よみがえれ毛魂 -4ページ目

よみがえれ毛魂

薄れゆく毛根とともに失っていった何かを探す日々。

ふむ。

 

 

「あんた健康やで」と言われればそれなりに口元が緩み、

「あんた実年齢より若いやで」と言われれば、

それなりに身だしなみも整えようと思い、

特段長生きをしたいとは思わないけども、

死ぬ瞬間までは元気でいたいと思う今日この頃、

皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

3年前は年齢よりも10歳老けていたという驚愕の事実を前に、

さてこの3年の間で自分にどんな変化があったのかしらと、

思いつくままつらつらと書き起こしてみると・・・

 

・生まれて初めての海外

・福島の原発仕事

・重めの社内プロジェクト

・昇格

・体幹トレーニング

・自炊メイン

・家でコメを食べない

・重篤な知人

・激しい断捨離

・25年ぶりに家にベッドを備える

 

何か意識の変化でもあったのかな。

変わるほどの価値観は持ち合わせていないけど、

いろんな出来事はあったようです。

 

と、ここまで書いてみて、

すでにたくさんのウソがあることに気がついた。

誰に見せるものでもあるまいし、

正直に書き連ねることに何の差しさわりがあるのやら。

とは言え、

誰かに見てほしいから、

こういう場でも自らを虚飾で塗り固めておかないと不安なのでしょう。

 

昨今話題の承認欲求という言葉。

SNSをすること自体が承認欲求の塊のような風潮もあるけれど。

やってる人とやってない人の差を考えると、

確かにそんな気もしないでもない。

 

承認欲求には自己承認と他者承認というのがあるそうで、

全く別物だけど、

他者承認だけがクローズアップされてる感がありますね。


自分は昔っからを他人から認めたがられる人だったように思います。

 

人とは深く繋がりたくないけども、

人からは認められたい。

誰かのために精一杯尽くすから、

自分をぞんざいに扱わないで欲しい。

だけど自分の領域に必要以上に入り込まないで欲しい。

まさに寂しがり屋の一人好き。


あるアニメを見ていてね、

他人のために尽くしたい、

人のために生きたいという主人公に対して、

ヒロインは

「そんなの生きてないのと同じじゃない。自分が幸せにならないなんてあり得ない」

と詰る場面があって。

主人公は誰かの役にたとうと一生懸命生きていた。

けどそれが結局報われないまま、

悲惨な末期を迎える未来の自分が現れる。


どちらかと言えば、

主人公の考え方に自分を重ねてしまう自分がいる。

自分の場合、

本心からの奉仕なのか、

認められたいがための偽善なのかと問われれば、

間違いなく後者なんだけど。

 

その主人公は、

未来から来た自分に、

「自らの正体を持たない紛い物。

偽善の海におぼれて死ね」

と言い放たれる。


自分を主体として生きていない人間は、

何をするにも他人の目を意識してしまう。

そしてその行為も、

どこか上っ面だけのつまらないものに見えてしまう。

なにも取り繕っても、

哀れみこそすれ、

他人から敬意を抱かれることはない。

いいように使われて、

都合よく忘れ去られるだけ。

 

対して自己承認は、

常に理想の自分の目を気にしながら生きているという。

他者を排除しながら理想の自分に向かって邁進することができる。


どちらの場合でも、

結果として自分を高められるのであれば、

同じ頂きにたどり着くかもしれないけど。

他人の目を気にしながら汲々と生きているのが正しいはずがない。


ましてや、

ブログですら他人の目を気にするなんてどうかしてる。


ただ、

認めてもらいたいたくさんの人がいて、

その人達からその他大勢の扱いをされるのが耐えられないから、

自分磨きの前に自己犠牲を選んで、

都合のいいお人好しを演じて、

なんとなく記憶の片隅に存在を残してもらっているだけなんです。


背中が透けて見えるほどの薄っぺらい人間が、

気の遠くなるような背伸びをした結果、

大切な人たちから本当の自分を知ってもらう前に、

いとも簡単に足元を見られて目の前から消え去られてしまう。

 

そんな経験をいやというほど繰り返して・・・・、

いま多少は自分の内面に目を向けて、

心の声に耳を傾けるようになったのかな。

ひょっとしたら、

他人の目よりも自分の目を気にするようになったから、

自己管理も順調に進んだのかも知れません。


当たり前のことを何を今さらという感じではあるけれど、

何かしらの成果が得られたのなら、

この後悔も無駄な時間ではなかったのかとも思います。

 

とかく人の顔色を伺いながら、

意に沿わない事に価値を見出そうとしてきたこの半世紀、

自分にとって本当に価値があることを突き詰めた先に、

たくさんの人が集う大きな道が広がることを切に願う、

春も間近の如月の夜なのでした。

いやいや、

いつの間にやらもう2021年ですね。

去年もいろんなことがありました。

 

会おうと思えばいつでも会えるのに、

遠くにいても、

いつもどこかで元気で暮らしていると思っていたのに、

そして、

切ろうと思えばいつでも切れる関係であったのに、

突然来る連絡は、

やはりいつでもつらい現実を突きつけてくるもので。

 

人の苦労まで背負い込む必要もなく、

かつて自分が行った選択を取り戻す手立てもなく、

ただ単純に現実の重みを受け止めて、

無責任な自分を傍観することしかできません。

 

これから自分に降りかかる労苦の目算と、

なるべくきれいに聞こえる口先だけの言葉と、

そしてきれいに関係を断つ方法の検討と。

 

突きつけられた現実に対して、

自分がやったことはこれだけなのだから、

自分はなにも辛くない。

ただのクズ人間です。

 

・・・

 

康衢通逵という言葉があるそうで。

そのままの意味で言うと「人の賑わう大通り」、
転じて、
物事の本道であったり正しい筋道みたいな事を指すそうな。
 
約半世紀の人生を顧みて、
本道も筋道もない、
回り道ばかりの生き方をしてきた気がする。
 
そもそもが目的のない、
その日暮らしのような人生だったから、
その回り道が、
自分の人生の正道であったとも言えなくはないんだけど。
 
世の中にはいろんな人生があって。
 
ただただ普通に歩いているだけなのに、
いつの間にやら人が寄り集まってくる人もいれば、
人の賑わいに向かって歩いているつもりでも、
いつの間にやら杣道に迷い込んでしまう人もいたり。
 
誰かの生き方を羨んで、
いまを生きているわけではないと思うけど、
目指す先すら見えてないから、
ふらふらと半世紀もさまよって生きているわけです。
 
誰か足跡を辿って生きている人間の後ろには、
決して人の賑わう大通りは現れない。
それで道にはぐれたといっても、
そんなのはただの愚痴でしかないんです。
 
来年は50歳。
50歳には意味がなく、
半世紀も生きてきて、無駄な散財を繰り返した挙句、
自分の本道も見い出せず、
なにも残せない、
誰一人幸せにできていない、
そんな自分を恥じる今日この頃です。
 
 

行き暮れて  木の下陰を  宿とせば
    花や今宵の  主ならまし

さてさて、
ここ南相馬に住み始めてから
早三週間が経ちまして。

バンガローに毛が生えたようなホテルも、
コンビニ弁当しか食べられないことも、
一週間に一回しか洗濯できないことも、
ここではそれが当たり前。

起きて半畳寝て一畳
天下取っても二合半
住めば都の埴生の宿

あるものを有るように受け止めて、
気楽に生きていけばいいんです。
はい。


ここは南相馬の北泉海岸。
-1度の寒さにもめげず、
サーファー達が波間にぷかぷか浮いてました。

この写真のすぐ左手には火力発電所が、
右手に20キロほど行けば福島第一が、
自らも自然の一部とばかりにそびえています。

この海を見て育ち、
この海で遊び、
この海から食の恩恵を受ける。

この海に育まれた人たちは、
事故の前後という時間の切れ目はなく、
汚染という状態の変化もなく、
嵐の一過の如くに、
ほんの一時、
海から離れなければならなかっただけ。
きっとそうなんでしょう。

不平を言えばきりがない。
文句を言っても届かない。
そして、
自分が動いたところでなにも変わらない。

人間いつかは死ぬのだから。

あるものを有るように受け止めて、
生まれ育った町で、
死ぬまで生きてやろう。

そんな諦感とも達観ともつかない、
「ただただ生きる」という心情が、
ここ南相馬にはぼんやりと漂っていました。

サーファーの輩たちは、
どんなことを考えて生きてるのかな?
……少なくともこの極寒の海で、
優雅に水浴びを楽しむ姿を見ていれば、
通いあう言葉は無さそうだと理解しましたよ。
はい。