"移植コーディネーター"と共に歩む。




医療機関の移植外科には、"移植コーディネーター"という職業の方がいる。

おそらく普通に生活していても耳にしない職業だ。

僕自身も、臓器移植によってドナーとなるまで、その名前さえ知らなかった。



『移植手術が行われる際に、提供者(ドナー)と移植者(レシピエント)の間に立ち、"調整する人"のことをさす。』(ネットから引用)



これはネットで拾ってきた、"移植コーディネーター"という職業の説明文だ。


僕達兄弟が2年前に生体肝移植をするとなったその時も、やはり"移植コーディネーター"というなにやら聞いたことのない名を持つ人が、僕達兄弟にもつくことになった。



上の説明にある"調整する人"というのは、

手術までの流れを説明したり、スケジュールを立てたり、

『手術前後の流れが円滑に進むために調整する人』という意味合いがおそらく含まれている。


確かにそれは間違っていないが、

その説明だけでは、僕はどうしても物足りなさを感じてしまう。いやあまりにも物足りない。


なぜ物足りないと感じるのか。

僕を含めた家族全員が、"調整"などという言葉を通り越して、移植コーディネーターのYさんによって

"人生"が救われたからである。


執刀医の先生と同じくらい、

徹底的に患者に寄り添い、支えてくれる人。

Yさんと出会ったことにより、"移植コーディネーター"と聞くと僕はそういった印象を持つ。




恐怖、不安、痛み、焦り、孤独、


移植手術というものはそういったものと常に隣り合わせにあると僕は感じる。それはレシピエントだけではなく、ドナーにとっても、そしてその周りを囲む家族にとっても。


そういった感情や苦痛を魔法のように消すことはできない。もちろん僕もそんな魔法は使えない。スポーツで培った根性と気合で乗り切ろう。

とはしてみたものの、そんな力はあっさり砕け散った。初めての苦痛にどんな自分で接すればいいのか、それがわからないことが1番の苦痛だった。



そんな時、

凸凹に荒れた砂浜を丁寧に丁寧にならすように、

僕達に優しく向き合ってくれたのが、移植コーディネーターのYさんだった。

下に向いた人生が方向を変え、上を向き始めたのはYさんがいたからだ。




そのYさんが、

最近移植コーディネーターの仕事から退くことになったと、母づてに聞いた。

年に一回の定期検診に行っても、

もう会えないのかと思うととても寂しく感じる。


手術前後の瞬間的な関係ではなく、あの時から現在に至るまで、Yさんは僕達兄弟と共に歩み続けてきてくれた存在だった。

だからこそ、ものすごく寂しい。


Yさんがこの記事を見てくださることに少し期待をして、実体験をもとにここに改めてその感謝を記したいと思う。




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術後約2週間が経つ頃、

痛みのピークがやっと過ぎた。


過ぎると言っても、ピークを過ぎただけで、

ベッドからは身動きが取れないほどあちらこちらがまだまだ痛い。ただ、少しずつ頭の中に、何かを考える余裕が出てきた。


今までのこと、これからのことを、

現在の状況と紐づけて整理しようと思った。

しかし、臓器移植という急すぎるビッグイベントによって、今より先の、これからのこと(未来)について何も描けない自分がいた。

1ヶ月前まで、イマジネーションの塊を持って海外でプレーしていた自分とはまるで違い、今の自分は次の日の自分さえ描けない。

目の前に見えるのは、腹部にあるできたての新しい傷と、病室の真っ白な壁だけだった。


前に進まなければいけない。と、僕に刻まれている人格が攻め立てる一方で、僕の体はストップをかけ続ける。


はじめての葛藤に戸惑う自分に、家族は心配の声をかけるが、そこに対して何の感情も湧かずにただただ頷いた。何も考えず、誰にも気を遣わず、

冷めた自分でいるのがその時は楽だった。



それから数日後のある日、

Yさんが僕の部屋にやってきた。


誰が来ようと僕の態度に変わりはない。

もしも僕の愛するミュージシャンがサプライズで来たとしても、おそらく同じ対応をしていたと思う。

冷めた口調で、Yさんに今の状態を端的に話す。


Yさんは僕の言葉を一言一言ちゃんと飲み込むように、頷きながら聴いてくれた。


僕の葛藤を聞いたYさんは、

まず初めに『許してあげて』と僕に伝えた。


そしてYさんは、

今の自分と重なるような、Yさん自身の過去の出来事を話してくれた。いや、それは自分よりももっと苦痛を感じるような出来事だった。

Yさんもその時、僕と同じように苦しんでいたことを伝えてくれた。

仕事への復帰まで本当にたくさんの葛藤をしたと。

その上で一つ、僕に有効なアドバイスをくれた。



それは、

何も考えず機械的に目の前のことをこなしていく、ということだった。

そこに何の感情も入れないこと。それこそが、この時期に大切なことだと言う。

ただただ、目の前のことをこなしていく。


そして最後に、

今まで頑張ってきたんだから、そういう時間もあっていいんだよ。と伝えてくれた。



その時僕は、本当に無意識に、無意識にめちゃくちゃ泣いていた。

無意識だから泣いた理由はわからないけど、

その時の自分を、はじめて自分自身が許容してやれたからだったと思う。



その日から、僕は何の感情も入れずにただただリハビリ室に向かい、与えられたセット数をこなすと、何の感情も入れずにただただ病室へ帰った。


そして毎日機械的に体を動かしていくことで、

少しずつ少しずつ僕は前向きな言葉を発するようになった。

上から下に流れる川の水みたいに、至って自然にそういう風な自分になった。



Yさんに出会わなければ、あのまま逆流を泳ぎ続け、疲れ果ててしまっていただろう。

しかしそうはならずに、イメージした未来を今楽しんで歩けているのは、間違いなくYさんがいたからだ。

そう考えるたびに、Yさんへの感謝が込み上げる。



僕達の歩みは、常に移植コーディネーターと共にある。





Yさん

本当に本当に、ありがとうございました。

僕達の移植コーディネーターがYさんで良かったと、心から思います。

僕もいつかは、人を救える仕事ができるように、地道に精一杯頑張ります。