• 19Apr
    • #16 東京の原風景はどこに? 柴又・帝釈天他

      おひさしぶりです。また、開いてくださった方、どうもありがとうございます。新しくいらっしゃった方、いらっしゃいませ。今回は、このタイトルにしてみました。途中に、3本の書きかけがあるのですが、東京から離れ過ぎなので DownToTokyoどころか、Vagabond(放浪者)になっちゃうかなと 笑笑友だちの裕太くんが是非、柴又を案内したい!と言ってくれていたので、40年ぶりくらいに柴又に行った話をしましょう。そもそも柴又 どうやって電車で行くか知っていますか?ハイ 検索してくださいね僕の一番古い記憶は亀有(『こち亀』のです)のアパート暮らし(4,5歳頃)だったこともあり、両親は家から近くでもあった柴又に連れて行ってくれたのでしょう。柴又といえば、草団子ですよね。僕もそうでした。いや、少ししかない記憶「草団子 すごい美味しい」訪問して気づいたのですが、「草団子」は当時もいまも、箱の半分に草団子が餡とは別に整然とならび、半分に餡こだけが詰まっていた。そうそう。でも、裕太くんが、1個から千切って売ってくれる店があるからと連れてこられました。うんうん、そうだよね~。たくさん草団子屋さんあるんだから、まったく同じでも見せ方次第、売り方次第で違いがでるよね。食べてみないとわからない味の違い、値段の競争だけじゃない・・・などと考えて、1個だけ買ってその場で、パクリ。(一個売りは、試食すらいらないという発見) 美味しい。当然箱買いです。甘い 甘いもののに 弱すぎる 脇の甘い僕。(奥さんを四国からもらい「べったら漬け」が東京名物だと若かりし頃に知った)写真でもわかるように、柴又帝釈天の表参道にならぶお店やさんの佇まい気づきました? 日本が誇る一大観光地 浅草寺の仲見世とは大違いです。空襲で焼け野原になった台東区は、本当に外観からして100%木造建築というものが少ないです。それでも仲見世は、明治に銀座通りよろしく煉瓦造りにしたことから「赤い商店街」であるだけで、味わいがあるのですが。まぁこんなに、木造建築で、取扱の品々も古風な感を多く残しているのは、ここ柴又帝釈天参道と、成田の成田山新勝寺参道くらいではないでしょうか。そうそう、成田空港を使っても、成田山に行ったことがある人もすごく少ないかもしれませんね。(これが成田空港に近い成田山新勝寺参道です。冬の夕方で誰もいないけど、初詣は、関東で明治神宮に次ぎ参拝客がくる。浅草寺は3位)成田山は平将門、成田屋を名乗った初代市川團十郎以後の江戸歌舞伎と縁が深いため江戸時代から江戸庶民が大挙して成田山詣でに行ったそうです。私の家族は飛行機乗りだった祖父が、弾除けとして成田山の身代わり札を深く信仰していたので、毎年詣でています。はなしはもどり、柴又に来て思い出した東京みやげは、たんきり飴(さらし飴)。とはいえ、もう店先で、長く延した飴を包丁で切る実演販売はしていなかった。そういや、東京駅の大丸で以前、スペイン・バルセロナ発祥スタイルとしたpapa bubbleパパブブレという飴を切って販売する店が人気がでたな東京中野発だけど・・・あの飴を切るリズム感はほんとに美しいものでした。いやいや、フーテンの寅さんが、ほんとに出てきそうなこの参道は、いつまでも残ってほしいものです。そういえば、外国人の方から指摘されて思うのですが、明治維新で牛を食べるはじめる以前、食べていた庶民の日本料理を食べる機会はめっぽう少ないと思います。そもそも、そんな店が少ない。「蹴っ飛ばし(馬)」「山くじら(イノシシ)」「どじょう」なんて食べ物、台東区墨田区あたりには有名店がちらほら残っていますが、ここ柴又にも「どじょう」ありましたね。下町といえば江戸時代初頭は、神田・日本橋周辺を指したようですが、寅さんで代表される下町自体の風景としての風情を感じられる場所は少し離れたところで見られるようです。スカイツリーから、あと少しなんですけどね(^^)と、帝釈天の参道の先、山門に到着して。。。帝釈天には、素晴らしい木造彫刻を施した本殿があります。制作が関東大震災後ということで、重要度の認知は高いとは言えないようですが、権威の認定という他人目線基準ではなく、素晴らしい技を持った木彫り職人達の真骨頂を見ることができる逸品だと思います。最後に、1つ。この隣にある大客殿という建物のガラスが、とてもめずらしいものです。現在のガラス窓の制作技法と異なり、吹きガラスの技法で、円筒形にガラスを器状に整形してから、筒を切って平らに伸ばして作る製法で作ったガラスで、地震の多い関東では割れてしまって多くを見かけることができない貴重なものだと思います。ガラスに一方向に縞々の歪みがあるこのガラスからみる風景は、ほんとに風情があります。私の記憶では、浅草寺の伝法院くらいしか記憶にはありません。ガラスのありなしが写真でわかるでしょうか?まぁ 素敵な回廊のある帝釈天の庭園を実際に楽しんでみるのはいかがでしょう

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  • 14Mar
    • #15 自分がガイドしてもらう 台湾 最終回(お参り)

      ここまでのお話で、台湾の街歩きしていたら、お寺が街の発展に重要な意味を持っていることがわかりました。僕をガイドしてくれた台湾人の友達の一人は、日本を自転車で一周したことがある強者。それだけではなく、古事記も勉強して神社をめぐり、更には、戦国時代が好きで古戦場にも行くという日本通。そんな彼に、お寺を案内してもらっている際に、台湾のお寺について話を聞きました。台湾でも古い漢人の歴史を持つ士林のお寺 慈誠宮の写真を中心に解説します。(慈誠宮 本殿正面)この本殿の正面には、本殿に向き合う形で通りの向こう側に舞台があります。(慈誠宮の舞台)日本の神社にも、大きなお社では神楽殿や舞台がある神社が少なくありません。でも、実は、神楽殿の向きが重要なんです。参考までに、観光客が多く、また、その舞がアジア各地の中世の舞を伝え保存しているという厳島神社の配置から見てみましょう。(厳島神社の舞台配置:厳島神社のHPから拡大)右下に能楽堂がありますが、本殿正面に平舞台・高舞台という舞台があります。そう舞台の目的は、神様に見ていただくために奉納するので舞台の位置は、本殿の正面にあることが鉄則です。位置がずれては、意味がなしません。都市化が進み、最近では舞台の場所が失われてしまったお寺が増え、逆に、この士林のお寺は珍しくなってしまったそうですこんな指摘から、日本でも神社だけではなく、京都の清水寺の舞台は、参拝客が景色を堪能するためにあるのではなく、観音菩薩に舞楽を奉納するために、本堂正面にあるのをあらためて気づくきっかけになりました。(社殿の入り口)日本同様、台湾のお寺も門を社域に入るとき、社殿に入るとき中央の扉や、門の中心を通ってはいけません。通りの中央は、神様の通り道です。中央を避けてください。これ、アジア全域で失われつつある文化だと思いますが、昔は道路や橋などは施政者がつくるもので、中央を歩いてよいのは皇帝や王のみでした。王侯貴族を含め庶民は端を歩いて遠慮すべきもの。これもそもそもは、帝は天子という思想からきているのでしょう。さて、正面から入れないとすると、右からか左からか?という問題になります。これにはルールがあり、常に反時計回り。右から入って左から出ます。台湾のお寺が全て南面しているのか、多くの台湾お寺参拝ガイドには、「龍門から入り虎門からでる」と書いてあります。龍・虎は、方角を示しているのです。古代思想に、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)があり、それぞれ、青龍から東南西北を守る霊獣です。つまり、南向きのお寺なら、右の青龍(東)門から入り、反時計回りに、左の白虎(西)門から出る、ということになります。(参拝の順序)お寺に入ると、中央にそのお寺の主たる神様がおられて、その周りを多くの神様が各部屋に祀られています。ここも日本のお寺や神社と違うところで、中央の広場を囲むように個室を与えられて神様が配置されている。これは、古来の住宅様式に沿った作りなのだそうだ。つまり、多家族が中央の共有空間をリビングとして共住していたそう。参拝順序も、入り口同様に反時計周りなのだが、1つ・2つその前に手続を踏もう。まず、入口入ったら、お線香を売っているところを探そう。そこには、【回る順番が書いてある札】が貼ってある。このお寺は、最初にこのお寺の主神である①媽祖にお祈りをしてから、反時計回りにまわるよう指示されている。これは、例外らしい。本来は、まず、本殿の外に置かれた大きな香炉に向かい本殿に背を向けて天の神に祈る。次に、お寺の主神から反時計回りに回るそうだ。次に、お線香だが、先程の【順序札】に各神様にそれぞれ何本の線香を供えるべきか指示(ここは8つの香炉に計10本)されているので、10本線香を買って一度に全部火をつけて、それを持って神様を回ることになる。このお寺は太っ腹でお線香代は無料だった。もっと信心深くお願いする人は、持ってきたお供えとともに、写真内でお線香の脇に積んである大福帳(古いか・しらないよね)みたいなのが、神様の世界でのお金だそうで、この神様のお金と共にお供えを置くのだそうだ。(最後に「お供え」の話を書きます)(お祈りの方法:この写真は香港の黄大仙祠)よくこのように、頭にお線香をかざして、「むにゃむにゃむにゃ」つぶやきながら、深々と3拝している光景を見ますが、台湾のお祈りの方法に、神社のような「2礼2拍手1礼」のような流儀があるのかと、聞きました。答えは、無いようで、ただ、「神様への自己紹介とお願い」を唱えてお祈りをしているが、礼は何度しなければならないという決まりはないそう。思い思いのスタイルだそうだ。神様への自己紹介というのが名前、住所、生年月日など、神様が自分を特定できる情報を提供するというのが面白い。友達は、「台湾の神様は、一番偉い神様から下々の担当が決まっている神様までいる官僚組織みたいなもんだよ」と笑っていた。確かに、役所に嘆願に行く感じ?(^^)(おみくじ)さて、最後は、これまた台湾旅行者の間では有名なおみくじについて。「台湾のおみくじ面倒くさいし、時間がかかる」と友達が言うように、これはよっぽど差し迫った危機でもない限り、できないよ。ケ・セラ・セラな人には、説明聞く時間すら無駄に思えるほど。写真の赤い半月形の筊杯を2個両手で持って、地面に落とし、まず、おみくじを引いてよいかを尋ねる。片方が表、片方が裏(つまり、☯陰陽の印)が3回連続ででたら、次に進め。それ以外なら、陰陽が出るまで祈り振り続ける。もうここで、あなたがケ·セラ·セラなら、読みやめるでしょうから、次の(お供え:写真)に進め。いやいや、きっちり仕組みだけは覚えるべし、というひとには、神様は次を教えます。「おみくじ やってもよいよ」と御神意を得られたら、やっと、次は、ツボの中からおもむろに一本 棒を引き抜き、さて、これが御神意にそった籤なのかどうなのか、またまた、赤い半月形の筊杯を投げるわけです。ええ、ええ、陰陽☯の印がでるまでね、3回連続でだってさ。でません!なら、次の棒を一本あらたに引き抜き、またまた御神意を。。。ああ 面倒くさい。飛ばして、御神意出ました!となったと仮定しよう。そしたら、棒(籤)に書いてある番号に相当する箱の中から日本同様ご宣託が紙に書かれたものとしてくだされるわけです。ちなみに、僕は、当然、説明を面白がりながら聞くので精一杯で、それほどの時間を使うほどの真剣な悩みなどないわけで。(お供え:龍山寺本堂前)ランタン·フェスティバルの前だからか、とにかくお参りする人がたくさんです。前回かきましたね。普段は、「オジサンとオジイサンばっかし」テーブルに置かれているのが、お供え物です。ここで、面白いのは、お供えは、持ってきた人が持って帰って家で食べるのだそうだ。 「え?」 聞き直してしまった。 なんでも、神様の祝福を受けたものを体に取り込みたいってことかな、と。逆に、「日本では持って帰らないの?」と日本に1年ほど滞在したことがある別の友人が聞いてきた。「日本では、神様にお供えしたものは、神様に仕えている人たちの食事になるんだよ」と答えました。いま考えると、この僕の答え、少し宗派などによって異なるようです。一旦、奉納したものは神様·仏様のもの。お下がりをいただくならば、お寺さんから頂くべきと考えます。自分の家の仏壇なら世帯主。他人の家の仏壇からなら、その家の方。奉納された神様·仏様の代行となる人が、お下がりを誰に施すかを決める。これはあくまで、一宗教に所属しない一個人の考え方であります。考え方の違いを認め、なぜだかを考え、それはそれで、許容する。世の中、所変われば、価値感が変わるのです。絶対正義·絶対悪はなく、あるのは人間の心のもちよう。絶対正義があるとすれば、それは動植物の「有り様」のままでしょうか。いろんな物事を知り、自分持つの考え方を見直すことが、異なる文化との出会いの醍醐味ではないでしょうか。長くなった台湾旅行編 これにて おしまい。

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  • 13Mar
    • #14 自分が旅行ガイドしてもらう 台湾 その3(台北旧市街地)

      ガイドしてもらった二日間は、長いですが一回にまとめてみようと思います。まず、台湾という国名ですが、元は、大圓といい、これは16世紀に大陸人が台南に入植した際の台南を示す名前で、清朝になって台湾を統治しはじめてから台湾とよぶようになったのだそうだ。台北・台中・台南もそれ以降の名前。先住民族が住む中世台湾に、大陸の主に福建省の漢人が入植してきたのが、中国を起源とする台湾のはじまり。なぜ、福建省の人々なのかというと、話は17世紀 中国大陸の明王朝の終わりにルーツがある。一口に中国と言っても、現在は統一中国だが、もともとは各地域ごとに群生する各民族・部族の国があった。北方にいた満州族の清国に滅ぼされる直前、後の台湾政権を樹立する鄭成功の父親(明の福建省出身)は日本の平戸におり、日本人の母親との間に鄭成功が生まれた。鄭成功は、7歳で明国に帰国するが、明国は勃興する清国に滅ぼされる。鄭成功は明国血統の王を奉じて抵抗勢力として大陸沿岸で交戦も敗戦、地盤を固めるため台湾の台南に渡り、当時オランダの東インド会社が支配していた台湾からオランダ人を追い出し、1662年「反清復明」を目指す鄭氏政権を樹立した。しかし、1683年清国により併合された。(中国と台湾の位置関係 地図)地図をみると明らかなように、台湾が海を挟んだ向かい側は、福建省だ。(清朝・乾隆臺灣興図より)さて、先に台南が開けた。その後、現在の台北市の西に流れる淡水河の河口にある(現在新北市の)淡水に港町ができる。次に、淡水河を遡り基隆河との間にできたデルタ地帯の(現在台北市の北部)大龍洞から士林にかけて、次いで更に遡った淡水河畔の(現在台北市の西部)艋舺(のちに台湾総督府時代に音が似て佳い漢字を新たに当てられ萬華と改称)に港町ができた。(清代臺北三市街より)年代が経て萬華地域(龍山寺あたり)は繁栄するも有限の土地には既得権益も発生し、後続の移住者は萬華地域より下流に新しい街を拓いた、それが現在の大稻埕(迪化街のあたりの河沿い)。清朝は、末期1884年になってようやくこの2つの港町の東に台北府城を建設し対日本の中国防衛最前線とした。現在の台北の中心部は、この旧台北府場の市街地に建つ行政機関を中心に栄えている。(北門)僕の友達たちは、みな僕が歴史をめぐるのが好きなのをしっているので、これらの地図が地面にプレートとして貼られた北門の公園をはじめ、旧市街を案内してくれた。この北門公園は、ここ近年整備されたもので、数年前までは、この北門の存在を否定して道路優先の立体交差になっていた。それを台北市長 柯文哲氏が推進し立体交差を撤去、2017年に8月に僕らが台湾発展の歴史をプレートで学んでいた北門広場が完成した。(北門近くにある日本統治時代の日本の会社跡地記念館で、統治時代の台北地図を見入る僕ら一行)今回は、淡水には僕らは行かなかったので、次に拓けた、士林(故宮博物院がある街)から。(士林駅前)この何の変哲もない高架橋の下にも歴史があって、このMRT士林駅からまっすぐのびる高架橋の下は公園になっているが、昔は、台湾総督府が敷設した淡水に行く鉄道だった。現在は、MRT淡水信義線となって高架に変わった。(小学校)この学校は僕の友達の出身校で、ぜひ紹介したいと最初に紹介してくれた。現在も統治時代に漢人のために台湾総督府が設立した小学校(柱の奥)で現役(現在はこの周りを取り囲むように新しい校舎が広がる)。柱に残る「公学校」が漢人の学校の意味とのこと。(士林の街~昼間の町並み)士林は、夜市で有名なのだが、そもそもなぜ、昼間にマーケットが開かれないで、ナイト・マーケットになったのか。この夜市は、慈誠宮を中心に街が栄えていて、慈誠宮のお祭り自体も夜に開催されるのだそうだ。(慈誠宮)また、士林の街は古くから服と紙の製造と販売が主要産業で、生粋の士林子の友人の想像では、昼間は仕事をし夜にお寺参り、買い物、食事とする生活サイクルだったのではないかと推測していた。たしかに、僕の友人たちの家では朝食すら外食でほとんど、家では炊事しないとのこと。台湾の漢人は上記の歴史から自ら新天地を求めてきた先祖を持つことから商売人で勤労意識が高いのかもしれない。(迪化街)初めて訪れるのだが、なんとも懐かしい感じのする町並みだ。迪化街も萬華も統治時代の建物がそのまま残っている町並みだと紹介してくれた。ただ、日本でもこのような町並みは見たことがないので、懐かしさは幻想なのだろう。また、迪化街には、乾物屋が立ち並ぶ。いやホント壮観なくらいだ。旧正月前になると、このあたりは乾物を買う人々で身動きもできないほどごった返すのだそうだ。そういや、自宅で料理しない台湾の人々は、乾物を買ってどうするんだろう。聞くのを忘れた。かと、思えば、和菓子と中華菓子のハイブリッドのようなオシャレなお菓子屋さんなどができていて、老街と片付けられない発見もある。(慈聖宮前の屋台)この迪化街も慈聖宮というお寺があり、この寺の前に屋台がずらりと並ぶ。Googleによると、どれもこれもここの屋台は☆4クラスだ。屋台の前では座りきらないので、お寺の敷地のテーブルで食べる。ここで注意:それぞれのテーブルは屋台ごとに決まっているから、怒ったように指摘されても不愉快になっちゃいけません。(萬華)昔の建物を保存してリノベーションし、美観地区にしている町並み。映画の撮影などに使われていると聞いた。現在車道になっている東側の幹線道路ではなく、この美観地区の狭い通りが、本来のメインストリートだったようだ。日本でも、巣鴨のとげぬき地蔵の前の通りが本来の(旧)中山道で、現在の駅前から伸びる17号は自動車が走るようになって整備された中山道というのと同じだ。(龍山寺)旧正月を過ぎ、ランタン・フェスティバルを翌週末に迎える時期で、ごった返す。このあたり、友だちによると、いつもオジサンとオジイサンばかりがいる街だという(^^) なんでも、龍山寺の門前の大きな公園では、将棋や、その他の賭け事が行われていて、暇なオジサンとオジイサンは何をするでもなく、時間つぶしに他人の賭け事を見に来るという。僕らは、正月明けのめでたい週間だから出会わなかったのかもしれないが、普段はチャイナドレスを着た女性がこのあたりには何人か立って、オジサンとオジイサンの気を引いているのだという。女性も50代くらいだよと、笑顔で言われた(^^; あははは友達たちによるローカルガイドツアーのハイライトは、長くなったけどこんな感じ。次回は、台湾編 最終回 台湾のお寺についてをお送りします。今回は、ながながと、おつきあいくださりありがとうございました。ではまた

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  • 09Mar
    • #13 自分が旅行ガイドしてもらう 台湾 その2(九份編)

      その日は、翌日行われる日本・台湾メンバーの合同パーティー参加者の一部が参加した九份観光でした。SOGOのある忠考復興站から乗合タクシーで向かいました。この駅の近辺に、多くの観光タクシー運転手が乗合タクシーの客引きをしています。ここ自分で手配していないので、説明を省きますが、客引きに聞いてみたら、他のお客さんと乗合にして九份に行くようでした。やまの中腹にあります。(九份)台北最大の観光地(らしい)の九份。僕は、連れて行ってもらうまで、ここが『千と千尋の神隠し』湯婆婆の館のモデルがあるとは知りませんでした。(ガイドブック読めよ)「台北に行くなら、故宮博物院、古い街 九份、天燈の十份 あとは、喫茶店と美味しいご飯の街。終わり。」これ以上も以下もない。(阿妹茶楼)お茶屋さんは、この湯婆婆の館以外にも、たくさんあります。人気の店に、人は集まるものですが、味・外観・サービス・人気がイコールとは限りません。九份には数え切れないほどのお茶屋さんがあるので、自分の好みのお茶屋を探してみるのもいいでしょう。同様に、素晴らしい外観と内装が人気で、入れなかった店が、こちら。(九份茶房)いいですね。烏龍茶など中国・台湾式の茶道で飲むお茶を茶藝と言いますが、中華圏ならどこでも楽しめます。あの魅力的なお盆に載ったお茶セットは、本当に欲しくなります。(茶藝館 これは香港)そういえば、台湾では撮影するのを忘れました。香港で茶藝した際の写真を載せておきましょう。茶藝は、日本の茶道と同様に最初は男のたしなみとして発達したもの。主人が客人を接待するのが洗練され芸事となっていったもの。大ぶりの所作で、このちっちゃいお茶碗で、味の変化を香りとともに喫茶すると結構さまになって御大尽きぶんになります。(樹窟奇木樓)我々が入った店は、九份老街の最深部とでも言えるところにある崖の上3階建木造建築の店。ここ他の店から離れている分だけ、騒々しくなく夜景が綺麗。また、建物も凝ったロッジみたいで面白い。詳しくは、Google mapで検索してみてください。さて、九份老街では途中途中で、目を引く店が所狭しと並んでいるので、片っ端から興味を引いたものを食べる食べる。(臭豆腐)臭豆腐は、名物ですね。強烈な匂いがします。普通のは昔食べて苦手だったが、写真のものは、珍しく厚揚げスタイルで、ピリ辛スパイシー煮込みになっているので、挑戦。臭豆腐としてはマイルドな酸味と匂い。食べず嫌いの人が挑戦するには、これくらいが良い。本格的なのを食わないと、という人には、大丈夫、入り口から奥に進めば強烈なスタンダードが売ってました。(桜花蝦)干し海老の店。これ超絶美味しい。あんまり美味しいので、自分で購入して、周りの観光客にも「美味しいよ」「Yummy, 很好吃!」と売り込んで、お店の人に後々笑われた写真。これね、おつまみにも、お茶漬けの具にも最高です。(お餅)最後は、焼き餅なんだけど、焼き方が面白い。最後に、日式って書いてあるんだけどさ、膨らんできた餅を潰したり串刺ししたりしないよね(^♢^)それで、最後には、練乳やいろんなソースをかけてくれます。これは味が想像できるので食べませんでしたが、この食べ方はしないので、今度自宅でしてみようかと。正直、これパフォーマンスもあり、屋台向きな食べ物。(金鉱)もともと、金鉱が発見されて崖沿いに採掘の街が開けたが、廃坑になった後、芸術家達がこの面白い街に住みついて開けた街なのだそうだ。その遺構を楽しめるのが、この場所らしいのだが、まず、絶対にこの派手派手な観光施設九份老街を歩いていても見つからない。こんな派手なのに。老街の喧騒の隙間に人一人通れれる暗い坂道をくだった場所にあります。しかも、温泉地にある秘宝館くらい怪しい。せっかく発見したのに残念なことに、当日おやすみでした。次回があれば、ぜひ潜入リポートを書きたい場所。(不思議な風景)ここも、おそらく余所見しながら何か発見するつもりでないと、見つからない路地を入ったところにあります。面白い風景で、なんだか光のお化けが襲ってきてるみたい。ついでに、こんな看板で台湾語表現を勉強したりして。こんなん、本で勉強するより、よっぽど看板で覚えたほうが、よく覚える典型かも(^^)台東区の歴史や観光とは、ちょっと違う世界(僕なりの観光)をおつきあい頂きます。ではまた

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  • 07Mar
    • #12 自分が旅行ガイドしてもらう 台湾 その1

      先日 台北に行ってきました。旅行ガイドブックを用意したのですが、台北には友達がいるので、あらかじめ友達に連絡して台北の街をガイドしてくれるように依頼をしておきました。というわけで、台湾在住の友達にガイドしてもらった台北をご紹介しましょう。僕が、ガイドを受けるとどうなるかを、見てもらうと、僕がしたいガイドのイメージが持ちやすいかと。逆説ですね。それと、#9で書いたように、旅行日誌は細かく書いておくと、後々、見直すと時代の変化がわかったりして楽しいことを勉強したので。今日は、街の景色に入る前に、実際に公共交通機関に乗ってみた編===================TAIWANTAIWANTAIWAN===================台北には、新しい桃園國際空港と、昔からある松山機塲があります。どこの町でもそうですが、昔からある飛行場がコンパクトで市内から近く便利。羽田も伊丹も同じ事。(空港外観)台湾は、漢字も中国(簡体字)と異なり昔ながらの繁体字で読めますし、多くの場所で日本語を話してくれる台湾人に会うので、初海外旅行するには最適な場所といえるでしょう。何より、日常生活にスマイルのある国は、ホッとします。さて、僕は公共の交通機関が好きなので、インフォメーションで「何を利用するのが中心地まで一番安いか・時間は?」と聞き、市バスで台北駅に向かいました。 ここでも、ホテルを選ぶ基準があります。 知らない街でホテル選びに迷ったら、もっともホテルの多い繁華街で好きなクラスを選べ。つまり、朝動き出すにも、夜帰るにも、時間もお金も短縮できます。(バスの車内:磁気カード タッチパネル)松山機場から中心地の台北駅までは、地下鉄でNT25、市バスえNT15です。街の中心地で宿を取ると絶対迷わないのは、このバス停の降りるポイントです。だって「台北駅」だったら、お客さんの半分以上は降りるのを期待できる(^^)アナウンスを聞きそびれても、車外を見れば「駅」は間違いなくわかります。台北駅 極端にデカイ。(小さく見える?)一つ、付け加えるとすれば、台湾の運転手荒っぽいです。荒っぽさ 星4。清潔度 星5(夜の台北駅)この市バスが、トリッキーなんです。いや、NT15とわかっているから、どこにトリックがあるのかといえば、ないはずなんですが、後方ドアから乗車すると、目の前に、「前払い」「後払い」と電光掲示板が光っているのです。事前にプリペイド・カードを買うと、日本のバス同様に、タッチします。ちなみに、現金徴収箱は運転手の横にしかありません。聞きそびれましたが、お釣りは出ないと思います。小銭を用意しましょう。実は、帰国時に台北駅から松山機場までも、バスを使ったのですが、乗車時「下車収費」と書いてあったので、降りる時に払おうと思っていたら、松山機場までの半分くらい行ったところで、「上車収費(前払い)」に変わっていて。律儀な僕は、運転手の顔をしっかり見て、払っておりました。(バスの車内)ついでなので、地下鉄も紹介しましょう。SUICAやICOCAなど磁気式カードに慣れてしまうと、キップを買わなくなるので、買い方使い方がわからなくなったりします。香港やシンガポールでは、片道キップですら磁気カードですが、台北は、磁気コインなんで「は?」とびっくりしました。(券売機)行き先を確認して、その値段と人数をタッチパネルで選んで、コインを受け取る。(入口:コインをタッチ)乗るときは、磁気カードをタッチするところに、コインをタッチ。忘れずに、持って行こう。(出口:コインを投入)降りるときは、コイン投入口に、投入すると、自動扉が開く。今日は、公共交通機関の案内でした。日本ですら、知らない街で都バスや市バスを利用するのは、ハラハラ・ドキドキものですが、それもまた、旅の醍醐味。途中の景色も地下鉄では気づかないですからね。ではまた。

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  • 05Mar
    • #11 近所の桜並木に驚く DownToTokyo

      近所に咲いた早咲の桜に気づいたのは、INSTAGRAMの投稿日付によると、2月15日だった。今朝、その木が早くも葉桜になっているのと、隣の木が花を咲かせているのに気づいた。「?!」 ひょっとして、少しづつ開花時期の違う桜を植えた桜並木だったのか? と、近くに行って確認。(一本目 近) その通り、一本目の早くも葉桜になった開花の早い桜は、早咲で有名な河津桜。伊豆の河津で寒いうちから町中で桜の花見ができることで有名な桜です。(二本目) 二本目は、色が濃い。河津桜に比べると少し小ぶりでしょうか。花びらの色が紅い。まだしっかり開花していない蕾が、より紅に見えるのか。オカメという品種だそうだ。今、咲いているのはこの二本。あと、もう少し桜の木は続きます。これから開花を待っている桜の種類も撮影してきました。(これからの桜)もうここに住んで15年くらい。この駅前が今のように整備されてから10年くらいになるけれど、全てが異なる種類の桜が植樹された桜並木だと今日まで気づかなかった。どれだけ、下向いて歩いているんだ・・・気持ちに余裕がない。桜が咲いても興味・関心をよせなかった証拠です。結局、普段がこうなのだから、観光地に行ったところで、目の前にある観光名所も通り過ぎるのは当たり前だよな。そう思います。【ピンポ~ン】「ここは、観光名所3番。◯◯銀行の左をみてください。重要文化財◯◯です」なんて、携帯が喋ってくれると、いいですね。うっさいか!うんきっとうるさいと思ったところで、きょうはここまででは また

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  • 04Mar
    • #10 入谷で開催したsocialbarで プレゼンしました DownToTokyo

      3月になりました。きょうは、陽射しもあたたかく春の陽気。花粉も多く飛んでるからか、眠くなります。きのうは、毎月第一土曜日に上野の近くで開催しているプレゼンを肴に酒を美味しく呑もうイベントでプレゼンしてきました。ご来場くださった皆さん、楽しんでいただけたようで本当に良かった。ありがとうございます。🔽socialbarのページはコチラ🔽https://socialbar.ikipj.com🔽今まで出演した出演者とプレゼンのトピックはコチラ🔽https://socialbar.ikipj.com/report/このsocialbarを開催した場所は、台東区入谷という場所で、地下鉄日比谷線で上野の次の駅。または、JR山手線・京浜東北線で上野次の鶯谷から近い場所です。入谷は都内に住んでいる人でも知らない人が多い地名かもしれません。知っている人でも「なんで入谷?」のような(^^)socialbarを再開する際に、構成する主要なメンバーが台東区や墨田区辺りを基盤に文化的活動している人が多かったので、そんな人々の輪を広げ一緒に活動できたらいいなと、山手線の東側に開催地を絞って場所探しをした結果です。ほとんどの回を入谷で行っていますが、今までも、「品川」「新橋」「東京」「末広町」そして最初は「神楽坂」でも開催してきました。入谷は、江戸っ子とは言いませんが下町辺りに育った人には割と名の通った地名で、江戸時代からある洒落言葉に「恐れ入谷の鬼子母神」という言葉があるように、子供の守り神 鬼子母神(きしもじん)があることで、有名です。本当は、「鬼」の文字の頭に「 ' 」(角)が付かない文字を使うのですが、PCでは変換されません。(詳しくは「鬼子母神」を調べてみてください。仏教の神様でヤクシニーのことです。)また、江戸中期から続く、東京の夏の風物詩『入谷朝顔まつり』が毎年7月6〜8日開催されます。子供の頃、朝顔を育てませんでしたか? 確か小学校の理科でも朝顔を扱ったと思います。実は、江戸時代中期、御徒町や入谷で朝顔を育てる業者が多くいて市が立ち、その出来栄えが素晴らしかったことから朝顔を家で育てるが江戸で大人気になったそうです。朝顔って実は、色の出かたがいろいろあって朝顔市では、幾つかの品種が並ぶのも綺麗で面白いです。この写真の中で、看板がよしずから降りている「団十郎」も品種の一つ。団十郎が好んだという渋い色が特徴。まぁ、まだ3月3日のひな祭りが、終わったばかり、7月7日の七夕を挟んで行われる入谷朝顔まつりまでは気がはやいですね。最近、着物や浴衣を楽しみに着る女性が増えているとのこと。花火だけではなく、50軒以上の朝顔業者が入谷の交差点辺りに所狭しと並ぶ、下町情緒あふれる市に足を運ぶのはいいものですよ。歴史が好きな人なら、鶯谷のウグイスは京都から連れてこられたウグイスだとか駅前に今も、明治の元勲の一人 陸奥宗光の旧宅が現存しているとか楽しみもあるはずおっと、今日は、お礼と、入谷の話で終わってしまいました。ではまた。

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  • 28Feb
    • (報告)絵や写真を直しました。 DownToTokyo

      ブログの記事から写真が消えていました。すみません。気づかなくて。一部 新しい絵や写真を追加し、入れ直しました。写真の見えない状態でご覧になった皆さんゴメンなさい。ご意見・ご感想も真摯に受け止めご期待に添えるよう、使い方を勉強します。(_ _)これからも宜しくお願いします。

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  • 23Feb
    • #9 (続き)江戸時代に日本を訪れた外国人の本を読む DownToTokyo

      『シュリーマン旅行記 清国・日本』ハインリヒ・シュリーマン著石井和子訳(前回 #8からの続き)この本の中で、シュリーマンは、浅草を二度も訪れていることに触れている。浅草寺、奥山での遊興見物に加え、なんと猿若町での芝居まで鑑賞して観た芝居の筋立てまで記録している。ここで表現されていることは、面白いことに、ちっとも西洋の歪んだ色眼鏡が感じられない。どちらかといえば、現代の僕らが江戸時代に迷い込んでしまったかのような感がある。(奥村政信 狂言顔見世大浮絵)そして、「#7バレンタインデー 遊郭での想いの伝え方」において、どうも吉原を書くことに気が重いと書いた僕の印象が、シュリーマンが見聞きした当時の人々の「娼婦に対する考え方」がまるで違うことが発見だった。なぜ気が重いかというと、子供の頃に売られてきて、または一身上の都合で自ら望んで娼妓になり、年季を務めが終わるまで廓の中から出る事が叶わない。また、多くの娼妓は色々な理由から20代そこそこで亡くなると読んでいたからです。ここに引用してみます。「(日本の江戸幕府は)貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに契約を数年更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の痛みしか感じない。なぜなら、売春婦は、日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業と比べてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは、芸者の年季を務めあげた後、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる。」「娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期まで~すなわち12歳まで~この国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり、漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに最高(注記:才能とは書いていない)を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。(明治22(1889)年 浅草寺〜この西側から本堂を見た図に大絵馬が掛かっている)「(前略)日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん(花魁)」の肖像画(注記:大絵馬)が飾られている事実ほど、我々ヨーロッパ人に日本人の暮らしぶりを伝えるものはないだろう。他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しくも恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは思わなかった。ところが、日本人は、他の国では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目の当たりにしてーそれは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われたー長い間、娼婦を神格化した絵の前に立ちすくんだ。」確かに、娼婦自身が絵馬を発注するほどの資金はなかったであろうし、絵馬の題材になれる花魁がいたこと自体、とても不思議が意識構造だと思う。また、シュリーマンはアメリカ領事の国賓として滞在しているわけで、彼の質問の答えに、それが【「おいらん」ではない】ことはあるはずもない。確かに、置屋の芸妓を身請けした著名人には、木戸孝允、井上馨が有名ですが、先に出した黄表紙作家 山東京伝の妻も吉原の遊女だった。シュリーマンが公使館付きの護衛幕臣から聞きだした時代の娼妓に対する意識は、我々が持つ現在の意識との間には大きな隔たりがあるのかもしれない。それは、ここでシュリーマンが持っている西洋文化またはキリスト教文化背景が戦後の占領下での思想・倫理観矯正にあい変容したのかもしれない。その意味ではGHQが日本に作らせた特殊慰安施設協会の方が、「卑賎な職業意識のアメリカ文化・倫理観の上で設置させた」という考えかたが成り立つ。色々な意味で、考えるきっかけをシュリーマンにはもらいました。(浅草寺本堂 東京名所図会 明治30年)(浅草寺の大絵馬について)浅草寺は、境内に奉納された絵馬を飾っていたが、それが次第に大きいもので、かつ祈願者の財力と絵師の筆致の素晴らしさを競うようになり大絵馬が次々と奉納されたという。現在、本堂に往時の大絵馬は掲げられていないが、年に一度ほど戦災をくぐり抜けた寺宝として公開される。この絵馬を掲げた資料は非常にレアで、保存公開されている浮世絵から写真で唯一確認できたもの。

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  • 22Feb
    • #8 江戸時代に日本を訪れた外国人の本を読む DownToTokyo

      ここ1・2年、江戸時代に日本を訪れた外国人の本を読むという新しい遊びを見つけました。最初の出会いは、自分で掲載したFacebookによると、2016年10月7日だったようだ。(以下 抜粋)面白そうな本を見つけた。幕末期が好きな人には馴染み深い外国人 アーネスト・サトウの訳本I found a book very interesting. The author is Sir Ernest Mason Satow who are famous among people who like the ending era of Tokugawa Shogunate.アーネスト・サトウは、イギリスの外交官。駐日公使。司馬遼太郎著作始め幕末の歴史に興味のある方なら必ず見たことのある名前ですね。幕府方、薩摩、長州方の歴史を動かした主要人物達だけでなく明治天皇とも面談し通訳した人です。サトウの日本滞在は、途中帰国があるものの計25年(文久2年1863年~明治33年1900年)と、なんと明治維新を挟み40年にわたる期間。日本の激動の変化を肌に感じた知識人です。僕が読んだ「アーネスト・サトウの神道論」は彼の博覧強記を遺憾なく発揮している著作で、賀茂真淵や本居宣長の著作も読んで理解した上で、サトウだけではなく日本人神道学者の考え方について評論している。*****そんな僕が、今ちょうど読み終わった本がこちら。『シュリーマン旅行記 清国・日本』ハインリヒ・シュリーマン著石井和子訳(Photo from:https://www.infowars.com/the-debt-crisis-is-a-trojan-horse-to-cause-the-fall-of-america/)Heinrich Schleimennは、ギシリア神話(Greek Myth)で、ホメロス(Homer)のイーリアス(Iliad)に残された伝説のトロイの遺跡( Trojan Archaeological Site)を発見した人。彼が、1873年に遺跡を発掘する8年前1865年(慶応元年)、清国(上海・北京・万里の長城など)と日本(横浜・江戸)を訪れている旅行記。ちなみに、慶応は、明治になる前の最後の年号でたった4年しかない。まさに、明治維新直前の江戸に約1ヶ月滞在したのだった。原著は、1867年フランス語で書かれた La Chine et le Japon au temps présentこの本の面白いところは、アーネスト・サトウが日本で収集した本や日本に関する書物を4万冊所蔵した一級の日本学者でもあることとは違い、シュリーマンは11歳でラテン語でギリシア神話の冒険譚を作文し、言語の読む書く話す習得に6週間でできたというコミュニケーション能力の天才。世界規模で物事を見つめることができる目だ。日本に立ち寄る以前はゴールドラッシュで沸くアメリカに銀行を保有し世界中を旅していた実業家で、のちにその全財産を注いで子供の頃の夢であるトロイの発掘をする。シュリーマンの旅行記の素晴らしいところは、多くの国を渡り歩いた経験から、客観的かつ写実的に現地の文化を文字に起こしているところ。(僕は、多くの国に行ったが、写真すら撮影せず、残したものといえば、出張レポートだけだったような無駄な人生を過ごしたと思い知らされた)同年の北京・上海と江戸の町や風俗、そして性質も、(結果的には極端な対比となって)表現している。実は、この本には、前回の#7吉原に対する私の気分を変える文章があった(長くなりすぎたので次回に続く)

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  • 10Feb
    • #7 バレンタインデー 遊郭での想いの伝え方 DownToTokyo

      ヴァレンタイン・デーが近づいてきました。St. Valentine’s Dayは、3世紀のキリスト教の聖人 聖ウァレンティヌスの殉教記憶日。時のローマ皇帝クラウディウス2世(Marcus Aurelius Claudius Gothicus)が兵士の結婚を禁じた治世において、兵士の結婚式を執り行ったため捉えられ処刑された。キリスト教がローマ帝国の迫害対象宗教から一転、国教になるのはテオドシウス帝380年のこと。(東西ローマ分裂は1054年とさらに後年だ。) 日本でバレンタイン・デーが「女性が男性にチョコレートを渡す日」として最初に打ち出しのは、メリー・チョコレートで、昭和33(1958)年2月14日新宿伊勢丹で手書きの看板を出したというのが定説との事。殉教者の記念日を知っていたことも、結びつけちゃおうという発想も画期的。クリスマスケーキを日本に登場させたのは、ここより遡る大正11(1922)年 不二家だそうで、このメリー・チョコレートがバレンタイン・イベントをした頃に、不二家店舗の広域拡大とともにクリスマスにケーキを食べるというのも全国的に定着していったという。この2社が、宗教だの信仰だの気にせず【イベントとして楽しめるものなら イェ~ぃ文化】を現代に定着させた革命家です。1950年に25歳くらいだった人たちだとしたら、今の93歳だから。もう結構長いこと、チャラ男とチャラ子してるわけです。ハロウィンの仮装よりサンタの仮装は年季の入り方が違う(~~)で、ここで、吉原の遊女の恋バナなんて軽くない濃い話を書こうと思ったんだが、多くのブログにも書いてあるし、そもそも内容に気が重くなって仕方がない。   3日すでに放置した。http://home.a05.itscom.net/hotaru/page171.htmlこちらのサイト(松本深志落研OB会)が、吉原全般に他のサイトや文献よりも詳しいので参照ください。ここで取り上げようとした、遊女が意中の客を引きとどめる手法が、想いの重さ順に説明してある。想いの重さが、質量を生むってこう言うこと・・・幼少の頃、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます♩ 指切った」と歌ったあの歌と、その仕草。由来も知らずに、家庭や幼稚園・保育園でしていたなんて、罪なものです。また、中学生の頃、不良(関西のヤンキーという言葉は、あの頃 知っていたんだろうか? 今ふと 思った)が、好きな異性の名前の下に「命」と書いていたが、まさか、それが、吉原の遊女が由来だったとは。。。『明菜命』『美穂命』ってね。当時 中学生 根性ないから机に掘ってました。風俗三十二相 いたさう 寛政年間女郎の風俗 月岡芳年(二の腕に、想い人の名前を入れ墨している図)江戸生艶気樺焼 山東京伝 天明5(1785)(右の絵 艶次郎が存在しない前の彼女の入れ墨を消して上から、これまた存在しない今の彼女の名前を入れ墨してる図) ところで、自分の指をつめる代わりに、想い人に用意したというシンコ細工というものが、どういうものかだけを書いて終わりにします。そう江戸時代は、チョコレートを渡すのではなくて、シンコ細工で作った指を渡したんだから。ところが、そのシンコ細工すら見ること叶わないまま、細工職人さんは既にいないとのこと。こちらも東都よみうり「最後のシンコ細工職人」に詳しいので、参照ください。この記事の後、8日後に「来年(当時2013年)いっぱいで引退」とhttp://t-yomiuri.co.jp/最後のしんこ細工職人が「百個展」/ところが、シンコ細工を調べていたら、中国でシンコ細工を見た人の記事が最近で数件上がっている。さらには、金沢大学大学院に通っていた中国人留学生のシンコ細工に関する『中国・陝西省の新粉細工の伝統と発展』と題する博士論文まで発見してしまった。https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=35520&item_no=1&attribute_id=31&file_no=1日本の文化や歴史を掘り下げるのと同時に、同時代の西洋歴史的イベントや風俗などを比較してご案内しようと思っています。う〜ん しかしどうも 吉原の遊郭の内側の話は気がのらない。大門をくぐる前までだな。。。ではまた

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  • 04Feb
    • #6 節分と豆まき DownToTokyo

      昨日は、浅草寺で催された節分会(え)に行ってきました。節分と言うと、豆まき。ぼくは東京の人間なので、コンビニが恵方巻きを売り出した時代には「恵方巻き?なんだそれは?」と首をかしげました。まぁ発祥は大阪とwiki先生は教えてくださいましたが、そっちは調べていません。(【好奇心寄り道規制】しないと、目的地に一生たどりつけなくなってしまう)浅草寺は、信者に向けて大掛かりに行うようになった最初のお寺なのだそうです。(出典:東京の観光公式サイト GO TOKYO)各地の大きなお寺の豆まきには、各界の有名人、芸能人による豆まきが行われ夜のニュースを賑わせますが、江戸時代の浅草寺の行っていた節分会が天保7(1836)に出版された「江戸名所図会 第7巻」の16に掲載されています。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)何度も書くようですが、こういうのを実物で観れるというのがすごいよね。これがその節分会。すごい人数が描かれています。きのう浅草寺に行ってきたので、解説すると、これは本堂の外陣。本堂の正面階段を上がってきた入り口に今は置いてある賽銭箱の左右の柱です。注目は中央左の柱の上の3人です。この御三方、観音の三譜代(ふだい)と呼ばれる方々で、隅田川から聖観音菩薩像を引き上げた檜前濱成、武成兄弟と土師中知の御子孫がた。(譜代の方々についてはいつか書くかお話する機会があるかもしれませんが、それは別の機会)譜代の方々は、中央にいる方が恐らく専堂坊、左右で大うちわで扇いでいるのが、斎藤坊と常音坊でしょう。では何をまいているかと言いますと、お札を撒いているのだそうです。昨日そのお札(切り札という)を手に入れることができました。それがこちら。この切り札は、1万枚祈祷され、そのうち3300枚を配るのだそう。ご覧の通りお札は二枚あり、この二枚はその使用方法が、屋内から玄関に向かって、左側の柱に「節分般若心経日数所」右側の柱に「立春摩訶吉祥所」と同じ高さに向かい合わせに貼ることで、厄除けと招福の御利益が得られる。このことから、この絵図に描かれている群衆は、この種類の異なる二枚のお札を手に入れようと大混乱をしている図なのです。おお、そんな無茶苦茶な!しかし、こんな混乱では予想がつく通り毎年怪我人が出て危ないことから明治17年に明治政府から禁止令が出て、柱に登ってお札を撒くことは以後なくなったとのこと。(出典:わたし色の「江戸名所図会」さん)浅草寺の豆まきには、もう一つ、面白い違いがあります。それは、掛け声。浅草寺には鬼はいないということから、昔より「千秋万歳福は内」と発声するのがならわし。きのうも鬼の仮装されてきた方がいらっしゃいましたが、「いないんですよ 鬼」ってな具合です。豆まきの芸能人の顔ぶれが、これまた特色かもしれません。みなさん、浅草と縁の深い、本来の『芸能』の方々。いやお歴々と言えるお師匠様がた。舞踊、演劇、落語、お笑い、浅草芸者、今では珍しい幇間の方など。ぼくが子どもの頃は、浅草界隈には千代の富士がいた九重部屋始め相撲部屋のいくつかありましたが、今はないのか、力士の登壇はありませんでした。顔ぶれを見ていて、浅草寺はやはり流行りではなく、地元の信徒のお寺なんだなと改めて思いました。

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  • 02Feb
    • #5 TSUTAYA 蔦屋書店の名前の由来は吉原に関連する? DownToTokyo

      (江戸名所 吉原仲の町桜時 歌川広重 文政5(1822)年)きょうは馴染み深いTSUTAYAに関連することについて書きます。私は本日現在まったくCCCと利害関係はありません。共通した人をテーマに書くだけですので、あしからず。まず最初に、蔦屋書店の名前の由来について、カルチャー コンビニエンス クラブ株式会社のHPをご覧下さい。http://www.ccc.co.jp/showcase/sc_004048.html?cat=tsutaya創業者の増田宗昭社長が蔦屋重三郎にあやかりつけたと書かれています。でも、ぼくが取り上げようと思う理由が、「江戸吉原大門口に…」しかヒントがありません。蔦屋重三郎は、ガイドブックのはしりとも言える『吉原細見』や当世の文化普及の立役者です。江戸は扇谷上杉氏のもと太田道灌が江戸城を築き、後北条氏の領有のちに徳川家康によって天下普請と呼ばれる大都市が作られます。新しい街は火災からの復興も手伝い次々と拡大する中、参勤交代やら、仕事を求めてやら、日本全国からこの新興巨大都市に身分の上下問わず人が集まってきた。常に変化する町では、地図や名所案内、番付表などが制作され販売されました。いまはまさに過去の延長線上です。その一つが、蔦屋重三郎が立身出世する『吉原細見』です。『吉原細見』簡単に言うと、江戸幕府 江戸唯一の公認遊廓 新吉原のガイドブックです。このガイドブック、蔦屋重三郎が最初に作ったわけではなく… それはこれからまず、名前だけは聞いたことがあった『吉原細見』を実際に見てみました。さて、ここで面白いのが、『吉原細見』は何冊も時代を超えてあることです。男性ならず女性までも最新のファッションを見に吉原詣を楽むには必須のガイドブックとのこと、全国都道府県の中央図書館なら、館内閲覧限定で見られるかもしれません。CCCのホームページの記載を思い出してほしいのですが、彼はプロデューサーだと。実際に複数の版元と年代のことなる吉原細見をめくると、その意味がわかりました。年代の古い『吉原細見』は横長だったが、(元文4(1739)年 山本九左衛門)後に独占販売することになったと言われる鱗屋孫兵衞版は、今でいうところの新書を読むように縦長になっている。(元文5(1740)年 鱗屋孫兵衞)山本版は江戸町1丁目の片側だったのに対して、鱗屋版は両側の店を表現したこと。町を把握する見やすさが、段違いに改善してます。両方とも、「いせや」から始まっているので、違いもわかりやすいですね。鱗屋版には娼妓の名前の上にマークが付いていますね。これは、遊ぶ価格を示しています。山本版にもマークは付いているのですが、店によってマチマチで情報収集が偏っているようです。蔦屋重三郎は、この鱗屋孫兵衞の下で働いていたとの事。ぼくが読んだ資料では、この見開きに変更を加えたのが、重三郎のアイデアと書いてありましたが、重三郎は1750年生まれなので、この写真を載せた鱗屋版が発行された年にはまだ生まれていません。後年、重三郎は自身が版元となり『吉原細見』を出版しただけでなく、洒落本や狂歌本、著名な浮世絵師 喜多川歌麿や東洲斎写楽などを出したとこのこと。上記はウェキペディアを見ればわかるんですが、蔦屋重三郎版を見てみると面白いことに気づきました。(『吉原さいけん』安永8(1779)年 蔦屋重三郎版)それは、自分が出版元の本のタイトルを巻末に列記(左頁の「耕書堂」の欄)しているのです。これ、今の文庫本とかと一緒じゃないですか。つまり、需要が尽きることのない『吉原細見』を広告媒体と認識していたのが、ペラペラめくっていたら、わかりました。まさに、蔦屋重三郎は版元の枠に収まりきらないプロデューサーでありメディアマンですね。ちょっと深すぎましたかねそれではまた

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  • 01Feb
    • #4 江戸時代の露店といえば 水茶屋と楊枝屋・・・楊枝屋? DownToTokyo

      きのうの皆既月蝕はいかがでしたか?ぼくは、お月さまが全て地球の影に隠れたら、そりゃお月さんは影も形もなく真っ暗でしょ!と思っていたら、月蝕が始まる前から「赤いお月さまになります」なんて教えてくれて。。。期待もムードもあったもんじゃない。 小学生以下の子供がいる家庭なら「どうなるんだと思う?」の会話で知的好奇心を引き出したいものです。いや、ぼくが子どもの頃にも自分の子どもにも、そんな余裕のある会話したことないけどね。ほら そこは希望です。そんな家族像への 笑さて、今日は楊枝屋です。歴史小説とか好きだからでしょうか、江戸時代の店といえば、餅や団子の他に、菜めしだの、水茶屋、楊枝屋とナゼか頭にインプットされているんです。居酒屋的な酒や茶が出てくる印象がないのです。で、水茶屋とか楊枝屋って一体なんだ?と思っていたわけです。水茶屋は「深川江戸資料館」で去年教えて頂いたので飛ばして、ついさっき知った「楊枝屋」について書こうかと。(歌川広重 浅草雷門前)浅草寺境内には249軒(文化末期1815年)もあったんだそうです。249軒も楊枝屋が成り立つ意味がワカラナイ。マーケティングの知識も不要ですね。現在、歯ブラシを使いますが、歯ブラシが日本の一般庶民の手に入るのはずっとあとの話。私が運営のお手伝いをしているsocialbarで『不潔の歴史』の前半を話しましたが、まだ話していない後半に、『アメリカ人が当時のヨーロッパ人に先駆けて清潔な国民』になる理由の一つに、歯ブラシの励行があります。それでも200数十年前の話。じゃあそれより昔の日本人は歯ブラシなんてないわけで・・・そう、楊枝です。楊枝が歯ブラシの原型だったんです。でも、そんなに歯磨きの必要性なんて身銭に余裕があるわけでなし、使い捨てのものにお金をかけるか?249軒だよ 商売成り立たなきゃいけないのは。。。実は、江戸っ子は歯を白くすることを大切にしていたという。『色道大鏡』(藤本箕山著 1678年)に、外見を身繕いしても口の中に気遣いしていないなら、色を好むとは言えないね、って書いてあるそうな。笑う。(欧州の「不潔の歴史」にもエチケット本は同じルーツをたどるね)つまり、浅草寺参りは、吉原や芝居町にも通う途中にあるわけで、アパガードじゃないけど伊達男は白い歯を競ったそうだ。(出典:『浅草謎解き散歩』新人物文庫)しかも、浅草寺奥山の楊枝屋「本柳屋」のお藤は、「明和の三美人」と浮世絵になるほどの評判。今の二天門(随身門)脇には水茶屋「難波屋」のおきたと、これまた「寛政の三美人」と全部で6人の美人のうち2人も浅草寺境内から生まれちゃうんだから、吉原や猿若町に行かずとも、男どもは一張羅を粧し込んで出掛けたことは疑う余地がない。なんせ、江戸の女性人口は男性の半分以下と言われているんだから。(江戸名所図会7巻16 天保年間 1834 金龍山浅草寺の楊枝や)(並んでいる店が全部楊枝を売る店(笑)で女性が売っている様子がわかる)ついに本題の楊枝だが、形が違うのですよ。今回表題で使用した「古代江戸総集」からの一枚のこの女性が口にくわえているのが、楊枝屋が売っていた「房(ふさ)楊枝」。彼女の咥えている反対側がほうきのようになっている。本来、この小枝の先を叩いて木の繊維を房状にした方を使い歯を磨くのだそうだ。また、楊枝屋は、この『房楊枝』とともに、歯磨き粉や、化粧品を一緒に商いしていたのだそうだ。(古代江戸総集 房楊枝を使うおんな)この本によると、歯みがき粉は、寛永2(1625)年江戸の丁子屋喜左衛門によって最初に製造されたという(それまでは塩、焼き塩などだったらしい)*歯の博物館は寛永2年。日本審美歯科協会は寛永20年と出典により異なる長い時間がかかって、ひょんなことから答えがわかり、とても納得した。またまた、役にも立たない雑学が脳の一角に住みついた。浅草周辺を調べていると、目に見えない風俗や背景に気をとられて、調べ物が一向に進まない。どうしたら、いいんだろう。。。。ではまた

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  • 31Jan
    • #3 こんばん皆既月蝕 江戸時代はどう感じてた? DownToTokyo

      「こんばん三年振りの皆既月蝕」が今朝のニュース。いつ頃からだろう、頻繁に天体ショーが話題になるようになったのは。ハレー彗星? 前回は1986年2月だそうだから、ぼくが留学する直前に見たんだ。あれからだろうか? 獅子座流星群とか、最近はスーパームーンなんて一般用語か?というほど頻繁に聞く。それもこれも、60年代70年代の東京(日本の各工業都市も同様)の空が汚れていて、TVヒーローも公害から生まれる怪人 怪獣と日々戦っていたもんだ。それからいうと、80年代は空が明るく改善されたんだろう。(こんなところにも、隣国 中国の経済発展・公害・外国旅行は70年代の日本を垣間見るようだ)話題がそれた。ところで、むかしは皆既月蝕をどう見ていたのだろう。実は、浅草周辺地域の蔵前には江戸幕府の天文台があった。ここを説明する資料は、別途あるのだけど、どう人びとが感じていたかが知りたくなった。あるんですね〜(^^) こういうモノ好きなヒト向きな情報がネット上には。web日本語第97回 お月様は放蕩息子小学館国語辞典編集部http://www.web-nihongo.com/edo/ed_p097/この中で出てくる山東京伝は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。まぁ いま風に言えば風刺漫画家かな。大人気どころか時代を超えて現代にも名の残る天才でしょうが、なんせ、見たことがあっても、読めない(T T) あゝ なんたることかな 天才のワザを理解しない凡人の哀しさ。(ここ数ヶ月 度々直面してる)でも、この棚橋正博氏のお陰で、やっとわかりました!本当にありがとうございます!山東京伝に関するユニークな碑が浅草寺境内にあります。こんな話を知れば碑にも興味が湧きますね。話はそれますが、安土桃山時代から江戸幕府鎖国時代を通して、西洋人が来日しては日本を紹介する本を書いているようです。その中の多くに、当時の識字率の高さに驚きを表している文が掲載されているとのこと。この山東京山の作品を見ると思うことがあるのです。江戸時代でも、日本人は漫画好きで、そこから自然に文字や世情を学んでいたんだな興味を持つきっかけの役割をすれば、そこから先は、専門書や専門家に教えてもらいたいと思う。自発的な興味を生む土壌に、漫画はうってつけ。そんなことをつらつら考えた今朝でしたではまた

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  • 30Jan
    • #2 どんなガイド? DownToTokyo

      観光地ガイドとは何をしてくれるのか?そもそも必要を感じたことがない。(一般的に)ぼくは仕事柄、日本はじめ世界の多くの町々を歩きましたが、そもそも観光ガイドブックを事前に買ったことすら稀。基本、地図と現地の観光ガイドマップに頼りっきり。それで十分観光できます! つまり、観光ガイドブックすら不要と思っている人 第一人者。ということは、みなさん(ぼくも)が想像する観光地ガイドに期待する(予想する)ガイドとは一味違うものではないと、興味が持てません。ここに、「こんな『視点』で町を楽しんでます。」を紹介することで、ぼくの観光地『浅草』を楽しみかたを垣間見て欲しいと思います。*****今回の掲載写真が鍵です。左: 今日撮影。雷門から宝蔵門を望む右: 歌川広重 「江戸名所図会 浅草金龍山」安政3(1856)年雷門は広重が描いた9年後に消失してしまうのだが...その話はまたこんど。浅草寺と言えば雷門。この雷門から望む風景が江戸っ子なら、版画のタイトルを見なくても誰でも知っているほどの名所だったわけです。そんな名所を昔の江戸の人々がどんな視線で見ていたかを、現在の土地を歩きながら一緒に追体験してみませんか? というのが、ぼくのガイド:DownToTokyoのガイドです。実は、この広重の絵と現在では見える風景が数点違います。150年も昔のこと。違って当たり前。さる2017年11月4日に仲見世の家賃来年から16倍と話題になった仲見世の雰囲気が150年前には違いますね。また、この広重の浮世絵だけではなく、多くの浮世絵に残された浅草寺の五重塔は現在とは異なる場所に描かれているのも注目です。*****この左右の写真、見比べてみても、同じ場所で撮影したとは説明されなければ、わかりにくいですよね。提灯の向こうに見えるはずの宝蔵門が小さい上に仲見世の飾りで見えにくい。そこで、僕のオススメは、第一回目:開設で使用した写真の撮影ボイントです。写真と絵画(版画)。広重の写実美。また北斎の構成の妙。写真では表現できないデフォルメや色使いの工夫も面白いポイントだと思うのです。こんな調子で一箇所ずつガイドしていたら、朝から初めて日が暮れちゃうんじゃないかと思い、コースも悩みの種です。ガイド(ブック)なら・・・雷門の正式名称知っていますか? (風雷神門)この雷門は昭和35年に再建されました。寄進者は?(松下幸之助)では、みなさん記念撮影 パチリ✨それはそれでよし(続く)

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  • 29Jan
    • 開設: 身近な東京をより楽しむ街あるきガイド DownToTokyo

      東京ってどんなイメージでしょうか?都市のイメージもあれば、奥多摩の山々、さらには2011年に世界遺産に登録された小笠原諸島も東京。東京を旅行した人だけではなく、住んだ経験がある人にとっても、東京のイメージは実際に足を運んで交流した場によって異なりますね。ぼくはそんな東京の世界的な観光地浅草で育ちました。恐らく東京に来たことがある人なら、一度は雷門で写真撮影をした経験があることでしょう。東京に観光経験がある外国人ならば8割ぐらいは浅草に来るのでは?と思うほどの圧倒的知名度です。そんな誰でも知っている浅草の周辺をまち歩き観光ガイドしようと思いたったのは2017年春の事。いくつかの国際交流イベントで友人になった外国からの東京在住者に「観光ガイドブックに掲載されていない」ことがらを紹介して一緒にたのしみたいというのが発端でした。これから実際にまだお会いしたことがない方々に向けて、ぼくが観光ガイドをはじめる準備段階からこのブログを開設します。バスツアー、人力車ツアーはじめ観光ガイドならばそれこそ星の数ほどいますし、勤務・住んでいる親戚・友人もお知り合いにいるはずです。そこで、ぼくのツアーは「東京在住半年以上、一度ならず数回、浅草に来たことがある。」かたに向けた観光ガイドと思っています。ぼく自身が、歴史・芸術・民族・言語・飲み歩き・食べ歩きが好き。ずっとこの土地に生まれ育った方には及びませんが、違う土地や文化でも生活したことから得られる視点をみなさんと共有してみたいです。ただ、「東京ガイドブックに掲載されている以上」というと、その深掘り具合の程度が難しい。そこで、知らないこと、まだ、学んでいないことは正直にお伝えしますので、ご容赦ください。それでは、長いお付き合いができますことを祈って。写真:浅草寺宝蔵門から本堂を望む 1月23日(大雪の翌日)

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浅草・上野界隈で育つ。子供の頃目にしていた現在の町の地図の上に、地場産業の地図や、文化・歴史の目に見...

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