久しく更新していませんでしたが、近況報告です。
3月、42歳になりました。後厄です。一昨年よりも去年。
去年よりも今年とだんだん穏やかになってきているのか。
世界や国内の状況とは裏腹に。
元ギター担当のセイジが3回目の腰椎の骨折。
精査しても原因はよく分からず。
長年の偏った食生活による栄養失調ではとのこと。
今月もまた骨折したとのことで、自宅療養していると連絡がありました。
トイレへは這っていけるらしいけれど心配です。
仕事もままならない状態。
本人も結構落ち込んでいてとても心配です。
近いうちに、様子を見に行こうと思います。
4月、病棟の副主任になりました。
立場が変わると周囲のみえ方も少しずつ変わってきました。
子どもたちがそれぞれ新しい場所へ入学、入園し慌ただしく過ぎていきました。
バンド活動は、ベースのサトシさんがプライベートが落ち着くまでお休み。
その間、別バンドとしてシンゴと3人でスタジオに入って新曲を練習し始めました。
それから、妻が妊娠。予定日は12月。
仕事も頑張らねば。気を引き締めていこう。
そんな心境で迎えた矢先のことでした。
月末に、施設に入居している祖父が入院。
肺炎になったとのことでした。
5月。
そんな祖父が月初めに息を引き取りました。
享年94歳でした。
元陸上自衛官だった祖父。
引退後も不摂生せず健康に気を付けた生活をしていました。
心臓の手術をするまでは毎日ランニングを欠かさず、
祖母がカロリー計算した食生活。(軽度の糖尿病でもあったため)
無駄遣いもせず、物もボロボロになるまで捨てずに使う人でした。認知症になることなく人生を全うしました。
おかげで、自宅は物だらけ。賞味期限切れのものがたくさん。
金物や金属類、色んなものをため込んでいて、
祖父が施設へ入居後は、
父が自宅の片づけをコツコツと数年かけて整理しました。
祖父は神経質な人で、よく祖母ともケンカしていました。
そんな祖父に厳しく育てられた父もよく不満を漏らしていました。祖父に会う時は、いつも父はイライラ。
良い思い出がありません。
祖父も祖母も、嫁いで間もない母にかなり厳しかったらしく、
僕がお腹にいる間も、同居中の母を家政婦のように働かせていたようです。
母が2人目を流産したのをきっかけに、同居をやめました。
僕が2歳か3歳くらいの頃でした。
そんな祖父ですが、僕は色々と支援してもらっていました。
遊びに行くたびにお小遣いもよくくれました。
奨学金の返済も一部工面してもらい、
お陰で終わらないローン返済生活を終わらせることができたことなど。
お陰で今の自分がいます。とても感謝しています。
そんな祖父が亡くなり、
喪主である父と一緒に葬儀の手続きに協力させてもらいました。
ただ、葬儀は全体的にとてもスピーディーに淡々と行われ、
悲しむ間もなくお別れとなりました。
葬儀の手配から終わるまで父は心の余裕がなかったのでしょう、
終始イライラしており、何も手につかない状況でした。
頭が回っておらず、母や僕が助言しても怒るばかり。
お寺の住職さんも予定がパンパンだったようで、
葬儀では説法も特にありませんでした。
後に、聞くと住職さんなりの想いで時間いっぱい読経してあげたかったそうで、そんな住職さんもいるんだなと。
でも、想いは感じました。もう少し言葉があれば良かった。
が、その時は読経しておしまい。
MCなしのライブのように、
終わるといそいそと帰られ、とても味気なく感じました。
また、故人を振り返る紹介エピソードについて、
司会進行役の方と打ち合わせしましたが、
祖母の時よりはるかに内容が薄く、
父が「これでいいです」とすぐに終わらせてしまいました。
子どもの頃とか、親子の思い出とかなかったの?
全体的に葬儀をとにかくとっとと終わらせようって印象でした。
喪主になると確認ごとも多いだろうしそりゃ大変なのは分かるけれど、一人で抱え込もうとしちゃってて。
代われば良かったです。
火葬場へもバタバタで、遺体が到着し手続きを済ませると、
たまたまその時間が少なかったからかすぐに火葬。
あっという間に、お骨となってしまった祖父の骨を拾い、葬儀を終えました。
これで良かったのか。
その後も、父の妹である叔母との間で、ひと悶着。
ちゃんと弔えたのだろうか。
祖父の方が悲しくなっちゃったのでは。
申し訳なく思います。
入院中からずっと付きっ切りだった両親も疲労困憊でしたし、
人一倍、すぐに頭がいっぱいになりやすい父の心情も分かる。
けれど、
長らく介護に携わったのは父。
きちんとお別れできたのかな?と思います。
そんな父に代わって、僕が喪主(のような働き)を
全面的に主体でやってあげた方が良かったのかなと思いました。
父は絶対そんなことやらせないでしょうが。
そんな感じで、参列した従兄弟とも話してましたが、
まったく悲しめませんでした。
昔から孫にも厳しく、食事中でも少しでもこぼすと
厳しく叱るような人だったので、
幼い時は怖いという印象でした。
父や祖母ともよくケンカしていたし、
あやしてもらった記憶もなく、
一緒にどこかへ出かけたり遊んだ記憶もありません。
しかし、大人になって経済的な支援をしてくれたのは、
現実的な面で孫たちのことを想ってカタチにしてくれていたんだと今は思います。
祖父は不器用だったのかもしれません。
晩年は角がとれ、かわいいおじいちゃんになっていたので、
今思えばもっと会いに行けば良かったと思います。
葬儀の時はそのようなことに気付けませんでした。
何だか空しかった。
人の命って、人生って何なんだ。
死しても残るもの。
それは「故人との思い出」だったんだなと感じます。
年月の長さではなく、精神的なつながり、濃密さだと思います。
祖父が生きた94年間の人生の中に、
僕は42年間いました。
ただ僕と祖父の2人きりの時間はありませんでした。
高齢になって、トイレの介助や歩行の付き添いみたいなものはありました。
でもそれは交流ではなく介護でした。
祖父が元気な頃に、2人でもっと色んなところへ出かけたり、
語らったりする機会があれば良かったなと思います。
生前は、父と母がいつも祖父母に振り回されていたのを目の当たりにしていたし、
父が祖父と会う時はいつもイライラしていました。
叔母は若くして地元を出て結婚。
祖父母の世話や親戚づきあいもしてきませんでした。
祖父母が高齢になって、介護のことに口出ししてきたり相続の話を持ち掛けてきたり。
そこは別の意味で悲しいです。
祖父母の世話はいつも父や母がしてきました。
父が現役で働いている時は、母がいつも祖父母の面倒や手伝いをしてきました。
よく離婚せずにここまでやれてきたなと思います。
母に一番感謝しています。
世代的にどこの家庭でも起きている当たり前のことだったかもしれません。
でも両親の気苦労を知っているから、心を開いて関われなかったのだろうと思います。
とは言え、祖父にもとても感謝しています。
金銭管理や健康管理など、自己管理にストイックだった生き様は尊敬できる人でした。
しているけれど、別れの寂しさが湧き出なかった。
仕事上、人の「死」に慣れ過ぎてしまったからなのか。
今まで祖父からもらった小遣いや経済的支援は本当に
ありがたかったです。助けられました。
感情が湧かないのは自分がまだ未熟だからかもしれません。
けれど、形じゃないもの、精神的なつながり、
2人だけの楽しかった思い出や嬉しかった出来事。
それがあまりなかったからかもしれないです。
祖父の死に対して、
頭では分かっているけれど、心は冷静でした。
ただただ、お疲れ様でしたと旅立ちを祈る。
ご先祖様に手を合わせる。そんな心境でした。
とても考えさせられました。
こんなお別れの仕方ってないよ。
ちゃんとじいちゃんとお別れしたかった。
別れを惜しんで泣いて、お別れしたかった。
ちゃんと自分の気持ちをその残った肉体に伝えたかった。
だって、大人になっても会える僕の唯一のじいちゃんだったんだから。
仏壇で手を合わせて伝えたって、伝わってるか実感できないよ。
こんな終わり方ないって。
誰であれ、亡くなった人に対してきちんと正面向き合って、弔ってあげたいです。
それから少し落ち着いて、先週末のこと。
長いので、次の記事にします。
(続く)