前記事にコメントを下さった皆様、
ありがとうございます!
本来ならもっと言葉を尽くして書くべきところなのだろうと思います。
ただ、そうするとあまりにも範囲が広がってしまう為
『「公平」であるべきと考えるなら私はもらわなくていいのでは?と考えるのですが、先輩は「自分より得をしている人がいてずるい、だから公平にする為に自分ももらうべきだ」なんだと。』
この点に絞らせていただきました。
しがない一小売業が何を偉そうな事を、何にも出来ないくせに、とも思います。(それを変えようとして社会主義にたどり着くのもよくわかる。個人的にはバーニー・サンダース氏の「民主社会主義」が現状ベストだと考えています)
ですが、考え続ける事こそがいざという時の判断や行動につながると思うので、大事だと思うのです。
更に言えばブログに書く事でコメントを下さる方がいて、自分に無い視点や知見を教えて下さる、更に考えを広めたり深めたりできると思っています。
そして続きのこの記事。
先程とシチュエーションは変わりますが、
どれほど人間性に問題があろうとも、健康にも資産にも社会的ステイタスにも恵まれ一生を終える人がいる。
素晴らしい資質を持ち、周囲に思い遣りを持ち、市民として真っ当に生きていても、報われない人もいる。
碌でもない人も素晴らしい人も、もしくはどの様に生きようともその生き方が否定されるべきではないと考えます。
自身の自由を望むなら、他社の自由も認めなくてはならない。
しかし社会という枠組みの恩恵を受ける限り一定の線引きは必要になる。
それが故に「不公平感」と「不平等感」から自由になれない。
そんな社会に対して、斜に構える事なく、かと言って
正論のみを期待するのではなく中庸に、もしくは
「暫定ベスト」のような状態を選択していければ良いのかもしれません。
よく取り上げる、ガリレオガリレイから。
「どっかで誰かが泣いている
間に合わないヒーロー
勝ち逃げの悪玉
それもいいかな
明日もあなたに会える日だ
神様ありがとう
ほんとにありがとう」
全てを正すことはできないけれど、
それを見過ごすしかないかもしれないけれど、
頭の片隅には置きながら、
得られた幸せを寿ぐ。
ささやかでも、小さくても、そこには自由と幸福があるような気がするのです。
がちがちのテーマを立て続けに失礼いたしました。
のんびり画像で締めておきます笑。
