする。

どちらの方法も短期的な結果を狙ったものであり、将来的に公的債務を返済し、最低年金を受け取るのは国民なのだ。しかし、2018年の正社員(法人で従業員10人以上)が760万人、非正規雇用が3、500万人であることを考えると、現在の労働者世代は最低年金すら期待していないのかもしれない。

 また、一部の資本主義企業では、社会インフラ、高賃金、治安が維持されている(Havrylyshyn 2017: 210)。一方で、独立のほぼ全歴史を通じて、国有企業の労働者への賃金滞納問題は解決されず、ストライキの原因として存在し続けている(Kravchuk 2002: 113, 123)。社会保障の問題は、ウクライナブルジョアジーの選挙プログラムの主要なポイントの一つであり、その派閥のポピュリズムの程度を決定し、国際資本の融資条件の拒否を正当化した(Havrylyshyn 2017: 148; Aslund 2009: 187, 207)。つまり、社会的志向とは、労働者階級を極貧に近い水準で支えることであった。2000万人がホームスティで生き延びていた(Van Zon 2000: 96)。驚くべきことに、ウクライナ国民ブルジョワジーは、「影の経済」を通じて、全人口をその活動の参加者にしているのである。ウクライナの低所得構造は「社会保障」と「闇経済」で成り立っているようだ。強搾取のメカニズムである「公的債務の罠」は国際金融資本が関与しているが、それはのちに触れる。

■二つの市民革命と資本勢力による簒奪

 オレンジ革命(04年)もユーロマイダン革命(14年)も、そのきっかけはすでに見てきたようにオルガルヒたちの内部闘争であった。

 04年大統領選挙。ロシア寄りオルガルヒ(ロシアの天然ガス利用などで利益を得る)と主に西部のEU寄りのオルガルヒの対立が非妥協的な闘いとなる中で「不正選挙」問題を経て民主主義を求める国民を巻き込む形で闘いが発展。大都市を中心にして市民達も決起した。ユシチェンコとヤヌーコビッチとの泥仕合は資本家たちの思惑を超えて先鋭化し、反オルガルヒ、反官僚、反汚職の闘いとなった。しかし、有力な独自の政治政党を構築できなかった市民、つまり労働者や農民たちは街頭での闘いを繰り返したものの議会選挙ではその意思を反映することができなかった。

 14年ユーロマイダン革命も、対立の構図はよく似ている。EU連携協定を直前で拒否し、ロシアとの150億ドルの借款に飛びついたヤヌーコビッチ大統領。これを契機とする支配階級を揺るがす内部対立は国際的にも注目され欧米やロシアも暗々裏に介入した。当然、学生や市民が積極的に参加し闘った。しかし、同時に市民間の分断(言語の対立やロシア人への偏見を利用)策などにより、運動の分裂が図られた。それぞれのオリガルヒはEUやロシアとの関係によって策動を強めた。彼らは、それぞれEUやロシアと関係を築くために、このような分裂を利用したのである。

 民衆革命はゆがめられ簒奪された。ヤヌーコビッチは追放されたが、民衆の戦いはその客観的目的を達するほどに成熟せず、支配階級のデマや分断のなかでオルガルヒと官僚制度の牙城を突き崩す成果を上げることは十分できなかった。革命的決起の終盤での極右の介入という事態は、民衆運動の真実を歪めるために各勢力に最大限利用された。その後もオルガルヒ達は国家と政府を支配し続け、他方、利用された極右は大衆的批判の中で議席を五分の一に激減させた(極右「スボボーダ」は12年に37議席あったが、14年に7議席、19年にはゼロとなり、政治的大敗を喫した)。

 民衆の度重なる政府・国家との闘争は彼らをして鍛え続けた。とはいえ、次にのべるようにIMF・世界銀行らによる債務と欧米諸国からの借入金は、ウクライナの「初期的資本蓄積」を通じて累積し、市場経済の一定の発展の中で21世紀にはさらにウクライナ国民に重くのしかかったのである。2015年3月、IMFは4年間で約175億ドルをウクライナ政府に供与することを盛り込んだ新経済プログラムを承認し、ウクライナ政府は4度の資金を受領して改革を進めた。西側の巨額の融資はその対価として「民営化推進」「社会保障削減・補助金削減と緊縮財政」に象徴される過酷なものであった。であるなら、EUに対する幻想を深い動機として戦われた二つの革命運動は、徹底した再建が求められる。(続く・阿部文明)