折口晴夫Facebook

Password with the friend
"Do not die, and do not leave it, and let's fight!"
These still live in my heart.

 

あしたあさってしあさって

 

2月15日、武器よりも愛を「新明和さん川重さん、死の商人にならないで!」

 


 昨年は三菱重工と川崎重工の潜水艦輸出に反対する行動がありました。さいわい、輸出実績がないなどの理由で、オーストラリアへの潜水艦輸出は頓挫しました。今回は、救難飛行艇や哨戒機などの輸出に反対する申し入れでした。


 新明和工業の航空事業部は阪神「青木」駅近くにあり、「インドへの軍用救難艇US‐2輸出事業への参加を中止し、・・・」との申し入れを行いました。JR「神戸」駅近くのクリスタルタワー内にある川崎重工本社へは、神戸が「ニュージーランドへのP‐1哨戒機、C‐2輸送機の輸出によって、死の商人の本拠地になってしまうことはどうしても耐えられません」と訴えました。...


 同日の神戸新聞には、川重がガスエンジンとガスタービンの設計・開発を神戸工場に集約するという記事がありました。それは、「電力需要が切迫している東南アジアでは自家発電設備の需要が拡大している」ので、利益が見込めるということです。そのために、明石工場から100人が神戸工場に移らなければならないという点が気がかりですが、武器製造に熱を上げるよりはまともな選択です。

 

 

2月16日午前、マイナンバー違憲 大阪訴訟


 個人番号利用差止請求事件の口頭弁論が大阪地裁大法廷でありました。被告国側の準備書面(求釈明に対する回答)が陳述され、これに対する更なる求釈明が原告代理人から行われました。争点は情報の「一元管理」です。


 これは、国家により個人のさまざまな個人情報が個人番号をキーに名寄せ・突合される、国家による個人情報の一元管理の危険性です。住基番号の裁判では、〝名寄せ〟されないからよしとされていたのに、マイナンバーは名寄せのために番号だということが最高裁の判例に反するという主張です。


 国側の主張は「各機関がそれぞれ個人情報を保有し、必要に応じて情報提供ネットワークシステムを使用して情報の紹介・提供を行う『分散管理』の方法をとっている」という釈明です。しかし、実態は地方自治体の個人情報はJ‐LIS(地方公共団体情報システム機構)の西と東のふたつのサーバに一元管理されています。


 また、個人情報はどのように保護されるのかという求釈明に対しては、「特定個人情報を提供する各事務に関する個別法が規定する安全性等を確保するための措置、・・・」が講じられ、適正な管理が行われいると回答しています。これに対しては、それぞれ具体的な〝措置〟を示すように求めました。


 10分弱の裁判終了後、弁護士会館で報告集会があり、色々なところで番号記載は義務とされ、書くことの強制が進んでいることへの対処が議論されました。これには、ひたすら記入の義務はないことを知らせることが重要だと確認されました。例えば、確定申告などでも書かなくても大丈夫、原告になっている税理士さんなども書かなくてもいいと説明されています。


 いま、大きな問題になっているのが自治体から事業者宛てに通知される「住民税額決定通知書」にマイナンバーが記載され普通郵便で送りつけられることです。中小の事業者では番号管理できない、書いたものを送りつけられたら困る、便利どころか困難だけが増します。


 自治体に対して、個人番号が漏洩したらどう責任を取るのか、必要のない番号記載は止めろ、との要求する取り組みが行われています。うずれにしても、番号は書かない、カードは持たないが合言葉です。なお、次回口頭弁論は5月16日(火)11時半、大阪地裁202大法廷です。傍聴席を満席にするために、ぜひ足を運んでください。

 

 

2月16日午後、リバティおおさか再訪!
 

新しい展示「紛争下のシリアを描いた巨大なトリックアート」を是非とも見ておかなければと出かけました。大阪人権博物館は橋下大阪維新の会によって潰されようとしており、時間をかけて他の展示も見てまわりました。多くの映像があり、それぞれ興味深いものです。

 

 


 きょう、ひどく打ちのめされたのはいじめ問題の展示で、何人もの子どもたち、13歳とか14歳とかの子どもたちが自死へと追いつめられたさまがこれでもかと集められているのです。展示は過去のことですが、現在へと止むことなく続いていることに、暗たんたる思いに駆られました。

 

 今日も明日も明後日も、その先も不条理な時は続きます。かつて、郵便配達をしていたころは、仲間たちと「死ぬな! 辞めるな! 闘おう!」を合言葉にしたものです。それも、いまは懐かしい思い出になりましたが、その言葉は今も私のなかで生きています。