こんにちは

 

辻褄が合わない公式見解で、前回は終了しましたので、続きからはじめます。

 

浅草寺の観音像を最初に安置した場所と最初の寺の置かれた場所はどこだったのか。

それが、「今現在」の公式見解と室町時代末期の成立と推定されている浅草寺所蔵の最古の縁起絵巻『伝応永縁起』では、特定できないという話でした。他にも浅草寺の縁起は江戸時代のものもいくつかあります、と列記しました。

 

縁起は布教にも使われる大切な寺の由緒なので、信者に向けて明治維新後も現代に至るまで度々発行されています。

僕らが御朱印をいただくときや、御札・お守りを購入する時に、ほとんどのお寺でお寺や神社の由緒が印刷されたパンフレットを貰ったりしますが、あれが、「今現在」公式見解の布教用縁起にあたります。

前述の浅草寺の縁起は、骨子は基本同じでも、それぞれの縁起に含まれれているものと含まれていないものがいくつかあります。それを取捨選択し統合して、「今現在」公式見解が出来上がっていることは容易に想像できます。

 

縁起絵巻の分析は、それは一つの専門領域の学問なので、興味のある方に、台東区教育委員会生涯学習課『浅草寺縁起絵巻』(台東区教育委員会 2017年3月)をお勧めします。

 

僕は、駒形堂の建つ場所は、浜成・竹成とともに観音像が上陸した最初の仮屋場所ではないかと考えています。

観音像が引き上げられてから、観音像は土師中知の自宅へと移され中知は出家し自宅を寺へと改装したと伝応永縁起から読み取ったわけです。

追記すると、駒形堂が建造された時代も伝応永縁起からは読み取れません。

推測されるのは、寛文縁起と呼ばれる別の縁起絵巻の絵一段目「朱雀院御時、安房守平公雅朝臣といふ人ありけり。」からはじまる、平将門の従兄弟である平公雅が浅草寺の伽藍を整えるときだろうということ。この平公雅の話は、先に書きましたので、そちらをご参照ください。しかし、「だろう」と書いたのは、こお寛文縁起絵巻には、駒形堂を指す建物は文章上、特定されていないからです。

 

じゃあ、浅草寺の「今現在」の公式見解は、どこから来てるのか?というと、残念ながら、僕にはわかりかねるというもの。しかし、是非、考え違えをしていただきたくないことが歴史についてありまして、それは、紙に文字として残された文字史料(資料という漢字ではありません)がないと歴史の事実と言えないわけではないのです。それが、埴輪や、柱の痕跡や、古銭、器などの出土史料や、口伝でもよいわけです。

 

また、土地の名前や建物の名前は、歴史の記憶の断片を残していることが多くあります。

(同時に、漢字の音が同じで良い当て字に変更したり、区画整備や合併で従来の呼称が失われてしまったものは枚挙に暇がありません)

 

浅草寺の原初の形は、土師中知の自宅を改装した寺だと、浅草寺の公式HPが記載していましたが、この最初の場所として考えられるのが、一之権現です。

前出の網野宥俊氏が理由を挙げて推測していますが、私もそう思います。

下の拡大地図を御覧ください。現在とほぼ同じ配置の江戸時代末期の浅草寺域を一部示しています。

 

(江戸切絵図東都浅草絵図 尾張屋清七版 嘉永6年より部分拡大)

 

ええ、実は、これで一部なのです。

現在、僕らが「浅草寺」と思っているのは、おおよそ、この地図の建物の絵が書かれている所でしょう。

ここで注目は、浅草寺本堂の右上は現在の浅草神社ですが、当時は「三社権現」という名前でした。

名前が三社権現となった経緯は、浅草神社のホームページから転記しましょう。

 

「奇しくも明治政府より発せられた神仏分離令により、明治元年に社名を三社明神社と改めて、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められました。今でも氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。」

浅草神社HP: 

https://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/about/

 

前回の#53において室町時代末期の成立と考えられている伝応永縁起から抜粋しましたが、縁起には「三所権現」と記述されていました。

「舎屋の男女貴賤おなしく観音の威験をあふきれり。これによりて旧居のすみかをあらためて、なかく新構の寺とす。彼時の土師の真中知、浜成、竹成は今の三所権現是也。」

 

これもいずれかの時期に、言い伝えられて来た「さんじゃ」か「さんじょ」の当て字が室町時代末期から江戸時代にかけて変化したのでしょう。『紫の一本』を参照すれば、その時代にはなんと呼ばれていたのかが、わかるのですが、いまは、詳細にいかず、これから書きたい興味のつれずれのみ。

 

三社(三所)権現と崇められた土師真中知、浜成、竹成の子孫は、代々、専堂坊・斎頭坊・常音坊の三譜代と呼ばれ観音様に仕えてきました。三社と呼ばれる権現様は3人いるのです。この三人の神様がそれぞれ、三社祭の三基の御神輿に乗られるように、三社様の筆頭は、土師真中知で一番目の権現(一之権現)で、その神輿が一之宮です。

 

では、もう一度、上段の地図に戻りましょう。

五重塔が立っていた場所から右(東)側、現在の馬道通りを越えたところに、朱枠で囲まれた区画に「自性院 地蔵 顕松院 一之権現」と書かれています。

ここが、土師中知(またはその子孫)専堂坊の社屋があった場所だと考えられます。

江戸切絵図の書かれた時代、すでに専堂坊の住まいは、ここではなく別の場所にあるので、嘉永六年当時には一之権現は既に歴史の中の土師中知という神を祀る社になっていたことが推測されます。

 

今日は、このあたりで、続きは次回にとしましょう。