DownToTokyoのブログ
  • 23Sep
    • #38 (追記)育った町のむかし風景とは③〜DownToTokyo

      *2018.10.1(追記・改定)初出の際に、「竹屋の渡しの女将の美声」エピソードについて出典不明記事が多く残念と書きましたが、現在私の知る範囲での出典を記して記載内容に変更を加えました。みなさんこんにちは。いつの間にやら書き始めたら3話ものになってしまいました。#37で、橋場には、今で言えば官営経済特区のような工場地帯があり、また旧藩主・貴族・資産家の別荘が立ち並んでいたと書きました。となれば、料亭などもあるわけで、これは、歌川広重が描いた既掲載2作にはボカされていた今戸橋の右側たもとにあった船宿。(歌川広重 江戸高名会亭尽 今戸橋の図 玉屋)そして、橋場にも同じ江戸高名会亭図より。(歌川広重 江戸高名会亭尽 隅田川橋場渡し図)歌川広重は、シリーズ物が好きだったようで、この「江戸高名会亭尽」はそれこそ有名・著名な料亭を描いたものを編集あつめた画集。向島、両国、柳橋、雷門と、浅草近辺の絵も、また深川不動、雑司ヶ谷などそれ以外も多くありますが、ご興味のある方は、調べてみるのも楽しいですよ。前回、今戸の北側に隣接する橋場に住んでいた著名人を紹介しましたが、今戸の著名人を明治に刊行された『東京名所図会 浅草区之部』で見つけたので下記します。『同町は。従来今戸焼を以て名産とし。今に至り之を製し之を鬻(ひさ)ぐもの尠(すくな)からず。又其の境梢間静なるを以て特に居を卜するもの多し。子爵 大河内輝耕 (父大河内輝声 上野国高崎藩藩主子爵)細川興嗣 (父細川興貫 常陸谷田部藩主子爵)荒木竹翁 同 古童(琴古流荒木宗家〜尺八) 中居建造 (銀行頭取)神木、関戸、伊藤、近藤、今井、徳永、大瀧などの諸氏の邸宅小津製糸所阿部織物工場などあり。浅草今戸は浅草弾左衛門の支配地に隣接しており維新後、弾直樹と名乗った後兵部省から受託した軍靴製靴業を起こしたが、現在の今戸地区のように皮革産業の生産拠点ではなかったことがわかる。面白い、倒産した弾直樹の製靴会社は以降経営が三井組(三井銀行)になるとか、この辺りの身分制度ならびに特権廃止とそれに群がる元貴族・武士・商人たちは世知辛い江戸幕府崩壊後の社会情勢を表すのだろうが、この話は、なにより徳川幕府が施行した身分制度という原点に触れていないので、ずっとあとにする。話はもとに戻って。今回相当数、今戸橋場を扱う広重の浮世絵を掲載しました。ふと考えてみると、これほどこの地域の浮世絵が存在している、現存しているというのは、明確に一つのことを表しています。それは、この土地を題材としたものが「売れる=売れた」ということです。浮世絵は、そもそも一点物の美術品ではなく量販目的のポスターのようなものでしょう。江戸を代表する記憶のお土産にもしたでしょうし、家でも飾ったかもしれません。「絵に描かれた風景」を見ても、また逆に、「町の名前」を聞いても、「あ〜あそこね」とイメージが浮かぶ場所ともいえるくらいでなければ、そもそも大量には売れないし、製作販売しても商業的に旨味もない。事実、多くの浮世絵の題材は、現在でも誰でも知っている場所だらけです。そんな中に、今戸と橋場が混じっているわけですから困惑です。そんな江戸時代と現代に、大きなギャップがある町の「どんな」町だったのかをはじめて紹介してくれた本が、堀切直人著『浅草 江戸明治編』です。以下は、特別の記載がない限り、「」はこの本からの引用です。「篠田鉱造は『幕末百話』(昭和4年)の「今戸の寮」の冒頭で、明治初期までの今戸、橋場について、そして今戸の隅田川沿いに数多く建つ寮(別荘)について、次のように語っている。「今戸橋場といえば、当今でいう大磯、茅ヶ崎、逗子、葉山といったふうに、江戸時代の別荘地である。病気の療養、家族の遊山、火事の控家、大名や町人がくだけて遊ぶところといったふうであった。』日帰りで遊びに行く距離のぎりぎりの観光地。できれば数日ゆっくりしたい的な場所ですね。「幕末に日本橋小網町に生まれ、十五歳から七、八年間、今戸のある寮で女中奉公をしていた一老女の口から、明治初年の「今戸の寮」の生活を詳しく聞くことができた。」という、その内容を以下に長くなるが抜粋する。「すべての寮が前にとうとうと幾世変わらぬ隅田川を控え、流れを棹させば、すぐ花の向島、また吉原田圃には白鷺が餌をあさって、西に富士、東に筑波をまざまざと眺め、江戸の風流、名所古蹟で鼻をつく頃おいです。寮の交通というとたいてい船ですから、女中までが買い物をすら浜町川岸へ船を漕がせていくんです、お蔵前の松のすし、元浜町の八ツ橋だんごをよく買いに行くのも船、言問のおだんご、長命寺の桜餅を買いにいくにも船、小梅の小倉庵へもお汁粉を食べに行くにもみな船です。(後略)」この後、両国の花火、綾瀬の雪見など寮の年中遊び行事が続く。隅田川の浮世絵に猪牙船だけではなく屋根付き船、屋形船が幾艘も描かれたのには、これら別荘地の舟も多く描きこまれていたのが用意に想像できるほどに、日常の足だったのがわかる。「寮の女中で一人前と言われるには、竹屋の渡船を呼ぶ声(略)を心得ぬといけないので、たとえば御新造様にお供して向島へ秋の七草を見物に行く時、今日なら自動車というところを、その頃は竹屋の船宿から別仕立ての舟で向うの土堤へ渡してもらい、船を戻してさて終日遊んで、いざお帰りとなって向島の土堤へ来ると、『竹屋ァ』と船頭を呼ぶのに、無暗に胴間声を出して呼ぶなどは新米の女中と見くびられるんです。『竹屋ァ』とか『吉田屋ァ』とか、声を清く、水の上をすべらして呼び、先方からおおいと返事をとるんです。こうした清元か歌沢のような声を出すようになると、寮で一人前の女中に数えられ、『あれは三谷のおまささんだ』とか『どこの誰さんだとか評判されたもんです。 秋の夕暮、この船頭を呼ぶ美い声が、隅田川の夕潮をすべっていく情調は、今思い出してもよい心持ちがしてなりません。これを寮の女中はみんな稽古したものです。」僕は、今回、前節の文を特に読んでもらいたくて、この「むかし風景シリーズ3話」を書きはじめたのです。3行ほどの余白は到底たりない情緒豊かな風情です。竹屋の渡しといえば、前回の「むかし風景②」で掲載した切絵図の「目」の場所にあった渡し船。現在は、隅田公園の中に写真のように石碑と解説板があります。*竹屋の渡しといえば必ず引用される話が、向島の三囲神社にあった掛茶屋の女将の女将の美声です。豊島寛彰著『隅田川とその両岸(下巻)』(昭和39年)に「三囲の鳥居の下から山谷堀にかかっていた竹やの渡しは、掛茶屋「都鳥」にお美代というおかみがいて船客があると対岸の船宿「竹屋」に持前の美声で「竹やーあ」と声をかけた。その呼び声はいうに言われぬ味で、江戸人が美声に聞きほれた。それが渡しの呼び名になったが、この渡しの正式名称は「待乳の渡し」である。そして俗称が本名のように使われたことも江戸人の面目を伺う一つであろう。したがって、竹やの渡しの呼び名安政ごろからである」「美声の女将さん伝説」を風雅な寮の主たちが雇いの女中らに継がせたのか、または、この地に立ち寄った美文家がこの風情ある慣習(ならい)を掛茶屋の女将の話として美化したのか。この辺りの事実のほどは、風情として歴史の襞に隠されているのかもしれません。そんな風流の地と呼ばれた橋場・今戸地域。明治維新の近代化の中で、皮革産業の家内制手工業的な工業地帯になって現在に至るのですが、その地場産業自体も、時代の流れとともに皮革から人工皮革であったり、国内生産から海外委託生産だの諸事情で右肩下がり傾向が10年20年単位で続き体力を削がれていっています。ですが、そもそも、『風雅な地』と、その記憶は、まったく気配を留めていないと言い切ってしまえるほど、業界関係者以外は名前すら聞いたことのない町になってしまったのは何故なのでしょう。江戸時代から明治・大正期にかけて住んでいた人たちは、どこへ行ってしまったのでしょうか。(永井)荷風は、明治時代の吉原遊郭の変遷をたどった「里の今昔」(昭和10年)で、「明治四十三年八月の水害と、翌年四月の大火とは遊里とその周辺の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき巷に化せしむる階梯をつくった」と、書いている。それまで続いてきた土地の風景・生活を水害が押し流したあと、火災が町を焼き尽くしてしまい、この地域に住んでいた人々は三々五々土地を離れた人が多かった結果、土地の記憶が薄れてしまったということでしょう。それもこれも、徳川幕府が築いた江戸の水害防衛策が、橋場・今戸の南。日本堤(山谷堀)と向島は墨堤で守るというプラン。つまり、隅田川の氾濫は、二つの堤の北側は流されること前提だったからでしょう。残念ながら、墨堤で守るという墨田区側は南ははるか本所まで洪水にあってしまうわけですが。。。このあたりは、「東京・明治43年・洪水」と「東京都建設局の洪水ハザードマップ」を御覧ください。http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jigyo/river/chusho_seibi/index/menu03.html九州、中国、近畿、北海道で大規模な洪水災害が起きている去年、今年。今日、台風24号が迫るこの時は、なかなか悪い意味でタイムリーな話題で〆ます。

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  • 22Sep
    • #37 育った町のむかし風景とは②〜DownToTokyo

      今戸焼で前回#36は、まるまる一話になってしまったので、切り替えて第二部本編に。と、ノートをめくって、「さて 江戸幕府から窯が認可された話は・・」と、ノートをめくっていたら、昔話を控えておいたのをみつけたので、それからはじめます。(歌川広重 絵本江戸土産 第一遍 隅田川待乳山の夕景)『台東区むかしむかし』という台東区に伝わる昔話を集めた本より。「昔、浅草今戸に与八という馬子が住んでいました。毎朝馬の世話をしていた与八は、ある日まだ夜明けない頃、馬が騒ぐので、馬を見に行くと、馬小屋の片すみに黒いものがうずくまっていた。かっぱが、馬の尾に飛びつこうとしていて馬が鳴いていたのです。与八は、かっぱを脅すとかっぱは命乞いをしました。理由をきくと、「近頃魚がとれない。そこで土手をみてみると、人間が何やら糸をたらして魚をとっている。そこで、馬の毛を2・3本ほしい」と。与八はかわいそうに思い、かっぱに馬の毛を分けてやった。次の朝、かっぱがお礼にと、濡れた袋を置いて帰っていった。中には大判小判が入っていた。大金持ちになった与八は、今戸人形の焼き物を作ることにした。その焼き物を神棚に飾って拝むことにした。この話を村人が聞いて、与八の家で拝むようになったので、与八は焼き物を作り売ることにしました。」というお話。この昔話は、実は源義家が隅田川を渡る話を探していた時に偶然みつけたものです。面白いのでメモっておきました。で、こちら。これは郷土玩具研究所というブログの中に掲載されていた写真らしいのですが、現在はHP自体が閉鎖されていてこの写真だけが見ることができます。そう、これが今戸焼のかっぱです。昔話にあるとおり、「黒いものがうずくまって」いる通りで、しかも、なんとも言えない愛嬌があります。今戸焼の人形は、一般に「人形」といって想像する生き写しのように繊細な人形と違い、ころりとして素人のようで素人では得られない妙味があるのが特徴といえるでしょうか。話に聞くと、昔からの型があり、その型に入れて整形し着色してつくるようですが、古い型は元型をベースに作り直していくそうで、なにやら神社の遷宮のように、昔からのデザインを随時の陶工が模写して時代を引き継いでいたようです。これ江戸時代からこのままずっと今にいたるとしたら、昔話の雰囲気そのままですね。さて、本編に入りましょう。今戸橋場と、土地の名前を出してきましたが、位置関係がわからないと思いますので、江戸切絵図で紹介しましょう。(今戸・箕輪・浅草絵図 嘉永6(1853)年)1853年とは、浦賀沖にペリーが黒船4隻を率いて来港。老中首座阿部正弘がはじめて家臣である大名らに通商開港について下問したことから、『幕府の威光が地に落ちた』珍事が起きた年です。西郷どんでいうと12・3話くらいだったかなぁ。絵図に話を戻しましょう。画面右を上下に流れるのが隅田川。「あ」が浅草寺。よって右に架かる橋が、吾妻橋で、銀座線・浅草線・東武線の浅草駅  雷門が小さく書き込まれています。「い」が芝居町といわれた当時、江戸唯一の官許 歌舞伎・人形浄瑠璃芝居小屋と芝居関係者が住まわされた町。文字でわかりにくくなってしまったが、新吉原同様「郭」になっており出入り口は3箇所しかない。「い」の右肩にある▲が、待乳山聖天が鎮座する待乳山。待乳山の上から、「う」新吉原の先まで掘られているのが、山谷堀。▲から山谷堀を渡って隅田川の岸辺を⬛赤い網掛けで囲んだ場所が、今戸です。現在は、台東区今戸という名前で、もう少し広い範囲になっていますが、この切絵図でみると、今戸の町名は、「浅草今戸町」というのが正式名称ですね。まず、最初に掲載した歌川広重の『隅田川待乳山の夕景』は、この江戸切絵図と同様江戸時代末期に、切絵図上▲待乳山の脇の「目」の位置から眺めた風景です。画面左の小山が、▲待乳山。中央に、葦の間隙を割って、山谷堀に入る水路。画面右が、浅草今戸町になります。これは、同じ歌川広重が『東都名所 待乳山の図』として描いたもの。山谷堀に架かる橋が、今戸橋で、現在は山谷堀を暗渠にして公園にしてしまっているので、橋は橋柱だけ路端に残っています。今戸橋の左右は、川や水路で縦横無尽に繋がれた江戸や近郊から、新吉原や芝居町である猿若町に向かう人々が降りて食事・休憩や着替えなどに利用した船宿がならびました。この今戸橋から山谷堀を逆上り少し行った右岸に、江戸随一と言われた料亭八百膳がありました。この今戸そして、今戸の北にある橋場は、いままで何度も、このブログで登場した源頼朝が浮橋を渡したといわれる場所です。しかし、前回「#36 育った町のむかし風景とは①」で書いた通り、瓦窯がいくつも並んでいたと書きましたし、実際同一浮世絵師の歌川広重が書いている通りですので、地図上南北に長い浅草今戸町は、今戸橋の脇が船宿。そこから、瓦窯が続き、その先に、隣り合う橋場の官営の銭座と続いたのでしょう。そう、銭を鋳造するにも「火」は不可欠ですから、江戸時代はじめに火を扱うことを許された土地は、いつの頃からか必然、この土地になったのでしょう。この銭座の変遷は、台東区教育委員会発行『浅草橋場の商家』に詳しい。「寛政5(1793)年 砂糖製法所 文化3(1806)年 油絞所。同所は文政4(1821)年移転。 文政2(1819)年 銀座下吹所(つまり銭座)になる。砂糖製法所というのが面白い。寛政5年は11代家斉の時代だが、実は日本国内で砂糖が国内生産されるようになるのは、8代吉宗が、サトウキビ栽培と砂糖による藩の殖産興業に努めたのがはじめ。つまり、窯も、砂糖、油、銭も幕府の政策的な工場利用地といえるでしょう。現在でいうところの経済特区みたいだ。同書によると、橋場という土地についての歴史がわかる。江戸時代 旧奥州街道の渡河地点で百姓町屋を形成。正徳13(1713)年 町奉行支配の町並地になる。 奥州街道(奥州道中)はじめ江戸幕府が五街道を整備し日本橋起点にしたのは慶長9年(1604)年だから定住的に人が住みだして町なるのは8代吉宗の享保の改革の少し前ということになる。 この頃、法源寺(保元寺)の南側は(奥州)往還に面し、南側に高札場があり辻の札横丁といった。 つまり、ここが一番奥州街道を使用して江戸に入る人通りが多い場所だったわけだ。(いまは、幹線道が変わってしまい想像すら困難だ)さて、実は、この今戸の北の橋場は、いまは想像がしがたいが、以下のような土地だった。明治5(1872)年 東京府史料によると。華族5戸〜浅野家、岡部家、山内家、松平家、水野家。また、以下の名士の邸宅・別荘地があった。三条実美(太政大臣)〜NHK大河ドラマ『西郷どん』での野村万蔵さん神木治三郎(銀行家)有馬頼萬(旧久留米藩主)今井喜人(銀行頭取)青池家(旧札差)大谷和彦(ホテル)郷誠之助(貴族院議員)池田茂政(旧備前岡山藩主)古川考七(一銭蒸気といわれた隅田川汽船)松平慶永(旧越前福井藩主)小松宮彰仁親王錚々たる御仁のお館があったんです。これ現在の近隣住人の方々、どのくらいが知っておられるでしょうね。三条実美邸跡だけは、白鬚橋のたもとに明治天皇ご来臨の石碑が建っているので旧跡散策の方々の間でも有名ですが。つまり人は、時代とともに流動し、また、地層のように新しい生活と歴史が重なれば、現在と連続性は失われて記憶の中にもとどまらず、唯一、探し出そうとする人々の目によって書物から掘り出されるということでしょう。この別荘地・お館の話を次回、掲載して、僕が最初に興味を持った、「育った町のむかしの風景」を終わらせましょう。==========目にかけるこの地域の切絵図は、明治維新後、身分制度が撤廃された後も様々な理由や偏見にさらされた人々を守る等の目的で出版時の記載事項に昭和以降修正を加えたものを見る機会が多いですが、これは修正されていないものです。過去を現在の個人につなげてどうこう評するのは、愚の骨頂だと思っています。しかし、加えて、無知での批評や無視・忘却もまた愚かだと思っており、遡れるなかで「なぜ」「どのようにして」身分制度が作られ、定着し、また、その身分制度の中で施政者の都合よく属社会意識付けられていったのかを知ること。が肝要と思っています。

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  • 21Sep
    • #36 育った町のむかし風景とは①〜DownToTokyo

      室町期の本を読んでいると書きましたが、室町期の3本と、ほか1本は浅草(江戸明治期)の本を平行して読んでいます。今回は、僕が浅草・浅草寺周辺の歴史を調べ始める原点となったお話。僕の育った町は、浅草寺の北側、今戸という町。小学校は、浅草寺の裏(観音裏)でした。(歌川広重 名所江戸百景 墨田川橋場の波かわら窯)この浮世絵、橋場という名前ですが、実は、もう一つ広重の作品で同じ題材を今戸で扱っています。それが、絵本江戸土産の第6編〜今戸瓦窯です江戸時代、江戸の町は常に火災に悩まされていたことはご存知の通り。そんな江戸の町で、「火」を使う焼き物はご法度です。しかし同時に、それまで主要な屋根素材だった萱に比較して、瓦が耐火・延焼防止に有用ということから、江戸で唯一、火を使う窯を許可された土地が今戸・橋場だったそうです。(このネタの出典は、台東区教育委員会が編纂した地誌からだったと思いますが、書名を失念してしまいました。後日、調べた際には追補します)瓦は、屋根だけではなく築地塀にも使われたので、江戸中の瓦を焼くには相当数の窯があったと推測されるが、実際、上記の広重の「今戸瓦窯」にも「竃幾個が連なりて」と書かれていて、多くの窯から煙が立ち上るのが隅田川西岸に独特の風情を醸し出していたので、絵の題材として取り上げられていたのでした。この今戸という町。おそらく東京都民でも名前を聞いたことがある人は、ほんの一握りなのではないでしょうか。ところが今戸は現在とは違い、江戸時代から明治時代は、遊郭のある吉原や、芝居町といわれた猿若町へ江戸中から隅田川を使って繰り出していた当時、名前の知られた町(というか村)だったようです。江戸土産として参勤交代で江戸に来た諸藩の藩士が浅草寺で買って帰った土人形は今戸焼の人形でした。そうそう、昨今は恋愛成就の神社として今戸神社が女性のあいだでは訪れる人々が多いので、地名より神社名としては有名かもしれません。(歌川広重 浄瑠璃町繁花の図 右は、その拡大)今戸焼で特に有名なものが「招き猫」。「招き猫」発祥の地を前述の今戸神社が名乗っていますが、さて、実際のところはどうなのでしょう。実際に、「発祥の地」を名乗る豪徳寺と今戸神社で直接訪問、問い合わせた方のブログをみつけたので、下にリンクを張っておきます。こちらの方のブログもどうぞhttps://travel.spot-app.jp/tokyo_manekineko_chiptaso/焼き物の招き猫。神社が竃で焼くわけではないので「発祥の地」を名乗るのも変なのですが、先程HPを確認したら「招き猫 発祥の地」とは書いていませんでした。そう近隣に住んでいた老婆が作ったのです。「今戸焼発祥の地」の碑はいいよね。「沖田総司終焉の地」は今は調べていないので黙秘(^^)ところで、江戸土産・浅草今戸の焼き物 招き猫には、他の招き猫とは異なる特徴があり、それは現在でも縁起物として続いています。それは、先に掲げた広重の絵の中に書き込まれています。招き猫を販売している屋台に注目です。◯に〆のマーク。「まるじめ」と言われています。具体的には、こうなります招き猫のお尻に、◯〆のマークが入っているのです。これは、招いた福がお尻から出ていかないようにという印😆だそうで、まったく江戸っ子の洒落がきいてます。見たことないでしょ。江戸時代には、江戸唯一の幕府公認窯として隆盛した今戸焼も、明治維新後、幕府の認可制は、その他多くの不条理とともに、その不条理に付随した特権と同時になくなったのでしょう。現在、今戸焼は、今度で唯一無二の製造販売店を残すのみとなっています。小さなお店ですが、リンクを張っておきます。今でも製作販売しているので、浅草散策の際に一足、足を延ばして手に入れて見るのはいかがでしょう。面識はないのですが、小中学校の友人が近所に何人も住んでいたので馴染み深いお店です。http://a-round.info/2017autumn-cat-street/3100(注意:これは2017年の浅草エーラウンドからリンクを張りました。(白井さんの店はご自身のHPを持っていない御様子)(2018年の10月の開催日程は、エーラウンドのサイトからどうぞ)さて、地元の昔話を書いていたら、予想以上に長くなってしまったので、このあたりで続きは次回にいたします。また、どうぞお立ち寄りください。お待ち致しております。

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  • 21Aug
    • #35 中世 浅草の雰囲気を伝える歴史物語(古典文学〜後編)

      #34からの続きです。前回、伊勢物語・在原業平の有名な段から景色を想像しました。次に、この辺りが語られるのは、平安時代中期に菅原孝標女の著した『更級日記』です。菅原孝標女の孝標女とは、「名前は伝わらないが孝標の娘」という意味です。在原業平は、平城天皇の孫でしたが、菅原孝標女は菅原道真の5世孫と、これまた高貴な血筋。日記を書き起こしたのは後年といわれているが、父の上総の国府での任期終了前の寛仁4(1020)年13歳の時に隅田川を渡っている。では、早速 該当の文を拾ってみましょう。更級日記~竹芝寺~今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふときく野も、蘆、荻(おぎ)のみたかく生ひて、馬にのりて弓もたる末見えぬまで、たかく生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡のいしずゑなどあり。~足柄山~「野山、蘆おぎの中をわくるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐて、あすだ河といふ、在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。」更級日記では後年の回想録ということからわかるように、隅田川の所在地を武蔵と相模の境と記憶違いしているのがわかる。竹芝寺がどこにあったのかわからないが、恐らく新橋から品川に掛けて辺りの海岸沿いだろう。それにしても、この辺鄙さ感は半端ではない。馬に乗った上で弓の高さほどまで草が生い茂って先が見えないと言っている。江戸時代 浅草田圃に新吉原ができる前の、元吉原は、蘆(葦「あし」イネ科の多年草)が茂る野原だったので葦原(あしはら)といったのを好ましい名前に変えて吉原(よしわら)にしたと伝わるが、そのイメージは、生半可なもので、実際は2,3mの高さだったということですね。これでは官道や側道を離れたら簡単に行方不明になってしまいそうです。こんな状態の風景を僕が見たことがあるわけもなく、なんとなく想像するに、こんな雰囲気でしょうかねと、ここまでが、平安時代。次に、鎌倉時代に書かれた『とはずがたり』という後深草院に使えた二条という女官が書いた自伝。これまた、高貴な血筋で彼女の父は久我雅忠という正二位大納言という官職についていた大貴族。二条は後深草院のもとを離れた後、尼となり諸国を歩いた際に、浅草寺立ち寄っている。ここは、原文を参照ください。(とはずがたり全釈 風万書房刊より)彼女は、馬に乗った男が見えないほどの高さの草が生える野原を3日も掻き分けようやく浅草寺についたと書いている。脇道に行くと宿などもありと書いているので、ちいさな宿場のような体裁だったのだろう。それにしても、面白いのは、浅草寺の寺域の描写だ。そう、木がないのだ。源頼朝の父、義朝は、浅草寺で火災が起きた際に、観音様が槐の木に飛び移って避難したことから奇跡をきき、その槐の木から仏像を掘り起こして奉納した逸話が残る。実際に、その仏像も浅草寺に現在も伝わる。しかし、彼女が立ち寄った時には、木は全くといっていいほど生えていない様子が書き残されている。この時、浅草寺にお堂があったことから、正応三(1290)年より遠くない時期に火災が起きて木は失われてしまったが、お堂は再建されたのかもしれない。1290年は、2度めの元寇が遭った頃からほど近い年。北条執権時代の鎌倉幕府の時代だ。この時、彼女は、実は隅田川も訪れている。ここは、理解をしやすい通訳をよんでみてください。(とはずがたり 128段 都鳥の跡だに)隅田川は、地元のひとは、須田の橋。つまり、土地のひとは隅田川は上品な名前だというが、地元の呼び名は書いていない。すだ川になるはずだ。そして、思い返してほしい。一つ前の更級日記で、業平の歌が出ていたのでスルーしたが、川の名前は「あすだ河」と書かれていたのを。隅田川は、都(みやこ)の人が、地元の川の名前を好ましい名前に変えた名前なのだろうか。もう一つ、着眼は、須田の橋だ。源頼朝が挙兵したさいに、掛けた浮橋の名残をここで見ることができる。しかも、京都の清水や祇園に掛かる橋ほど大きいという。大きい橋は、当然、橋を架けるにも小さい橋より架橋費も維持費も掛かる。つまり、維持費の莫大に掛かる大きな橋を掛け置きするほど、この橋は鎌倉幕府にとって有用性が高い橋だということがわかる。それも京で朝廷が架ける橋並にだ。源頼朝の幕府設立から100年。須田の橋。つまり、現在の橋場の地名が残る浅草寺の北側の橋は、当時以前、重要な軍事渡河点だったと言えるのだろう。以上が、鎌倉時代あたりの浅草・浅草寺いや、江戸のむかしの風景かもしれません。このあとは、北条執権の幕府。室町幕府下の江戸の戦国期になるのですが、ここは、すごく歴史が難しい。しばらく、勉強期間を必要とします。なので、「室町時代編」は、暫くしてまとまってから書こうと思います。南北朝時代や戦国時代は、歴史教科書では西国中心で、東国は出てこないので、江戸城を作った太田道灌って誰よ、あたりから関連性が(??)顔になってしまうので。「室町時代編」を書くまでは、もう少し軽い話のネタを探して書こうと思います。では、また次回に。

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  • 20Aug
    • #34 中世 浅草の雰囲気を伝える歴史物語 (古典文学〜前編)

      長々と更新間隔が空いてしまい、もしブログの更新をお待ちの方がいらしたら、申し訳ありません。ネタを仕入れるのに物理的な日数がかかりまして毎度おまたせいたします。更新忘れていませんので、また、お付き合いいただければ幸いです。さて華やかで賑やかな江戸時代の浅草・浅草寺周辺。現在、その気分は歌川(安藤)広重や葛飾北斎などの浮世絵で身近に感じられます。はたして、その江戸の雰囲気は江戸開府以前も同じようなものだったのでしょうか。そんな発端から、#33まで奈良時代から鎌倉時代までの浅草・浅草寺周辺を著名人や戦乱にからめて調べてみました。今回は、『歴史』の授業から、『古典』の授業に切り替えて、著名な物語で出てくる江戸幕府以前の江戸というより豊島郡浅草周辺を取り上げてみます。まず平安時代初期に、在原業平をモデルにしたと考えられている伊勢物語があります。東京の台東区 墨田区にお住まいの方には、「はいはい、業平ね、ことといね」という位の知名度がある御方。在五中将とも呼ばれる在原業平は実在の人物ですが、伊勢物語で語れることが事実かどうかはわからないそうです。で、その事実かどうかわからないという、その「はいはい、業平ね、ことといね」が、今回の往時の浅草辺りを表した原文です。(伊勢物語絵巻 第9段8 隅田川, 斎宮歴史博物館HPより)伊勢物語 東下り 第九段 第三部なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国とのなかに、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりに群れゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわび合へるに、渡し守。「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ「これなん都鳥」といふを聞きて、「名にしおはばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。現代語訳「都」という名を持っているのなら、(都の事情に詳しいであろうから)さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと。これが、かの有名な歌と、その前後です。なんとも物悲しい。風景が想像できましたでしょうか。在原業平が、この歌を詠んだところが、隅田川の渡しのあったこのあたりだろう、ということでなのか、どうなのか、観光名所スカイツリーの近くには、江戸時代 業平天神があったそうだ。その天神の近くに掛けた橋を業平橋。また、現在、東武線の『スカイツリー駅』はスカイツリーができる前までは、『業平橋駅』だった。(むかし写した建設中のスカイツリー いまやこれも珍しい写真)墨田区には、この歌から命名した老舗のお団子屋『言問団子』がある。台東区民には、恐らく、隅田川に掛かる橋『言問橋』と、言問橋から入谷・鶯谷を通って本郷に続く『言問通り』が断然馴染み深いはず。ちなみに、このブログの前の回から読んでくださっている方はお気付きの通り、在原業平が隅田川を渡った渡しは、当然、京との官道である『橋場の渡し』なので、言問橋のあった辺りではなく、もう2つ北の白鬚橋のあたりなのだが、徐々に土地名は移動したようで(^^)というのも、言問橋と言問通りは関東大震災の復興事業で昭和3にできた言問橋に由来しているが、その言問という地名は、明治のはじめに団子屋をはじめた初代が在原業平のこの歌から命名した『言問団子』が人気店になり言問ヶ丘と呼ばれた(これはWIKIPEDIAより)からだそうだ。というわけで、伊勢物語の平安時代初期から遥か時代が近代にまでくだってからの地名なわけで、当時の都市伝説が名前を生んだようなものでしょう。つまり、もう一度、伊勢物語のあたり読んでみて想像してください。なんにもない。侘びしい川辺です。(長くなるので、次回に続く)

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  • 08Aug
    • #33 坂東札所第十三番 浅草寺 では第一番札所とは・・・DownToTokyo

      「次回は、、、、、鎌倉時代後期の浅草を描いた日記か、それとも、坂東札所第十三番か。」と書いたのが、『#29 ご本尊 聖観音菩薩と船乗りの信仰』の結びでした。季節柄、隅田川の花火大会を取り上げたら、『次』掲載が伸び伸びになってしまっていました。今回は、鎌倉時代~源頼朝編を掲載した流れに従って、札所十三番を先に取り上げます。【坂東三十三観音霊場】雷門の手前の広場に『金龍山浅草寺』と書かれた石柱が立っていますが、その側面に『坂東札所第十三番』と彫られていることにお気づきでしょうか?(浅草寺 石塔)現在、雷門が仲見世の前に堂々と建っているので、雷門の眼の前に立つと、一目散に雷門と巨大な挑灯に目と心を奪われてしまいますが、どうやら江戸っ子(浅草っ子?下町っ子?)は、どうもこの『坂東札所十三番』というのが気になって気になってしょうがなかったようなんです。「江戸自慢十三番がこれくらい」という江戸時代の古川柳があるそうな。(よく引き合いに出されているが、出典がどれなのかわからないので、呉陵軒可有『柳多留』を確認中なんだが、なんせ巻数が多くて難儀中)鎌倉時代で既に、大伽藍があった浅草寺。京が都とわかってはいるが、なんでも江戸が一番と思っていたことは想像に難くない。しかも坂東とくると、十三番の浅草寺がこの規模なんだったら、札所一番はさぞスゴいんでしょうなぁ。ってな気持ちにもなるでしょうね。はい!ここ。江戸時代から、みんなが気になっていた坂東三十三観音霊場 札所一番は、どこにある??それを今回はご紹介しましょう。それは、神奈川県鎌倉市にある杉本寺。通称 杉本観音です。読者の中に鎌倉を訪れた人はたくさんいるでしょうが、杉本観音をご存知。さらに、参拝したことが有る方どれほどいるでしょう・・・そんな僕も、両手両足では足りないほど鎌倉近辺に行っているのに、知らなかった。浅草寺が三十三番札所と知ってから、杉本寺を探していきました。(地図でいうとココ!)長谷寺、明月院、報国寺、銭洗弁天など僕らが観光でお参りするレベルではなく、鎌倉時代から国(現在の県)をまたいで観音様信仰巡礼をしたお寺。巡礼を制定した鎌倉時代、浅草寺が十三番であれほどの参拝者が、巡礼のため街道を行き来したのでしょう。きっと賑わっていたに違いありません。現在、鎌倉の代名詞、由比ヶ浜と鶴岡八幡宮へのアクセスは、地元の方以外、凡そJR鎌倉駅。その結果、JRと江ノ電に沿って観光化されているといえるでしょう。僕も、その通り観光だったり遊んだりしてました。しかし、実は、電車が通っていないところこそが、その土地で最も重要な場所なのを見落としていました。(ここ脱線するので、欄外に書きます)杉本観音は、鶴岡八幡宮の東(バス停で4つほど)にあります。(鎌倉幕府・大蔵御所跡に立つ小学校)この中間に、頼朝の邸宅で源氏将軍三代の幕府があった大蔵御所と、その奥に源頼朝の墓があります。(源頼朝の墓:白旗神社)NHK大河ドラマ(2018)『西郷どん』の主君 薩摩藩 島津斉彬・久光の祖先で鎌倉幕府の御家人であった島津家の祖 島津忠久は頼朝のご落胤とも島津家では伝えられていて、この石塔は、薩摩藩主 第25代島津重豪(斉彬は28代)によって造営されたもの。なお、同時に島津忠久の墓も右隣に建立されている。また、北条氏が滅び足利尊氏の室町時代になる鍵となった護良親王の幽閉地 鎌倉宮も中間地点にあります。このように由比ヶ浜~鎌倉駅~鶴岡八幡宮の喧騒とは離れた所に、重要な史跡が多く静かに佇んでいます。そんな鶴岡八幡宮の東に、一番札所 杉本観音はあります。(杉本寺 入り口)坂東三十三観音は、源平の戦乱で荒廃した坂東の地方を鎌倉幕府成立後、『西国三十三観音巡礼』になぞらえて成立したものと言われているが、いったいいつ誰が定めたかは、確証がないと、坂東三十三観音公式サイトが綴っている。http://www.bandou.gr.jp/index.phpその中で、いくつか面白い点が指摘されているのだが・・・1.源頼朝は、後白河法皇の四十九日を百僧法要したが、のちに三十三札所にはいる6ヶ所の寺から合計21名が参加した。もちろん第1番の杉本寺、13番の浅草寺を含まれる。2.神奈川県鎌倉市の一番杉本寺ではじまり、千葉県館山市の三十三番那古寺(安房)で終わるルートで、当時鎌倉の人にとって廻りやすいい順番になっている。つまり、依然鎌倉時代までは安房ー相模を結ぶ海上交通が発達していた。3.一都六県にまたがる巡礼地。東京都は浅草寺が唯一の札所。4.鎌倉時代に成立後、江戸時代も盛んに行われた巡礼だが、順路は変わっても札所は入れ替えがなかった。5.もっとも興味深いのは、鎌倉時代「浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音信仰が鼓吹されたのにも由るという。」そこには、教派の変遷もあるのだ。さて、参道の坂を登って仁王門をくぐると・・・(苔の階段(通行禁止)本堂に至る)すごい、石が磨り減るほど巡礼者がこの階段を上り下りしたことが偲ばれる。階段を左に迂回して本堂へ向かうと。。。。(杉本寺本堂)これが、坂東札所第一番鎌倉最古仏地天台宗大蔵山杉本寺。天平6(734)年光明皇后の御願により大臣藤原房前と行基に命じ堂宇を建立、行基が自ら彫った十一面観音を安置している。浅草寺が十三番なら、一番の杉本観音の本堂はなんと、茅葺き屋根の歴史を重み伝える本堂でした。杉本寺の観音様はこれまた非常に霊験あらたかな観音様で、その縁起がとてもおもしろいので、杉本寺で頂いた縁起から抜粋します。「寺伝は文治5(1189)年11月23日の夜、隣家より火災起り、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと伝えられている。」この言い伝え、浅草寺の観音様と似てますよね。(源頼朝の父 義朝が浅草寺に奉納した観音菩薩像の言い伝えに関連)縁起を続けます。「其の後、建久2(1191)年9月18日に源頼朝公御堂再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ち賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者は必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。」「時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈顔を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟により落馬などの利罪も止むという。依って、頼朝時代より秘仏とされたのである」というわけで、杉本観音も秘仏なのでした。というか、あの茅葺屋根の本堂の暗さと静けさは、カミサマ宿ってます。ひとの祈りの塊みたい。さて、最後になりますが、この坂東三十三観音。鎌倉の長谷寺も、その一つです。そして、もう一箇所、別の県ではありますが、有数の知名度と観光地であるところも、札所。それは、栃木県日光市 中禅寺。それにしても、中禅寺湖って、中禅寺の名前をもっているのはこれまた不思議。湖より寺の方が後から、できたろうに、なぜに中禅寺湖・・・・って、また引っ掛かっていると、アタマが寄り道しはじめるので、今回はココまで。浅草・浅草寺の話題ブログを読んでいて、古都 鎌倉の歴史と観光名所になるとは思わなかったでしょうね。西郷隆盛が心酔した藩主島津斉彬公の祖先が、鎌倉武士だったとか。これからも、私のアタマの中の自由飛躍にどうぞお付き合いください。(^^)脱線:欄外実は、電車が通っていないところこそが、その土地で最も重要な場所なのを見落としていました。みなさん、ご出身やご実家はどこでしょうか。また、よく旅行になどいかれますか?僕は、出張で日本各地の都市をよく訪問しました。その時に、発見した一つが、県庁所在地の鉄道駅は、街の中心から外れた所にあるということです。街の中心というと、多くは城または大きな寺です。この城と寺の周りには鉄道開設以前から、町が存在し、道路が隣町とを結んでいたため、鉄道敷設は当初求められていなかったのです。

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  • 27Jul
    • #32 夏の風物詩 隅田川花火大会がやってくる 後編 DownToTokyo

      「たまやぁ~」「かぎやぁ~」の掛け声。耳で覚えた花火の掛け声といえば、この二つ。歌舞伎の「ん成田屋っ!」みたいなもんで、聞き知っちゃいるけれど、そもそも何なの?は知らないのが子どもの知識。大人になったら「玉屋と鍵屋は、花火屋の名前」くらいのことは、知りましたが。せっかくここまでお越しの読者さんには、もうちょっと先まで書きましょう。#31で、花火に関するお触れがでたんでしたね以下『浅草謎解き散歩』に詳しい。「慶安元(1648)年をはじめ、江戸町触(まちぶれ)には次のような内容で花火の制限が記されている。「町なかでの打ち上げ花火は禁止。といっても、大川筋(隅田川)や海辺での打ち上げなら構わない。但し、仕掛け花火や、流星という花火はどこであっても一切禁止」。これに従って、打ち上げ花火は江戸前期から隅田川筋で行われていた。こんな前提下地があって、享保18(1733)年吉宗の水神祭と川施餓鬼会だ。隅田川の花火は吉宗が最初ではないわけだが。。。この年以降(謎解き散歩は続ける)同時にそれまで禁止されていた流星や仕掛け花火なども、両国では許可されたようだ。この年以降五月二十八日の「川開き」から八月二十八日の「川じまい」の三ヶ月間は両国周辺の料理屋や舟遊びの客が競って毎日のように花火を打ち上げさせ、それが夏の風物詩となっていた。その演出を担当したのが、両国橋上流側の玉屋と下流側の鍵屋。花火船が陣取って、芸者を上げて騒いでいる納涼船の客が、「花火◎発、立て続けに頼むよ」とお金を渡すと、ドーン、ドーン!料理屋の客からも注文が入れば、またドーンと打ち上げる。(浅草謎解き散歩」川上千尋、荒井修・塩入亮乗編集)#31で掲載した、有名な歌川広重の両国の花火の浮世絵は、そんな雰囲気の中を表していたのですね。あの仄暗い画面では、あの表現された花火が、上流の玉屋なのか、下流の鍵屋なのかわかりません。おっとその前に、このブログを読んでくださっている方々に、ここで話題の東京の台東区・墨田区の地図を用意しました。(Google Mapを利用)画面中央に流れる川が隅田川。江戸幕府開府当時は、この隅田川が江戸の防衛ラインでした。そしてこのブログでこれまでずっと説明してきたとおり、隅田川の左(西)が武蔵国で、右(東側)が下総国です。現在の隅田川花火大会は、画面中央の浅草を中心に隅田川の南北2ヶ所で実施されます。そして、いま私が説明している両国川開き花火は、隅田川下流 両国の下に掛かる両国橋(⇔)のあたりで開催されていたということです。今も昔も、隅田川で花火を見ようという人出はとんでもないものだったのが、浮世絵を見るとよくわかります。江戸幕府は、遊郭・芝居小屋と同様、幕府公認というと花火すら一箇所しか認めない仕組みだったんですね。そりゃ大騒ぎです。(江戸両国橋夕涼大花火之図 歌川国虎 文化12(1815)から天保13(1842)これは、どこから見た構図か?というと、手前が浅草橋御門へつながる広小路。と、いうのは、左上に見える対岸に小さな橋が見えている。この橋は、御蔵橋。橋の奥には御竹蔵があり、橋の左右は大名屋敷が上流まで続きます。この御蔵橋があるあたりが、現在のJR両国駅・旧安田庭園です。『大坂下り女』と幟が上がっているのが面白い。葭簀(よしず)張りの水茶屋は現代のキャバクラみたいに思えてくる。(三都涼之図東都両国ばし夏景色 歌川貞秀)これは、先に上げた国虎の図と同じで、左が上流、右が下流。川の向こうが両国。なので、川下で花火があがっているのが見える。これを安政5年の大江戸図を、同じ角度で掲載すると下の写真になります。(安政5年大江戸図の拡大)安政5年といえば、幕末の差し迫った頃「井伊直弼の安政の大獄」の年。上(西)、左(北〜隅田川上流〜浅草方面)上記二つの浮世絵と、この切絵図の拡大を見ると、武蔵国側両国橋のたもとが広小路(火除け地)になっていて、広場ができている特に右側岸に、葭簀で仕切った屋台が所狭しとならんで商売していたのがわかる。橋を渡った向こう側に赤い囲いで回向院と明示されていますという具合です。さて、最後に締めくくりとして、江戸初期、両国の花火の雰囲気を味わってみましょう。江戸時代の歴史や地理を調べる際に必ず出てくる文献に『紫の一本(ひともと)』があります。天和年間(1680)年頃に制作された草紙で、この本の中に、両国橋での花火が記述してあるところをみつけたので、抜き出してみましょう。これは、享保18(1733)年に吉宗の両国川開き花火が行われた約50年前の記述です。『紫の一本』巻三 神田一丸より抜粋 (原文)「(前略)この船ばかりにあればこそ、暮れ時分になると、角田川、牛島、金龍山、駒形堂、ここかしこの下屋敷、町屋町屋の茶屋、屋敷に掛け置きたる舟ども、水のおもても見えぬまでに漕ぎ下せば、両国橋の上の、御蔵前の辺りより、下は三股を切り、深川口、新川口をまん中にて、掛け並べたる舟どもは、幾千万と云う数知らず。殊更以て延宝巳の年より伊勢踊りはやり、老いたるも若きも、能きもあしきも、坊主も女も浮き立って踊る頃なれば、鼓太鼓で踊るもあり、琴三味線にて囃すもあり、尺八胡弓で合はすもあり。女踊り、男踊り、武士踊り、町人踊り、引き塩に任せて流し船にて踊るもあり。この屋形船の外に、踊り見物とて出づる船もあり、月を見んとて出づるもあり、涼に出づるもの船もあり。餅売り、酒売り、饅頭売り、田楽煮売り、肴売り、冷水、冷麦、冷し瓜、蕎麦切りめせといふもあり。(浮世絵の後に続く)(東都名所両国橋夕涼全図 歌川(一柳斎)広重)「花火船を呼びかけて、一艘切りにたてさする。枝垂れ柳に大桜、天下太平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に車火や、これにて仕出しの大からくり、挑灯(ちょうちん)、立笠御覧ぜよ。火うつりのあぢはひは仕たり。「天下一、あつやあ、あつちやあ」と誉むるもあり。ここかしこにて立て上ぐれば、ただ日中のごとくなるに、玉火の出づる筒音、流星の上がる響き、人のわめく声にて、心静かに漕ぐ舟なし。天竺震旦はそは知らず、日本開闢よりこのかた、いまこの御世ほど治まりて、国土安穏、民安く愁ひをしらぬ時なるに、殊更以て舟遊山万民の分心気飲、病人の独参湯、狭き長屋の二階住み、暗き裏屋の小棚借りも、命の洗濯これなるべし。(以下略)」長い原文引用でしたが、現代語訳する必要がないほど読みやすく、その活気や大騒ぎっぷりが伝わってきて本当に舟の上でどんちゃん騒ぎしてる気になります。この『紫の一本』を読むと、隅田川の花火が、吉宗の両国川開きの花火20発内外が、その起源であるという表現そのものがどうなのかと、ことさら思いませんか?(隅田川叢誌続編 弓掛弓雄編集)此の本は、水神祭の隅田川神社の弓掛弓雄宮司が明治25年に著した『隅田川叢誌』の続編で明治43年に出版されている。この中に、P23に「両国の花火」と一項目を設けている。それがこちら。出てきましたね『紫の一もと』(^^)両国橋が架橋される前から花火は打ち上げられていて、花火を打ち上げ始めたのは蔵前の札差(ふださし)で、「其後(そのご)両国の川開きと唱へ」って書いてありますね。隅田川の花火大会にしろ、両国川開き花火にしろ、「吉宗がはじめた」と言ったほうが、カッコいいし、権威もあるし。「隅田川の花火を始めたのが吉宗」なのではなく、「川施餓鬼会を水神祭に併せておこなった吉宗」で、花火は川開きから川じまいまでずっとあがってたわけで、花火はついでの出来事。大昔のことだから別に、あらためて調べる物好きもいないから、キャッチコピーを鵜呑みにしちゃったのが今日(こんにち)ってところでしょうか(^^)うなぎが痩せて味が落ちるから商売に困った夏のうなぎ屋に頼まれて平賀源内が作ったキャッチコピー『土用のうなぎ』みたいなもんだね。うなぎは、秋から冬にかけた食べたほうが身が太って美味しい。僕は、マーケティングが好きだから、こういう話は大好き。隅田川の花火大会 無事開催されることを祈りましょう。いや、それ以上に、あの台風、進路予想が、東京から西に逆走して、よりによって瀬戸内海を東から西に逆走する予測とか。山陽地方を傷めつけないであげてほしい。観音様おねがい。

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  • 26Jul
  • 25Jul
    • #31 夏の風物詩 隅田川花火大会がやってくる 前編 DownToTokyo

      早いもので隅田川花火大会が今週末に迫ってきました。なんとついでに、台風まで連れてきたようでこのまま台風進路予想図だと、開催日に正に東京上陸。2013年のことらしいが、開始30分で中止になってしまって以来の。。。なんて言ってるとそのとおりになりかねないので、こんな時には、観音様にお願いでしょう。隅田川花火大会の起源は案外あたらしくて、昭和53(1978)年に、しばらく中止されていた『両国の川開き花火』の場所を上流に移して再開したのがはじまり。花火大会の概要と起源については、各所に書かれているので、大会公式HPを以下に貼り付けるので、参照ください。https://www.sumidagawa-hanabi.com/about/index.html(隅田川花火大会公式ウェブサイト)この両国川開きは、享保の大飢饉やそれに続く疫病の流行などで多くの人の命が失われたことから、飢饉の翌年である享保18(1733)年に八代将軍吉宗が隅田川の川開きに合わせて水神祭を催し川施餓鬼をしたという。この表現、「吉宗が〜」以降の表現が書いている人によって非常に曖昧で、よくわからない。(江戸名所百景 両国花火 歌川広重)いつか調べると思うが、先に僕自身の予測を立てると、こういうことだ。「現在隅田川神社になっている水神社(以下 水神社と記)は、微高地に建っており、川が増水・氾濫しても沈まなかった土地(浮島とよばれた)にあったことから漁業や海運業者から水難事故除けの神として厚い信仰をうけていた。吉宗の幕府は、この水神社の祭りを川開きが行われる5月28日にすることにした。これは、従来行われていたお祭りの日を此の日に指定したという意味だろう。また、水神祭(八百万の神の祭り)と、仏教の施餓鬼会は別のものなので、水難事故除けや豊漁を祈る水神祭に、飢えや渇きで亡くなった人の霊を鎮魂する施餓鬼の川ヴァージョンを併せて開催したというのが、転記・転記を繰り返した結果、曖昧になった原意ではないかと推測する。」なぜ、こう考えたのかというと、水神祭を行った水神社は、両国近辺にはないからだ。両国に有るのは、回向院であって、水神社は回向院から隅田川沿いに5Km上流に遡った白鬚橋のさらに先にある。広重が浮世絵で、窓から望んだ川向うにある鄙びた森が、水神の森だ。ちなみにこの窓の料亭のある場所 真崎というのは現在の白鬚橋のたもと石濱神社のあるあたりになる(江戸名所百景 真崎辺より水神の森内川関谷の里を見る図 歌川広重)回向院は、4代将軍家綱の時代、明暦3(1657)年に起きた明暦の大火(別名:振袖火事)で亡くなった10万人といわれる死者を弔う大法要を幕府が執り行った際に、土地を与え建てたお堂を起源とするお寺だ。10万人という大量の死者を出した理由は、隅田川が江戸の防衛の拠点だったことから上流の千住大橋より川下には橋の建設を許可しなかったことから、火事に追われた江戸庶民は川に阻まれ焼死・溺死したのだった。つまり、無縁有縁に関わらず無念のうちに亡くなった人々を幕府が供養する意図に適したお寺が正に、両国の回向院ということになる。話をもどそう。当初の花火大会は、大会公式HPにもあるように20発内外だったらしく、当時この打ち上げ花火を請け負った『鍵屋』がなんと現存して株式会社宗家花火鍵屋として、花火の歴史を紐解いてくださっている。http://www.souke-kagiya.co.jp/1_history/history.htmlでは、それ以前には花火大会がなかったのか?というと、そもそも大会という概念がない訳で(^^)花火は、そこかしこでなされていたようだ。花火を最初に見たのは家康と言われるくらい、実は鉄砲伝来から、そう遠い話ではなく当初は手筒花火といって打ち上げ式ではなく、人が抱えながら花火を吹き上げる方式のものだったらしい。(これたまたま、先日友人を訪ねに浜松に行った際に、紹介していただいた舘山寺の玄関にあった手筒花火の現物。舘山寺は、歌川広重の『六十余州名所図会 遠江』に描かれているお寺。)(浅草謎解き散歩」川上千尋、荒井修・塩入亮乗編集)浅草謎解き散歩というとてもマニアックで楽しい浅草界隈を説明する本に、こんなことが書いてあった。「慶安元(1648)年をはじめ、江戸町触(まちぶれ)には次のような内容で花火の制限が記されている。「町なかでの打ち上げ花火は禁止。といっても、大川筋(隅田川)や海辺での打ち上げなら構わない。但し、仕掛け花火や、流星という花火はどこであっても一切禁止」。これに従って、打ち上げ花火は江戸前期から隅田川筋で行われていた。いつの間にやら、結構、書きあげてしまっていた。次回は、隅田川花火大会が来る前に、「たまやぁ〜、かぎやぁ〜」でも書きましょう。いろいろ書かなきゃいけない宿題がたまっているしここを訪れてくださった方の、もっとも多い回は、なぜか「水茶屋と楊枝屋」の回なので、それもいずれは、ご期待にそいたいけど。。。

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  • 20Jul
    • #30 解決追記 1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?【鎌倉時代~源頼朝 後編]

      源頼朝の挙兵を描いた#25【鎌倉時代~源頼朝前編】の続きを書きましょう。(*1:2018.7.26 縁起の未解決事項 解決を追記)(*2:2018.7.26 昌平坂学問所 写真を追記)江戸時代後期、八王子千人組同心組頭を務めた植田孟縉(もうしん)が、文政末期にまとめた『浅草寺旧蹟考』(以下 『旧蹟考』と略)5巻5冊を昌平坂学問所に献呈した。長らく出版されず昌平坂学問所の蔵書を引き継いだ東京都公文書館の許可をえて台東区教育委員会が昨年平成29年にはじめて、翻刻した。それがこちら。(『浅草寺旧蹟考』台東区文化財調査報告書 第五十七集)この本、先に『#28 四万六千日ほおずき市』の回で触れた浅草寺の大僧正も資料として読まれて高評価を著書の中で記されていました。八王子千人組同心の由来。武田信玄の武田家が八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏宗家。植田孟縉が、公務の傍ら昌平坂学問所に献呈した地誌三書など、これまた面白いのですが説明すると長いので、歴史にご興味の有る方は調べてみることをおすすめします。~『浅草寺旧蹟考』の調査は綿密~この『旧蹟考』は、僕が今まで読んだ現代の浅草寺関連の事柄を紹介した様々な資料の中で、もっともコンパクトに様々な古典資料を網羅して調査した結果を述べるだけでなく、著者自身の推論を述べられている。例えば、僕が、土師中知、檜前浜成・武成を推測したことを下記のように、江戸時代後期に既に、『姓氏録』を紐解いて、土師氏が、野見宿禰(土師宿禰)を祖であり、その12代目の後孫が、姓を光仁天皇の天応元年に菅原朝臣、秋篠朝臣、大枝朝臣などに名を改めることを許されたことを述べている。少し長くなるが、様々な書き方をされる土師中知(真中知)をどう発音するかまで述べているので参照してみよう。「檜前は檜前連姓にて、其の祖は火明命十四世の孫より出たれは、全く祖神異にして尸の別なることを知へし、されとも常に挙て漁をよすかとし(中略)武蔵志料の説には、真中知の真の字は直(アタへ)といふ字にて土師の直の姓なりとしるし、また近世の印本なる縁起には、真の字の下え人の字を補し真人の姓なるへしとかけり、両説ともに用ひかたし、土師の姓に宿祢と尸はあれとも、直及ひ真人の尸なし、前にも記せし如く、野見宿禰か垂仁天皇の御朝に土師宿祢を賜ひしを以て知へし、国史によらぬ杜撰の説なり、又云、土師真中知の真の字を前にいふ如く姓に改め除き、中知の字に訓点し、今の世に唱ふる実名といふ如く読を附て中知(ナカトモ)とよましむ、上古の世にかくよみたるためしなし、是もまた甚敷妄作といふへきにや、『紫のひともと』には、古縁起の如く真中知と書て、かたハらに仮名字を附てマツウチとせり、此唱えは上世の音声に近かるへし、一説には真中知(マナチ)なるへしともいえり、仍て考ふるに、まつち山は真中知を葬し塚山ゆへ其名を山の称号とし、マツチ山をマナチ山とか唱へるのを又転して、遂に真土山とはいひしならんか、此山の説は(後略)」この一説を読むだけでも、当時流布していた浅草寺に関する資料を収集し、「国史」にあてはめ鑑みて、その説を展開するのは、その手法だけではなく、植田孟縉が昌平坂学問所の下調査を指示されるに足る古典の知識と解析推察能力を有していたことを十二分に知ることができると思う。*2(昌平坂学問所 別名 湯島聖堂 JR御茶ノ水駅を聖橋改札で降りると、左手の大きな森の中に佇んでいる。)*2(昌平坂学問所・湯島聖堂の案内板:上の風景写真で築地塀の向こうに見えるのが、宝永元(1704)年建造の入徳門)しかし、網野宥俊大僧正は、この『旧蹟考』も高く評価した上で、さらに、幕末の因幡国若桜(わかさ)藩の松平定常公(池田冠山)がまとめた『浅草寺志』が最良とされていました。是非、一度拝見したいものです。~頼朝 浅草寺を訪れる~さて、本題にもどろう『旧蹟考』には、最終巻の巻五に『金龍山浅草寺縁起』(以下『浅草寺縁起』と略)の写しが掲載されている。残念ながら台東区によって復刻された『旧蹟考』には本来絵がある箇所は(絵)と書かれて絵自体は省略されてしまっているので、浅草寺のHPより。(浅草寺のHPより 戦勝祈願で浅草寺を訪れる源頼朝の絵「寛文縁起」)「後白河院御宇治承四年八月十七日、征夷大将軍源右幕下子今銃五位下前右兵衛佐にてご参詣あり、後白河禅定法皇の院宣倶たりしかハ平家を追罰せされしかハ、弓馬を累葉の門に催し籌策を九花の帳にめくらす、しか有しかハ、安房上総より発志し武蔵相模を出られし時、ミつから当伽藍に詣てられ、祈願し給ハ、我殊に観音に帰し奉る、願ハ必神力を施し給へ、逆臣を退けて叡慮をしつめ奉らん、(中略)平家の一門悉く破れぬれハ、(中略)是によって田園三十六町を放免し給ひ、永く竜華の朝を期せしめ給へり、抑又此将軍始て当寺に帰依し給のミにもあらす、先方義朝朝臣霊像をつくり奉りて安置し給ひき、また◎祖予州禅定太守のむかし奥州の敵を責られし時、徒に十有余年の春秋を送り、四千余日の星霜を積もるといへとも、偏に当寺の観音に丹誠をいたし給ひしによりて、終にはかの追罰の素懐を遂給ひき、古を以て今になそろふるに、賢を見ては験しからん事を思ふへき」と、源頼朝は自ら浅草寺を訪れたと『浅草寺縁起』は記している。しかし、実は、この記述は、年号に齟齬があるのだ。治承四年八月十七日は、まさに頼朝が決起した日で、三嶋大社のお祭りの当日であった。其の日、頼朝は自邸から部下に、襲撃目標の伊豆国の目代山木兼隆を襲わせている。山木の配下の者たちが三嶋大社のお祭りを見物に行っている隙きを狙った戦略だ。吾妻鏡では、部下が襲撃しにいっている間、源頼朝が自邸の縁側にいる様子を記している。浅草寺に戦勝祈願に赴いたとは、当日も、その前後でも記載されていないのだ。このように13世紀後期に著されたと推測される鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』のまさに8月17日の記述と『浅草寺縁起』の記述は齟齬がある。恐らく、浅草寺の記録の通り頼朝は自ら浅草寺に赴いての法要はいつかの時点で行われたのだろうが、その実施日を書き残した書類を消失したなりなどして失ってしまったのだろう。#25【源頼朝前編】で記載した、隅田川を渡河して隅田宿に宿泊した、同治承4(1180)年10月2日、または翌日の3日と、祈願した日を『浅草寺縁起』が記してあれば辻褄が合うのだが・・・僕は、浅草寺があまりにも度々火災に遭い、本堂はじめ堂宇が灰燼に帰しているので、「訪れた事実」「寄進うけた事実」は伝わるが、その「時期」を示す文書を失ってしまった可能性は高く、其の結果、どこかの時点で、辻褄を合わせようとしたのではないかと推測する。この植田孟縉が写した『浅草寺縁起』だが、縁起自体が記されたのが何時のものか記載がない。そこで、僕の持っている浅草寺が発行した浅草寺の網野宥俊大僧正のP700強の大著『浅草寺史談抄』を参照すると、承応3(1654)年に土師保底によって記された『承応縁起』全文が掲載されている。その内容は、植田孟縉が写した『浅草寺縁起』の文章とほぼ同じなのだが、『浅草寺縁起』のほうが『承応縁起』よりも文章の装飾が甚だしい。僕が(中略)として割愛してしまった部分はほぼ『承応縁起』は掲載されていない。#26平公雅の回で、僕は、平安時代に起きた事件が時代を経るにつれ詳しく描かれるようになり、ついには江戸時代の『前太平記』では最も詳細に記述してあったと、例を挙げて説明しました。この二つの縁起も正にあれと、同じことが起きているのです。つまり、もっとも古い歴史の記述が簡単に骨子だけを伝えているので、後年、その事実にそって脚色して歴史小説を描いたような感じとでも言えばよいだろうか。最も重要なことは、祈願後、平家一門を討伐したあと、植田孟縉が写した『浅草寺縁起』では浅草寺に「田園三十六町を放免し」たのに対し、『承応縁起』では「其後有参詣奉納沙金、刀剣。」と奉納したのは、田畑ではなく金と刀剣だったと記述が異なることだ。この『承応縁起』は網野宥俊大僧正が昭和37年に『浅草寺史談抄』を著された際に浅草寺に現存していたのであるから、植田孟縉が写した『浅草寺縁起』が著した時点でも存在したことは間違いない。植田孟縉の筆写した『浅草寺縁起』を復刻した台東区教育委員会編纂『旧蹟考』では「(絵)」があったページ箇所を示し、絵を省略している。また、網野宥俊著『浅草寺史談抄』も絵巻物を転載していない。浅草寺の宝物館に眠る本物のみぞ知ることになるようだ。そして、浅草寺の公式HPから転載した以下の絵は、『承応縁起』(1654)でも『浅草寺縁起』でもなく、『寛文縁起』(1662)からの出典。そして現在の浅草寺の公式HPは、寄進されたのは「田園36町」と記載しているので、『承応縁起』よりも8年あとに書かれた『寛文縁起』の記述を採用しているということになる。http://www.senso-ji.jp/about/歴史書とは、本当に一筋縄ではいかないものだ。「紫の一本」(1680年ごろ)や武蔵志料(年代不明、著者1780年没)のように出版された年代が古ければ古いほど信頼があるというわけでもないし、逆に新しければ新しいほど歴史資料が増えて信頼がおけるともいえない。つまり、後年脚色した歴史小説を、実際の歴史書と誤認して、事実と混同してしまうことがあるということだ。そもそも、幕府からの問い合わせに対して、浅草寺がどちらの縁起を提出したかで、歴史認識が変わってしまうわけだ。事実、昭和37年に『浅草寺史談抄』で網野宥俊大僧正は、古い『承応縁起』(金沙、刀)の存在を発表しているにも関わらず、今日の浅草寺HPは、ご覧の通り『寛文縁起』(田園36町)を採用しているのだから。(~~) huuu〜〜〜〜〜〜〜〜ここまでが、当初掲載時の内容。以下 追加*1現存する浅草寺縁起絵巻をまとめたその名も『浅草寺縁起絵巻』を台東区文化財調査報告書 第五十六集としてまとめられているのを発見。江戸時代に描かれたフルカラーの実に状態良く保存された絵巻集になっています。それの中で『寛文縁起』を拝見して、文字を追っていくと、植田孟縉が浅草寺から写した『浅草寺縁起』は『寛文縁起』と判明した。この結果、ここでの縁起の資料は3つではなく、『承応縁起』と『寛文縁起』(=浅草寺事蹟項考『金龍山浅草寺縁起』)の二つの記述内容の違いということになった。〜〜〜〜〜〜〜〜〜さて、源頼朝と浅草寺の繋がりある事象を続けて挙げてみよう。頼朝は、隅田川を渡って武蔵・相模と進み鎌倉に入ってから、すぐに鶴岡八幡宮を由比ガ浜から現在の地へ移す造営をする。その際に当時鎌倉に腕利きの宮大工が見当たらないので諸方を探した結果浅草に見つかり、浅草の宮大工によって鶴岡八幡宮が造営された。また、建久3(1192)年5月8日に、頼朝が施主になり後白河法皇の四十九日の仏事が百僧供養により鎌倉の勝長寿院で執行された折に、浅草寺からも3人の僧侶が出仕していることが『吾妻鏡』に記されていることから、聖観音菩薩信仰の厚かった頼朝から浅草寺が格別の扱いを受ける寺であったことは、容易に伺い知れる。この鶴岡八幡宮と浅草寺の縁は、後年、明治維新の際にも大きく関係してくる。ヒントは、浅草寺の『宝蔵門』と『二天門』の名前の由来だ。これがわかったら、読者のあなたは浅草寺通です(^^)鎌倉幕府の創建と浅草寺の回、駆け足でこれにて終了。

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  • 17Jul
    • #29 ご本尊 聖観世音菩薩と船乗りの信仰 DownToTokyo

      浅草寺の観音様が、隅田川で漁をする漁師の兄弟によって引き上げられたことは、先にも書いた有名なお話。そんな有名なお話にまつわる、観世音菩薩信仰についてを今回は書きます。むかしから、うすうす感じてはいたのですが、浅草寺・浅草神社は今もむかしも庶民のお寺・神様。日本全国に数ある観光地の有名な寺社仏閣の中でも知名度はベスト5~10に入ること間違いなし。その一方、有名なほとんどの寺社と大きく異なることが一つあります。それは、皇族、貴族、僧侶、将軍が創建したものではないこと。だからこそ、「だれなの?土師中知、檜前兄弟」と、最初にわきあがる疑問になるわけです。(その特異性は、#21【平安時代~仏教の変遷編】でまとめた年表を御覧ください。)僕は、お寺にお参りに行くけど、仏も菩薩も見た目では、判断できない。ましてや、お経など習ったこともなく、それぞれの功徳も知らない。それなのに、お寺で手を合わせる、困った時の神頼み。といっても、仏も神も、ましてやキリストだろうが節操ない(~~;)だけど、どうやら平安の世の人は、そうではなかったようなのだ。ここからが本題です。鶴岡静夫著『関東古代寺院の研究』で、関東最古の寺院浅草寺について多くの紙面を割いてその成立の謎に挑戦しているが、その中で、観音信仰と渡河の関係があると解説しているのだ。浅草寺が創建された奈良時代、庶民信仰をいまに語る現存最古の説話集『日本霊異記』に、観音菩薩信仰が収録されている。この『日本霊異記』という本の題名だが、なんだか伝奇SFみたいな胡散臭い名前だ。実はこれは通称で、正式名称は『日本国現報善悪霊異記』。平安時代初期に奈良右京の薬師寺の僧 景戒が撰定収録した奇跡や怪異の民間伝承集で、平安中期の興福寺写本、来迎院本は共に国宝。今回参照するのは、平凡社東洋文庫『日本霊異記』原田俊明・高橋貢訳から。日本霊異記 上巻第六話上巻第六話の収録は、まさに浅草寺が創建されたと伝わると同時期の推古天皇の御世だ。注1『続日本紀』にも現れる留学僧 行善は、朝鮮(文中・原文は高麗だが、朝鮮史において新羅と唐の連合軍に668年に滅ぼされた高句麗のことだと推察できる)で放浪中に、河を渡る方策がなく困っていた時、観音菩薩に祈っていると観音菩薩の奇跡に救われる。この話は、のちの平安後期にまとめられた『今昔物語集』巻十六第一、『扶桑略記』第六、『元亨釈記』第十六にも掲載されている。このことから、奈良時代後期から平安後期以降まで永くそして広く伝えられた実在の僧侶が伝えた「観音菩薩の奇跡」説話なことがわかる。また、神仏に祈って渡河の安全を祈るという話は、他にもあり、日光山輪王寺と武蔵国深大寺には共に深沙大王が渡してくれた話を鶴岡静夫氏は採用している。僕は『日本霊異記』の下巻第25話に「大海に漂流し、つつしんで釈迦の名をとなえ、助かった話し」、同第32話に「網を使う漁夫が海難にあい、妙見菩薩に祈って助かった話し」平安時代初期の話として採用されているのをみつけた。注1(しかし彼の帰国年は養老2(718)年なので、”彼”が命ぜられたと考えるには100歳を超えるので、鶴岡静夫氏もなんらかの事情で誤って記載したのだろうと注釈をつけている。”彼”個人を指すのではなく、遣隋使のように留学僧を高句麗に派遣する制度があったのかもしれない)では、なぜ僧 行善は、観音菩薩に祈ったのだろうか。『関東古代寺院の研究』の鶴岡静夫氏は、仏教の経典『法華経』の観音品に観音菩薩の功徳を述べている。以下は、ひろさちや著『法華経 日本語訳』からの抜粋仏はもちろん、ブッダそのひとだ。この観世音菩薩の章だけを単体で『観音経』とも呼ぶそうだ。観世音菩薩の功徳をいくつかの例えで示しているが、その最初が水難事故に遭っても観世音菩薩の名号を称えると、かならず救ってくださると説明している。今回の最初の写真に写っている浅草寺本堂正面の額に書かれた『施無畏』は、この観音経の最後に出てくる観音菩薩の功徳の言葉だと知っていましたか?僕は知りませんでした。つまり、#20「奈良時代~江戸最古の寺編」にまでもどりますが、宮戸川(隅田川)で漁をしていた檜前濱成・竹成兄弟が引き上げた観音像という有り難い話は、宮戸川(隅田川)に続く江戸湾周辺の漁業従事者にとっては、水難事故除けの有り難い神様の示現だったわけだ。(金龍山浅草寺聖観世音略縁起 上より)これに、浅草から橋場、三ノ輪にかけた北部一体が、宮戸川の反乱流域。江戸時代日本堤・墨堤を設けて江戸の洪水対策をしたが、明治時代まで実際には洪水が発生した地域であることを考え合わせられる。浅草寺の成立と繁栄は、まさに、宮戸川(隅田川)と水害除守、また逆に、観音品にあるように水上貿易の守護神という、まことに有り難い聖観音菩薩の功徳こそが庶民の絶大な信仰を集めたことが想像できる。『関東古代寺院の研究』に、その頃を思わせる一節があるので、そのまま引用しよう。「そのようなことから考えて、東京湾に注ぐ隅田川の河口を東西に横切る渡舟場において、渡船者の便宜をはかるために布施屋のような建物が建てられ、またそれを一部として含む寺院ができ、その寺院には観音像を安置し、渡河をする者や海上に漕ぎ出していく猟夫たちの水上交通の安全を祈ったと考えられる。それが、浅草寺の創建ということになるのではないかと思う。(後略)」もう「なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?」という本題の答え、みつけてしまった気がする。いいかな、これ以上、深掘りしなくても(^^)と、いきたいところだが、実は、そうはいかないと思うのです。なぜなら、家康入府以降、浅草寺と浅草は聖俗混交の賑わいの町になっていくのは明々白々なのだが、僕が知りたかったのは江戸時代以前。ここまで調べたのは鎌倉時代前期まで。鎌倉時代後期から室町時代は、光(奈良平安)と光(江戸以降)の間に、歴史の表舞台から離れた浅草(鎌倉後期・室町)が全く見えていない。。。ううむ とんでもなく壮大なブログ・プロジェクトで、ほんと先が見えません。はやく、吉原とか、歌舞伎とか、江戸で花開く文化・風俗に行きたいのだけれども、それですら、知らないことばかり。知らないことを知ろうとすることは、きちんと調べる指針を頂ける方にご教授頂かなければ泥沼だ。では、次回は、、、、、鎌倉時代後期の浅草を描いた日記か、それとも、坂東札所第十三番か。

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  • 09Jul
    • #28 四万六千日 ほおずき市 〜 DownToTokyo

      毎年7月9日と10日は、四万六千日。ところで、「何が四万六千日」なのか・・・これを非常に丁寧かつできるだけ簡潔にわかりやすくまとめられた『日本文化研究ブログ Japan Culture Lab』さんの「四万六千日の由来と意味とは?2018年はいつ?ほおずき市の由来」が素晴らしいので、知っているよ、という方も、何ソレ?という方も、是非、読んでみてください。↓↓↓↓↓↓https://jpnculture.net/shimanrokusennichi/(境内には所狭しと「ほおずき」を売る。風鈴の音色が涼を呼ぶ)四万六千日(しまんろくせんにち)は、浅草寺の専売特許ではありません (^0^)何を馬鹿なと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それくらい浅草寺の此の日は賑わうので、つい思いがち。浅草寺の御本尊 聖観世音菩薩の功徳日なので、聖観世音菩薩を御本尊とするお寺では、この日にお参りをすれば同じ功徳があります。詳しくは、先に挙げた日本文化研究ブログさんが詳しいです。では、僕からは、浅草寺の網野宥俊大僧正が四万六千日について書かれた「縁日」についての文章が面白くて面白くて、大好きなので、ここに書きます。この辺がマニアックなところ(^^)「然るになぜ特定の縁日などという信仰風俗が生まれるようになったのかというと、これは信仰の顕揚を目的として、往時の僧侶が設けたものであって、現今でいう「信仰デー」と解釈すべきものである。」うん実に小気味よい。さすが、浅草にお生まれになられた有徳のお坊様。「よく「防災デー」とか「防犯週間」と称して殊更に、防火、防犯の注意力を強調しているが、あれと同様で、火の用心や、戸締まりの注意は日々必要である。何も「交通安全旬間」だけが、無事であればよいというものではないと思う。」(旬間って書かれたのは、誤字なのか、洒落なのか)(本堂に飾られた巨大な『雷除守』)(いつも思うのだが、浅草寺は商売の神様の如く、自らのご商売が上手)「「縁日」という言葉も、日々が信仰生活であるべきで、特に「信仰デー」が設けられたのも、仏菩薩に対する信仰心の顕揚が中心的であり、従来無縁であった者もこの日に多く結縁させて、漸次仏道に誘引しようというねらいも含まれて出来上がったものと解釈している。」(四万六千日と雷除の提灯が下がる浅草寺本堂)「縁日に参詣すれば、功徳が平日に優れてあるとか、四万六千日参詣したと同様の功徳にあずかるとかいうようなことは、これに附随して生まれた方便である。」こんな風にすっきりさっぱり捌いてくださる方なら、毎日おはなしをお伺いしても、難しい難題であっても、なんのわだかまりなく、すっと心に落ちるに違いない。ぜひ、お話を一度でよいからお伺いしたかった。先の日本文化研究ブログさんの中にも書いてありますが、四万六千日の功徳日は、本来7月10日の一日限り。網野宥俊大僧正は、300年前ごろには千日参だったと元禄年間に発行された『惣年中行事』を参照され、また9日10日の二日になったのは、江戸末期の「増補江戸年中」が発行された享和3(1803)年あたりだろうと推測されている。面白いのは、「二日間の公示はしても十日が相当日なのである。」って、きちんと断言されている。というわけで、我先に7月10日午前零時いの一番に四万六千日の功徳に預かろうというせっかちな人たちのために、浅草寺の境内が大混雑するから9日もという風にはしたのだけれど、その実は10日だけだよ諸君。この網野宥俊著『浅草寺史談抄』は広辞苑くらい分厚い本で、僕の今まで買った本で一番大きな本の一つだけど、何度読んでも、この四万六千日のこの部分は、ついにやにやと笑ってしまう大好きなページだ。(『浅草寺史談抄』網野宥俊著 四万六千日に授与される雷除守ととうもろこしの図(忠伝筆)より』そういえば、ブログに「赤とうもろこし」と「雷除け」の御札の由緒も書いてありましたね。すごいほんとに、何から何までだ。ところで、「赤とうもろこし」といえば、中南米の主食。天正年間(!)に日本に伝わったものらしい・・・って織田信長の時代です。僕の生活では、とうもろこしといえば、黄色。赤いとうもろこしが日本で生産されていたこと自体が真の驚き。え? 中南米の人ったら「赤とうもろこし」なんて食べるの? 変、きもちわる〜てなこと、うっかり言いそうなものの、実は、我々の記憶から失われた文化だったんですね。日本文化研究さんのブログに、赤とうもろこしの不作のあった年は江戸末期とありましたが、明治元年のことだそうです。つまり、信長の時代の珍しいものの献上品と共にやってきたのか明治までの300年弱の間に関東の農作物になるまで普及したと言い換えられる。当時のお菓子や洋食、またチャンポンのように西洋船のコックだった中国人の料理まで現在に伝わっているのに、とうもろこしを原料としたお菓子や料理が身近に残っていないのは、牛馬の飼料用に生産されていたんでしょうか。(たしか、ルイス・フロイスの著書には信長や秀吉に面会すると場面では献上品を書いてあるが、赤とうもろこしはなかったと思う)今日、浅草を歩いていたら、とても日本語が流暢な外国人のガイドさんが大勢の方々をバスから降ろして、ちょうど浅草寺に向かう所に、一緒に信号待ちをしました。「今日、浅草寺を観光するには絶好の日ですね。境内は、たくさんの屋台で、キレイです。」「今日は何かお祭りがあるんですか?」「ええ、1年に2日だけある特別な日ですよ」ガイドが居ても、居なくても。ガイドが日本人でも外国人でも。その町をガイドする知識の多少によって、観光客が得られる旅の質は大幅に変わります。ガイドを雇わず、事前に情報を仕入れなかったら、ひょっとして、ほおずき市も知らず、雷除け守りもしらずに、カメラの中には、雷門、本堂での記念撮影と、浴衣姿、仲見世で買った食べ物写真しか残らないことでしょう。たくさんの季節イベントや、歴史秘話がある浅草。そのコンテンツが多いばかりに、東京都市部全体をカバーする観光ガイドでは、準備・説明しきれないだろうなぁ。と、残念に思う。ので、まずはブログをはじめた次第。今日も、読んでくださりありがとうございました。p.s.このブログをはじめてやっと6ヶ月が過ぎましたか。記事も増え、毎日読んでくださる人がいるようになって、とても嬉しいです。いいね、押してくださった皆さんひとりひとりにお礼を申し上げていませんが、次にも興味をもっていただけそうな記事がかけるように励みになっています。ありがとうございます。

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  • 06Jul
    • #27  隅田宿〜浅草寺と住田の渡しの関係 DownToTokyo

      こんにちは(簡単におさらい)なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?という疑問に従って、江戸時代徳川家康の入府以前の浅草を、浅草寺史に残された出来事を軸に平安時代から追ってきました。#25で源頼朝の挙兵の際に、隅田川を渡り【隅田宿】に泊まったと。ところが、浅草寺に寄ったとは浅草寺史にも、吾妻鏡にもでてきません。先の源頼義・義家も近くを通過しましたが、同様です。(東都名所真土山之図 歌川広重)「江戸氏の研究」では、隅田宿は、隅田川の東岸(墨田区側)か、それとも西岸(台東区側)かで、研究者の間では意見が二分されていると書いてあった。ここで、僕の意見は、頼朝たち軍勢が下総国から隅田川を渡った後、畠山・河越・江戸の各氏は隅田宿に参向したのだから、台東区側以外に選択余地はない。それよりもむしろ、議論すべきは、「渡った場所にあった隅田宿がいったいどこなんだ」という方が、より大きな問題だと思う。順当に考えれば、延喜式に記載された東海道の宿場町を推測するのが、江戸時代の参勤交代と宿場町からいって順当だろう。(延喜式考巽5 自巻第28 武蔵国駅より〜宿場名と置かれた馬の定数が記載されている)だが、渡河前は1万騎、渡河後は3万騎になっていた兵馬を抱えられる宿場などあるはずもない。江戸時代と違い大名行列で瞬間的に何百人も泊まれる宿泊はしないのだから。つまり、大将である頼朝以下各氏族の長たち数十名が泊まれる程度の宿場のそばに隅田川の川辺に近い位置に野宿に近い形で野営したというのが妥当な推測だろう。官道の渡があったと推測されている石濱・橋場なら、そう記載するだろうがわざわざ隅田宿だ。つまり石濱・橋場ではない。これは、鶴岡静夫著『関東古代寺院の研究』を読んでいて、比定地予測が閃いた。それは、おそらく山の宿だろう。我ながら大胆な仮説だが荒唐無稽ではない。浅草寺には、宮元三ヶ町(材木町、花川戸町、聖天町)と呼ばれる他の氏子町会とは別格の町がある。これらの町は、浅草寺創成期からのまさにお膝元の町で、北から、現在は浅草寺の支院である待乳山聖天のある聖天町。浅草寺・浅草神社・二天門からまっすぐ西(隅田川)に向かっていった岸辺に広がる花川戸。そして、観音様を祀った最初のお堂と伝わる駒形堂から銀座線の浅草駅がある吾妻橋に続く川沿いの材木町。じつは、この並びで、聖天町と花川戸町の間に浅草寺側にある地域が山の宿だ。山の宿。実に、深い名前だ。浅草寺の寺号を思い出してほしい、そう【金龍山】。そして、聖天町は待乳山聖天のある小高い丘程度の山のふもとを含む町だ。今回最初に出した歌川広重の『真土山之図』が隅田川から見た待乳山聖天と今戸橋を描いている。(江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図 嘉永6年の抜粋)鶴岡静夫氏の著書に寺と宿舎の関係について下記の記述がある。「隅田川の河口にある渡船場は、南関東における東西交通の要衝であるから、そこには人が多く集まってきて、宿泊・治病などの施設ができてくると思われる。しかもそういう施設は当時の社会通念としては、寺院で造営する。あるいは管理するということになってくるので、そこに寺院の造営ということが起こってくる。このようにして隅田川の川口の渡河点に浅草寺が創建されることになったのではないかと思われる。」面白い。そう、山の宿町は江戸時代に地図で浅草寺の寺領。いつか未来に書く予定の『一の権現』の眼の前、隅田川岸辺に拡がっている。鶴岡氏の著書に『類聚三代格』巻十六「船瀬◎浮橋布施屋事」という太政官布が載せてあるので、そのまま資料を添付しよう。(◎は丼に似た字なのだが、そのような文字がない。添付した本文の中で発見してみてください)(『関東古代寺院の研究』鶴岡静夫著より)この太政官布は、承和2(835)年6月29日に発行されている。(弘法大師空海の入滅した年らしい。)筆者はここに、特に傍点をふり注意を促している。それは、武蔵・下総両国の境である住田河(隅田川)でに現2艘の渡し船を追加2艘増やすように指示している。(頼朝が隅田川ともども渡河するのに一旦留まった下総太日河(太井川)も同様に記載がある。)往来の多寡によって、1艘、2艘、4艘の川が見て取れ、京に近い現在の滋賀県草津市草津川の中山道の草津の渡しを示した『尾張国草津渡や、東海道五拾三次 安倍川餅で有名な静岡県静岡市安倍川の『駿河国安倍河渡』よりも、隅田川の渡し船が、既に当時で倍と交通量が多いことから少なくとも1世紀以上前つまり700年ごろには既に隅田の渡しが、この地にあったはずだと結論づけている。しかも、現況では渡し船の数が少なく、貢調の運搬人が数多く来集し、長い間渡河できないためごった返している。また、交通の重要施設である渡船が仏教と大きな関係を持ち、その造影・管理などが、大安寺僧や国分寺の購読師によって行われていることを明確に指摘している。筆者は、浅草寺の創建年を推定するために、この太政官符を引き合いにだして、少なくとも一応奈良時代頃に創建された可能性があると結論づけているのであるが、僕は、逆に、筆者の以下の寺院の発展形態に注目した。筆者いわく「このように仏教が渡船交通に深い関係を持っていることから渡船場に有る布施屋を寺院としたり、あるいは布施屋をその一部として含むような寺院ができてくるのである。」おお、お寺のそんな設立・発展形態きいたことないぞ。著者は、また、『記・紀』のあと『日本後紀』『常陸国風土記』ころまでは東海道は海上ルートを取っていた、また、豊島~井上~下総国衙を通る『延喜式』に示された東海道は奈良時代末期から平安時代中期まで使用されていたとと述べている。そう、たしかに、浅草寺縁起を読むと、浅草寺周辺の中世江戸は平安時代末期・戦国時代は繁栄期を過ぎて寂れた印象をうけるのだ。僕は、度重なる火災で復興再建に掛かる費用を信徒から集められなかったからだと想像していたが、律令制の崩壊・武士の台頭が背景にありそうだと気づいた。鎌倉時代の浅草寺と浅草が『とわずがたり』という書物に掲載されていて、これまた非常に興味深い当時の浅草寺周辺を表した記述がある、それは別の機会に1章を用意して述べたい。

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  • 03Jul
    • #26 平公雅はなぜ #22【平安時代~平将門の乱】に追記

      浅草寺に一大伽藍を築いた平公雅がどのような素性の人だったのかを、#22平将門の乱を背景に説明しました。安房の国主だった平公雅が念願の武蔵守職を拝領したお礼に、伽藍を築いたのでしたね。私は、その中で、ところでなぜ浅草寺に祈願したのだろうと書きました。多くの書物ではその理由が見つけられませんでしたが、偶然、#25【鎌倉時代~源頼朝 前編】を書くために資料探しをしていた際に、『前太平記』の中にみつけましたのでご紹介します。いったい、何人が興味を持つのかわかりませんが、とても胸に迫る来るお話なので、原文で多く記載します。まず資料の年代順:吾妻鏡 13世紀後半(鎌倉時代)義経記 14世紀前半(室町時代)太平記 14世紀後半(室町時代)前太平記 17世紀後半(江戸時代)江戸時代、『太平記』を模した軍記物と呼ばれる物語が多く編纂されたそうです。『前太平記』もそのうちの一つで、『太平記』が語る時代の前時代を描いた作品で、史実虚構がないまぜになったような作品。いまでいう歴史伝奇小説ということになるんでしょうか。(叢書江戸文庫3 前太平記)先に取り上げた平将門の乱や、源頼義・八幡太郎義家親子が活躍する前九年・後三年の役などの他、お馴染み大江山の酒呑童子・一条戻り橋などの鬼退治で活躍する源頼光と四天王などを含む軍記物語です。現在、この前太平記は非情に入手困難な書物とのことだが、三鷹市中央図書館にあった。(源頼光公館土蜘蛛妖怪図 一柳斎国芳)この『前太平記』に、平公雅の弟 平公連のエピソードと、浅草寺のエピソードが克明に記載されているのをみつけた。「将門僉議事付公連諫死事」という表題の項から抜粋~「権守興世進み出でゝ申しけるは、「一国を掠むるも、坂東を皆奪うも、其罪以て同じかるべし。先ず常陸国に攻め入り、兵を率いて直に下野に移り、国司を追い出して、上野に入り、武蔵相模を略して安房上総を打ち従へて、関八州を手に入れんこと、踵を廻らすべからず」と憚るところなく申しければ、将門ほくそ笑みて、「いしくも承るものかな。我東八箇国を打ち靡けば、其勢ひを以て推して都に上り、今上帝を遠島に遷し、新皇帝と仰がれ、四海を掌に握らんこと、何の子細か有らん」と、評定早一決しぬ。「爰に、将門が従弟六郎公連、遥か末席に居たりしが、泪をはらはらと流し、「あな浅猿や。斯かる忌まはしき企てこそ候はね。(以下略)」平公雅の弟公連は、下総国猿島郡石井郷に将門が建てた都で将門が輩に除目を行い、帝を追い出し自らが天皇に成るという謀議を企てている席にいた。これを聞いた公連は、将門らのこの企てに対して、中国の故事、日本の故事を紐解いて将門にやめるように説得するが、「(略)公連、諫言数度に及べり。伯夷・叔斉飢えて死す。用ゆるに足らず。竜逢・比干諌めて死す。称じても余り有り。如かじ、身を潔うして死せんには」と云いも敢えず押し膚脱ぎ、左の小脇に刀を突き立て、右の傍腹まで切目長く掻き破って、中なる腸手繰り出して、覆し臥したりける。(以下略)」諫言の甲斐なく将門を止めることができないと理解した公連は、自決したとある。11世紀に成立した『将門記』を読んでいないので、将門の乱wikipediaでの時系列と、この『前太平記』の事件の前後でどちらが正しいのか判断できないが、wikipediaは、関東を席巻してから岩井に館を建て除目を行うのとなっており、関東を手中にする順序が異なる点がすっきりしない。が、僕のココの回のポイントは、公連そして公雅。そこは目をつむり、先を急ごう。(名所江戸百景 「吾妻橋金龍山遠景」歌川広重)(時代は下って江戸時代ですが、墨田区側から山谷堀・吉原を目指す遠景に浅草寺)『前太平記』は、公雅の浅草寺修造を下記の通り描いている。「爰に、散位安房守平公雅と云う者あり。(略)去んぬる承平二年、平賊将門を諌めて腹切りたりし六郎公連が兄なり。しかるに公連存生の頃、武州豊島郡宮戸川の辺り、浅草寺の観音薩埵の悲願を頼み、常に歩みを運び渇仰年久しかりしが、彼堂余りに破壊しけるを、公連大いに之を歎き、何にもして修復奉らんと云う大願を発しつれども、事大営なれば、志のみ有りて力なく、剰へ所願空しく不幸に命を失へり。舎兄公雅も亦此願を発し、亡弟の菩提を祈らんと、常に此のことを念じける。」この後は、多くの人が知るとおり、兄平公雅は武蔵守を拝命することを祈るわけです。他の資料では、天慶3(940)年に武蔵守になった藤原秀郷あと、平公雅が天慶5年武蔵守になっているが。しかし、『前太平記』では、二人の任官の間、天慶4年秋に嵯峨源氏系の大納言源昇の息子 箕田武蔵守源仕(つかさ/つかう)が位従五位上になり就任している。しかし箕田武蔵守は任期を満了する前に重病にかかり、天慶5(942)年5月に亡くなった。その後任に平公雅が就任している。(これはwikipediaの源仕でも官位・没年と合致する)どうやら、現在一般に流布されている秀郷のあと公雅というのは、藤原秀郷という有名が源仕の存在を省略させてしまったように思われる。#22【平安時代~平将門の乱編】で積み残した宿題なぜ平公雅は、そもそも武蔵守になりたいと浅草寺に願掛けをしたのか?つまり、もとは弟公連が深く帰依していた浅草寺に、弟の菩提を弔いたい。そして、願わくば、武蔵守の貫禄を食むことができたら、弟が望んでいた浅草寺の修繕を代わりにしてあげたい。そういうことだったんですね。でも、【前太平記】の記述で平公雅が築いた伽藍の中に間違えがあります。それは、五重塔。公雅が築いたのは三重塔で、五重塔ではありません。多くの浅草寺五重塔を紹介する文にも平公雅が五重塔を築くと書いてありますが、それは間違えです。(【浅草寺縁起】「五間四面の金場を営み、三重四角の宝塔をかさり、鐘楼経蔵二階の楼門(以下略)」)今回は、平公雅・平公連兄弟と浅草寺の深い縁について書き連ねてみました。「なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?」「ええ、そんなわけなんですよ」 (^^) 平安時代はね

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  • 02Jul
    • #25 (1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?【鎌倉時代~源頼朝 前編]

      こんにちはアタマの中の情報を一気にアウトプットしはじめ6本目になりました。#19で、作った目次に従って、書き進めているのですが★(1 なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?★(2 猿若町って変な名前・・(歌舞伎)★(3 吉原って、どうして風俗街?★(4 浅草の北側は、履物の町★(5 山谷(周辺)って、浮浪者だらけで怖い★(6 あしたのジョーの町 ★(7 当然ですが、お祭りと縁日の町まだ、第1行のテーマを書き続けています。(~~;奈良時代~平安時代も、ついに源頼朝の登場によって舞台は鎌倉時代に。歴史の教科書で、1192年 源頼朝 鎌倉幕府。それ以外に覚えていることありますか?大河ドラマ~清盛や義経を見た人は、サブキャラ頼朝が作った歴史の流れを思い出せるでしょうか。(う~ん ひどい扱いだ...)■鎌倉幕府を作った人。■北条政子の旦那。■平家滅亡の立役者弟義経を討伐した非情な兄貴。そうなんだけどここでは、平治の乱で平清盛と父源義朝は敵同士に争い、義朝は破れ斬首・息子頼朝は配流。その後の幕府設立前のお話の中で浅草周辺事情が語られます。頼朝の挙兵伊豆に流刑になっていた源頼朝は、皇位継承問題で危機に立っていた後白河天皇の第3皇子以仁王(のちに皇籍剥奪され源以光)の出した平氏追討の令旨に呼応して挙兵。しかし、石橋山の戦いで破れ、静岡県真鶴から千葉県の安房まで海を超えて落ちのび、房総半島の武士の助力を得ながら下総国まで進軍してくる。しかし、その進軍を隅田川に阻まれ、武蔵国に入る前に足止めされてしまう。この時、武蔵国を地盤とする平氏の子孫 江戸重長に、頼朝は平氏方を離れ自軍へ参加することを要請。江戸氏と共に、同族の千葉氏・葛西氏が共に船を集めて、浮き橋を掛け隅田川を渡るというエビソードがある。この橋を掛けた場所が浅草の北方、現在の台東区橋場(旧名石浜)だというのだ。浅草?鳥越?橋場?石浜?このブログを読んでくださっている人でも、「浅草以外の位置関係はわからないよ」という方々、今更ですが、位置関係の地図を用意しました。(地図は、google mapを利用)この地図は、東京23区の北東部分です。中央の「入」のように二股で現在ながれている左が隅田川、右が荒川放水路。この隅田川を堺に左側が武蔵国、川に挟まれた墨田区を含んで右側が下総国です。(これだから、この辺りの昔からの住民は、対岸の墨田区を川向うと呼ぶのです)隅田川を北から、石浜、橋場、浅草(寺)、鳥越の順で南の河口へ向かいます。【平安時代~源頼義・義家編】で引用したとおり、鳥越あたりでは、隅田川の河口は広くほぼ海だったんでしたね。(広大な砂州が墨田区側に広がる河口だったのでしょう。潮干狩りができそうな)皇居(東京駅丸の内付近)は、左下隅です。視線を上に戻しましょう。隅田川の上流 石浜・橋場から、直線左の先に、下総国の国衙(県庁所在地)国府台があります。逆に、右の先に、現在の上中里駅滝野川公園あたりに、武蔵国豊島郡の郡衙(市役所/宿場)があったと推定されています。この豊島→石浜→国府台。これが律令制時代の官道が通っていた道で、この道を伝馬が走り、人々が京まで年貢を納めるべく運んだのです。律令制時代の官道は、曲がることなく最短距離を舗装した一直線の道路だったそうです。拡大してこのgoogle mapを眺めると、現在の道路が、ほぼその跡を残しているかのように、豊島→石浜→国府台をつないでいるのが見えるでしょう。(石浜〜現在の白鬚橋から隅田川加工方向を望む〜スカイツリーの対岸が浅草寺のある場所だけど、当然見えない。でも、昔は、葦の生い茂る中に民家が散見される眺望のはずなので、遠くに浅草寺の三重の塔は見えたかもしれない。詳しくは、#22参照くださいでも、結構遠いですよ。この奥手に掛かる橋は、桜橋。次が言問橋、吾妻橋と続き浅草寺は、その間にあるのですから。ですので前回【平安時代~源頼義・義家編】親子の鳥越ルートに疑問を持ったわけですね。川は下流に行くほど広く渡りにくいのは常識ですから。で、頼朝です。鎌倉幕府正史『吾妻鏡』は、こう綴っている。「(十月)二日。辛巳。武衡(頼朝)、常胤(千葉)、広常(上総介)等の舟揖に相乗り、大井(ふとい)・隅田両岸を済(わた)る。精兵三万余騎に及び、武蔵国に赴く。豊島権守清元(清光)、葛西三郎清重等、最前に参向す。また足立右馬允遠元…(略)...隅田宿に参向す。」つまり、隅田川のどこを渡河したのか実は、記載がない。加えて、隅田川を渡った場所に【隅田宿】という名前の宿があることがわかる。これが鎌倉時代後期成立したと言われる『源平盛衰記』になると、なぜか詳しくなる。「兵衛佐頼朝は、平家の軍兵東国へ下向のよし聞給ひて、武蔵と下総との堺なる隅田河原に陣とつて、国々の兵をめされけり。武蔵国の住人江戸太郎(重長)、葛西三郎(清重)一類けんぞく引率す。(略)「しかるべし、江戸・葛西に仰せて浮橋を渡しべし」と下知される。(略)浮橋をよの常に渡しけり。軍兵これよりうち渡して、武蔵国豊嶋郡の上滝野川松橋という所に陣を取る。」【浮橋】を渡したのが、江戸氏と葛西氏となっているが、『吾妻鏡』では江戸氏は、まだ頼朝軍には組みしていない。(隅田川筏渡之図」朝桜楼国芳(歌川国芳)(この江戸時代に描かれた錦絵は、『浮橋』を『筏(いかだ)』と捉えていますね。あとで読むと分かるように、筏ではなく、舟を繋いだ上に板を渡して橋を架ける浮橋です。)江戸の名前の元となった江戸を地盤とする江戸氏の去就が、実は、この隅田川を渡る場面で実際の出来事が起きた時代から年を経るごとに変化していることを『関東歴史研究叢書 江戸氏の研究』荻原龍夫編集で杉山博氏は指摘している。『吾妻鏡』では、江戸太郎重長は、頼朝が渡河したあと翌々日10月4日に、畠山次郎重忠、河越太郎重頼と共に長井の渡しで頼朝に面会している。(関東歴史研究叢書 『江戸氏の研究』荻原龍夫編集より。秩父平氏から分かれた氏族)この3人は、秩父を地盤として発展した平氏から関東の諸地方に在郷武士かした親族。伊豆で頼朝が挙兵直後、神奈川県三浦半島の三浦氏が加勢に向かう途上、平氏方として三浦氏を足止めした武将らである。その結果が、石橋山の敗退。次ぐ、安房への脱出であった。つまり、当時、埼玉県深谷(畠山氏)、埼玉県川越(河越氏)、台東区から南半分(江戸氏)は平氏方。同じ秩父平氏の血縁の彼らに南北から挟まれるような形の豊島氏、が頼朝方についていたことになる。武蔵国をちょうど横から、鎌(豊島が鎌、柄が下総、上総、安房)で刺したような格好だ。(歴史文化ライブラリー『源氏と坂東武士』野口実著より)では、続いて、南北朝から室町時代に書かれたという『義経記』には下記の通り書かれている。「江戸太郎八カ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢この二三日水に堰かれて渡しかねたるに、水の渡りに浮橋を組んで、頼朝が勢、武蔵国王子・板橋に著けよ」とぞ宣ひける。江戸太郎承りて「首を召さるとも争か渡すべき」と申す処に、千葉介、葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井・栗河・亀無・牛島と申すところより、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は、江戸太郎が知行地なり。折節西国船の著きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿御覧じ、神妙なる由仰せられ、さてこそ太井・墨田打超えて板橋に著き給ひける。(石浜神社〜先の写真 白鬚橋のたもとにある古社。室町時代ここに千葉氏の居城石濱城があったと推測されている)このように、より詳細な記述になっていきます。僕は、ジャンルに限らず本を読むことが好きですが、歴史書や歴史小説を読むことが多いです。その経験から得た僕の歴史感は、『歴史は勝者の描く歴史である。また、著者が、著したいと思う物語にそって、事実の断片に虚構(フィクション)を組み合わせて膨らませている。また、著作時代が古いほど、比較資料がないことから、記載内容が全て事実と受け取りがちである。』です。この頼朝が隅田川を渡河する話は、僕が歴史家・著作に対する際に眉唾して読む歴史感を如実に著していると言えて、笑ってしまいます。隅田川を渡って、隅田宿に全軍を休めたことだけは明確な事実で、誰が、どう舟を調達して浮橋を作り渡したかは、実は後年の創作と言えるではないでしょうか。ただし、隅田川を渡河する4日前の9月29日時点で、「従い奉る所の軍兵、当参巳に一万七千余騎なり。」(吾妻鏡)記されているので、官営国道だった東海道の名残で渡し舟はあったとしても、大量の騎馬を渡河させることできないことから、舟を並べてその上に板を渡して橋をかける方法を取った際に、義経記では著述者の当時の川幅から計算した必要な舟の数を導き出した。ということだろう。それにしても、先に掲載した現在の隅田川の写真に1艘だけ船が浮かんでいるが、架橋に必要とする舟の数は膨大で、必然川幅は狭く、流れが穏やかな場所を架橋ポイントとして選ぶはず。それはまた、橋を渡す上での選定地と、渡し船を渡す選定地は必然的に同じ場所になる。つまり、橋場の渡しとして後代にも地名として名の残る場所。学者ではないが、僕ならそう推測する。さて、では最後にもうひとつ。途中で問題にしましたが、隅田宿とはどこなんだ?という問いが残る。この『吾妻鏡』の原文に接するまで、僕は、渡った場所が隅田川のどこかだけ注意を払っていたわけだが、【隅田宿】この一言でさらに、一歩踏み込むことになった。次回は、【隅田宿】を考察する。う~ん、これが果たして、【鎌倉時代~頼朝編】に収めるべきかどうかは、悩む。なんというタイトルにするかは、書き終えてから悩むことにしよう。今回も、また、長いブログを最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

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  • 23Jun
    • #24 (1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?【奈良時代以前〜檜前浜成・竹成編]

      こんにちはいつも読んでくださっている皆さん、ありがとうございます。僕自身、さまざまなことについてマニアックなのですが、今回はじめてしまったこの「浅草界隈の歴史」を調べ始めたことを綴っていくブログは、おそらく歴史・宗教・文化・芸術・町の発展・経済・政治とあらゆる方面を網羅する「浅草 観光案内ガイド」としては、最もマニアックなものになることでしょう。三社様 【土師中知について】#20【奈良時代〜江戸最古の寺編]で、最後に書きました。しかし、檜前浜成・竹成兄弟については存外書くことが少ないので、新しい発見があれば別の回にまとめてと思い時代を先に進めましたが、今回は時代をもとに戻して、檜前浜成・竹成兄弟について書きます。(浅草神社の一之宮、二之宮、三之宮)【檜前浜成・竹成兄弟の檜隈姓について】土師中知がどのような方だったのかは、多くの書物やガイドブックに記載がある通りで、往古の昔から皆の関心のあったことと思うが、漁師の檜前姓については、多くの市販ガイドブックにはその出自を載せているものはない。(浅草寺廻一家裏 北尾政美画 寛政8(1796)年 国立国会図書館デジタルアーカイブより)大体において、観音様を引き上げている画は3人の漁師だが、この絵本は諸説流布されたうちの一説「檜前」を3兄弟の一人の名だとしている。これについては、現在では3兄弟ではないということで収束し表記されているが、江戸時代に布教目的で刷られた絵本はどれも、漁師3人で描かれているので、必然むかしの画を利用しようとすると「?」になってしまう。(金龍山浅草寺聖観世音略縁起 上 国立国会図書館デジタルアーカイブより)上記は明治16(1883)年に竹内栄久編集により発行されたものですが、昔から漁師は3人の構図なので、土師中知を漁師に仕立ててしまっています。伝わる社伝や先達の残したイメージは簡単には覆せないことが想像できます。これを書いた人はだれだと思いますか?この冊子の梅堂国政誌と序文を書いている人は、上に出てきた編者 竹内栄久と同人物で、じつは幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師の三代目歌川国貞です。この年は御開帳があるので、女子供にも浅草寺の由緒がわかるように発行したものだよと書いています。(出典:同上)さて、早い段階で間違えは正さないと、いつの間にやらイメージが定着してしまい、後になった「あれ、間違え!」って訂正するのは大変という実例がまさに、これで、昨今浅草寺は仲見世の宝蔵門手前に由緒画を新調して掲げています。それがこちら。最初に掲げた絵本から200年を超えて訂正された二人兄弟漁師が引き上げる『ご本尊の示現』画です。実は、浅草寺が早くから訂正しないがばかりに、広く流布されて、ずっと訂正できていないことがあります。それは、ご本尊の大きさ。1寸八分(約5cm)と伝わるが、「これは江戸時代以来の俗説である」と現在は浅草寺のホームページで否定している。なにせ、勝海上人が大化の改新があった大化元(645)年に絶対秘仏にして以来、明治維新の際に政府派遣の官僚が聖観音像の実物があるか確認した以外、浅草寺関係者すら目に触れたことがないという秘仏中の秘仏。要するに誰も事実を知らず訂正のしようがないので、流布するに任せたという。鶴の恩返しや、ましてや、イザナギノミコトすら「みちゃだめ」と言われたのに、すぐ見ちゃったんです。1400年間も、いまだ、聖観音様との約束をやぶっていない浅草寺聖職者の方々、本当に尊敬します。それにしても、大体において、時の権力者というのは、往々にして不敬ですね。これまたおおよそ、末路は悲惨に違いないのも歴史の定説。話をもとにもどそう。浅草神社の境内 鳥居をくぐって左側、手水舎の裏辺りに「檜前」の姓について説明する案内板が立っている。案内板では平安中期に朝廷によってまとめられた律令の施行細則『延喜式』に記載されている官牧 檜前の牧が浅草の地にあったのだろうと推測している。延喜式・・・ご高名はよくうかがいます。ところでよく「何々によると。。。」と書いてある場合は、孫引きで誰かの本屋やHPに書いてあることをそのまま書くことが多いですが、僕は、読めなくても実際に調べてみることにしてます。なぜなら、本の背表紙を見て、中身を読まないのと一緒で、中身を読んでみると新たな発見があるかもしれないからね。延喜式の昔の体裁は読みにくいので、(国史大系第13巻内 延喜式巻第二十八より)左ページ最初:これが官牧(国の牛馬の牧場)で左ページ先頭:武蔵国にありますね。檜前馬牧が神埼牛牧とともに。つまり、檜前は、姓ではなく彼らが住んでいた土地名だと思う。なぜ、言い切るのか?なぜなら、前回、土師中知の回で触れたように天皇から与えられる姓は、氏族としての官職を伴っていたからだ。当時、関東以北は馬の産地で逆に関西以西は牛の産地だったという。馬は軍事力に非常に貴重なものであったので、朝廷は牛馬の産地に官営牧場を設置して、貢がせていた。そこで官営牧場と同じ名前の姓だとしたら、貴職についていなければ筋が通らない。天平15(743)年、墾田永年私財法で、それまで土地はすべて公収されていたものが、新たに開梱した土地は私有化を許可するこの勅以降、地方豪族や寺だけではなく朝廷から地方に派遣された氏族が赴任地で土地開発し土地の名前を姓(「かばね」ではなく、名前の姓)とするようになる。以後、姓が増えていくのだが、檜前は官牧の名前。もし官牧の名前を賜ることになった氏族だとした場合、馬の管理者か、落魄した氏族になったとしても飼育者関連(飼葉農家など)の職に従事するはずだ。だが、漁業従事者だ。では、武蔵国浅草から視線を放し、他に檜前を土地名または姓とする氏族はいるのか。檜前は、檜隈・日ノ隈・日前とも当て字されるようだ。遺跡や、古代ヤマト、手塚治虫の火の鳥などが、好きな人にはキトラ古墳という名前を覚えている人がいると思うが、このキトラ古墳がある奈良県高市郡明日香村(昔は、大和国高市郡檜前郷)に檜隈寺という寺があり、この檜隈は東漢氏(日本書紀・古事記の応神天皇の項で出てくる渡来帰化人の末裔)が住んだ土地だという。しかし、東漢人に檜前姓はないらしい。また、和歌山県にも日前(ひのくま)神宮という旧官幣大社があるが、この日前は同じ「ひのくま」だが素性が天照大神の時代にさかのぼる鏡が御神体なので系統がことなるように思われる。と長々書きましたが、檜前浜成・竹成兄弟の姓は、もともとは、「檜前村在住の」という意味だったのが、聖観音像を拾い上げて以来、奉仕する家系となり姓を名乗るようになったと推測する。(江戸名所図会 浅草寺の節分会の図より この柱の上から御札を撒いて大団扇をあおいでいるのが三譜代)浅草寺の節分に関しては、「#6 節分と豆まき」を御覧ください。第62代専堂坊であられた浅井知道氏の『浅草寺譜代物語』を読ませていただきました。土師中知・檜前浜成・竹成の血筋は、浅草寺の三社の三譜代(専堂坊、斎頭坊、常音坊)として現代まで続いておられた(!)ので、ぜひ、檜前兄弟の血筋に繋がる方々の言い伝えがあるようでしたら、お話を伺えれば嬉しいと思います。

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  • 19Jun
    • #23 (1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?【平安時代〜源頼義・義家編]

      こんにちは前回は、浅草寺の歴史で現れる平公雅と、平将門の乱に表れる武家の勃興を取り上げました。今回は、源氏の棟梁 源頼義・義家親子や源義朝・頼朝親子が現れる歴史を書いてみます。浅草寺の歴史には、以下の関わりが記されています。延久2(1070)年 八幡太郎義家、奥州征討の途次、浅草寺に詣で戦勝を祈り榧(かや)樹を植える。1142~55? 源義朝、浅草寺に参詣有り、承暦の火災時本尊のご避難された古榎材をもって聖観音像を彫らせ奉安する(現存)治承4(1180)年 源頼朝 平家討伐の戦勝を浅草寺に祈願する。ここで八幡太郎義家が奥州征討の途次に寄った1070年は、永承6~康平5(1051~62)前九年の役と、永保3~寛治元年(1083~1087)後三年の役の間だというになる。(後三年合戦絵巻 巻中部分 e国宝)まわりを見渡してみると、台東区には、浅草寺の他にご近所でもう一箇所、源義家が父頼義と立ち寄ったことを伝える鳥越神社がある。鳥越神社は何年に立ち寄ったかを伝えていないが民話が伝わっている。台東区教育委員会がまとめた『台東区むかしむかし』という民話を伝える本に詳しいので転記したい。「源頼義は義家をともない奥州の安倍貞任・宗任の乱を鎮める命をうけ大きな川が海に流れ込む地に辿り着いた。渡る方法が見つからず、野営は数日にわたった。ふと空を見上げると白い鳥が毎朝・夕 川を超えて行き来するのに義家は気づいた。翌朝、義家は川に入って渡ってみると対岸に渡ることができた。義家は、白い鳥が住処にしている小高い森に行って見ると、そこには小さな祠があり、ヤマトタケルを祀る白鳥神社があった。この地を白い鳥が渡河させてくれたことにちなみ鳥越と名付け鳥越大明神をおまつりした。」この民話から、思い起こされたことがいくつかあります。1.日本武尊命:蝦夷征伐と櫛名田姫の悲劇2.頼義・義家親子の鎌倉から奥州征討の道3.挙兵した頼朝が石橋山の戦いに破れ安房・上総・下総から武蔵に入る4.徳川家光の「首尾の松」にのこされたエビソードこれら4つのエピソードは、共に古代から近世までの東京湾と隅田川に関係しています。(3・4のエピソードは別の機会に)徳川家康が開く前の武蔵国は、荒川、利根川、平川と多くの川が流れ込む平野で渡河が困難だったという。江戸幕府は河川工事や埋め立て、堀・運河を整備して江戸を水運の発達した土地へと作り変えることで都市を作り出したが、それ以前の河口の低地は、複数の川によって分断された土地だった。だから国府も現在の丸の内周辺ではなく、多摩川の上流 府中にあったわけだ。京都から房総方面を抜けて東北へ向かう際に、武蔵国はその経路上ではなかったことが、神話の中にも読み取れる。それは有名な日本武尊命の奥州征伐に向かうルート。日本武尊命は、静岡県焼津から神奈川県横須賀市走水で船に乗り、東京湾を横断して上総に上陸の後、陸奥に向かっている。(東山道・東海道推定経路図 部分 出典「埼玉歴史の道50話」埼玉県博物館編著より)つまり、現在のように品川から海岸線伝いで千葉に回るという方法はとっていない。この有名な櫛名田姫の悲劇の伝説は、そのまま東海道の関東以北へ向かうルートになるわけだ。この東海道は、江戸幕府の制定した東海道ではなく、天武天皇の頃制定された京(みやこ)を起点とする(古)東海道です。日本武尊命が東京湾を渡ったルートは、上総・下総という名前や、古代律令制の道路にも現れている。国の名前に「上・下」「前・中・後」がつく国が多くある。例としては、中国地方なら「備前・備中・備後」。北陸なら「越前・越中・越後」、東北なら「上野・下野」。これらの国は、それぞれ元であった「吉備国」「越国」「毛野国」「総国」を朝廷がある京(みやこ)から見て、手前か奥にあるかで分けたことからできた国名だ。律令制で敷かれた五畿七道において、東海道の後半を構成する国々は、相模・安房・上総・下総・常陸(終点)。武蔵国は太平洋の海岸線の国であるにも関わらず、当初は東山道に属する枝道で、信濃から上野(新田)・武蔵(府中)・下野(足利)を通って奥羽へと北上した。武蔵国が東海道に再編成されたのは、宝亀2(771)という。日本武尊命が蝦夷征伐に向かった船で東京湾を渡るルートこそが東海道になったわけだ。つまり、武蔵を通る東海道の相模→武蔵→下総→上総というルートは、下総・上総が京からの距離を逆転して表していることからも、原初の道が海上ルートだったことを名前が伝え残すのは面白い。(ちなみに、房総半島の先端の安房は上総から割譲されたり統合されたりと一定しなかった様子)では、頼義・義家親子はどうか。二人が現在の台東区を横切るのは11世紀後期、上記の通り武蔵国が東海道に編成されたあとだ。なぜ、官道の東海道ルートを通らず、鳥越神社付近の海岸線近くを移動したエピソードが残るのだろう。というのは、上記で、武蔵が東山道から東海道に編成し直されたあと、東海道で整備されていた国の道路は、鎌倉から町田経由で府中にほぼ直線で北上。ついで東に転じて、豊島を通り、隅田川を現在の台東区白鬚橋あたりを渡し船で渡り下総の国府があった千葉県国府台に向かうはず。怪しいじゃありませんか、平直方から鎌倉の所領を譲ってもらい、その土地の相模守を任じられていた源頼義は1051年藤原登任の公認として陸奥守に任じられ下向している。公道を離れ、わざわざ、隅田川の河口付近まで南下して渡し船のない岸をどう渡ろうか思案するなんて、国家公務員の県知事にしては、それこそコソコソした野武士的で不自然だ。そこで、先程の推定図をもう一度参照すると、武蔵国を通る道は、府中を通過しない道がもう1つ推定されている。この詳しい道を『日本の歴史街道』楠戸義昭著の中で、頼義・義家の約100年後、鎌倉時代に整備された鎌倉街道の図説を発見した。頼義・義家は、鎌倉から後の【鎌倉街道下の道】を通ったことが、これで推定できた。芝から江戸前島を横断して鳥越に来て隅田川を渡河した。鳥越の北にある浅草・さらにその北 白鬚橋付近にあった【住田の渡し(橋場の渡し)】は通らない。う〜む、なんで、通らなかったんだろ。考えられるのは、当時、東北は俘囚(天皇に服従した蝦夷)安倍氏の乱がおきる一方、関東は将門を討った将門の兄弟たちの子孫が在郷武士として土地の名前を冠していくが、それぞれが勢力を拡大しようとする同族間の争いが起きていたと想像する。現時点では、これ以上11世紀の武士・貴族には深煎りしない。興味の範囲が広く広がりすぎて収集がつかないから(^^)義家が浅草寺を訪れている時(前九年の役と後三年の役の間)は、父頼義は、伊予守を退任して出家隠棲。義家自身は、1063年に出羽守、1070年に下野守に任官している。この1070年に浅草寺に詣でているわけだ。ここで下の地図を見ながら考えてみてください。赴任地が出羽から下野なら、東山道を下るだけだから、下野を通り過ぎてまで武蔵まで南下する理由はないでしょう。(ちなみに1083年に陸奥守に任じられ、その年から後三年の役がはじまる)’探訪 日本の歴史街道より七道諸国駅路の図の右半分)あれですかね?赴任前の実家帰国(^O^) 現代駐在員の地方間転勤のようなものかな? それとも、会議で京都の本社まで呼び出されたのかな? いやいや、任官の際は、一旦、朝廷まで呼び出されて、顔色・体調など確認された上で、辞令を直接、本部長(太政官あたり)から手渡しされたのかな?というわけで、いろいろ調べたのですが、義家は、父頼義と共に鳥越あたりを通過したかもしれないのですが、その後は、ほとんどずっと東北地方にいて、浅草寺と義家の関連性は、あまり明確な背景はまだ、見つけられていません。でも、おかげで、江戸時代の五街道とはルートが異なる律令時代の七道の知識を深掘りすることができた。道は、人が通ることで道が出来上がるといったような話を聞きますが、この東海道・鎌倉街道などは、まさに歴史の有名人が辿った道のあとに、道として整備されている気がする。今回は、地図だらけでした。(^^)次回は、源頼朝の挙兵!!

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  • 10Jun
    • #22(1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの? [平安時代〜平将門の乱編]

      こんにちは前回#21は、浅草に観音様が示現されて、円仁が浅草寺を訪れたことが、後世の江戸時代に徳川家という施政者が江戸を治める上で、浅草寺と浅草周辺の街に大きな影響を及ぼす事件の発端になります。という前振りをしました。今回は、家康がやってくる前までのお話。源氏と平氏(武家の時代オリジン) in 関東です。浅草・浅草寺は、徳川家康の江戸入府からは話題と資料に事欠かないので、観光案内では、ほとんど徳川家康以降の浅草・浅草寺を説明しています。じゃぁ、家康が江戸を作る前、浅草と浅草寺は、どんな歴史をたどっていたの? というのが、『各種案内を読んでからの疑問』です。なぜなら、江戸時代になるまで、江戸は、歴史の教科書ではほとんど登場しないから、このタイトルに直結する「なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?」つまり、どうして人が集まるようになったのかを知りたい。そこで、浅草寺のパンフレットや、境内に描かれた浅草寺の歴史絵にかかれている事柄を、歴史の教科書等などで出てきた事柄と関連させて書きます。家康が江戸に入る前の最大の出来事は、『平公雅が、浅草寺の現在の姿の原型になる伽藍を建てた』こと。浅草寺の起源となるのは、この駒形堂です。場所は、駒形橋のたもと、むぎとろの本店との間にあります。宮戸川(隅田川のこと)から引き上げられた観音様が最初に奉安された地に立つお堂と説明されています。当初、隅田川に向かって東に向かって立っていたといいます。ここに、足繁く立身出世を祈願しに参拝に来ていた平安貴族がいました。その人が、平公雅です。突然、聞いたこともない平氏の名前が出てきました。普通だったら、聞き流すところですが、これを調べないことには、はじまりません。いくら信仰心が篤くても伽藍を立てるということは莫大な資金が必要なこと。その尋常ではない背景は、『平将門の乱』です。では、平氏の家系図です。(歴史読本 源氏対平氏より)平公雅の祖父は、高望王流桓武平氏の最初の祖、高望王。第50代桓武天皇の曾孫である高望王は、平朝臣を賜与され臣籍降下(皇族が姓を与えられ臣下になる)した貴族。平公雅の父は、のちに平清盛が生まれる伊勢平氏の祖・国香と、江戸の地名に多くの子孫の名前を残す秩父平氏の祖・良文、そして将門の乱の将門の父良将の3人とは兄弟の間柄だ。(出典 同上)江戸名所『将門の首塚』や『神田明神』で有名な平将門の乱は、親戚の内輪もめから端を発した国家反逆罪。当時の勢力は上記の図の通り。将門の父は東北地方の鎮守府将軍だったが早くに亡くなっていた。父の兄弟たちは、嵯峨天皇源氏の流れを組むと推測されている前常陸大掾源護の娘たちを妻にしており、源護一族の常陸国土着化を援助していた。つまり、将門だけが、父の兄弟たちが持つ源護一族という共通政治基盤を持たず孤立していた。その折、将門が叔父良兼の女に手を出したのが『女論』と呼ばれる諍い。この【女】は、良兼の娘で、平公雅の兄弟だったと伝わる。つまり、平公雅と将門は、従兄弟同士であり、義理の兄弟。源護・平国香連合に対して、高望王一族ではない平真樹が将門に共闘を勧め、結果、将門が勝利。後の平家の棟梁清盛の先祖国香は、将門によって殺されてしまう。国香の後を継いだ将門の叔父/義父良兼は、弟良正に促され弟良文と共に源護側につき、将門討伐に乗り出す。この戦いは、朝廷の知るところとなり将門は弁明に京に上ることになる。帰国途上、興世王と源経基(源氏の棟梁の祖)と武蔵武芝が争いを知ると名誉挽回のため仲裁しようとしたが、意図せず謀反の疑いを朝廷から掛けられることとなり、次いで、悪政を敷き私腹を肥やした藤原玄明が将門のもとに転がり込んだことから、常陸守藤原維幾の引き渡しを拒むどころか常陸国府を軍勢で囲み常陸守を捕え印を略奪するという反乱を起こす。(金龍山浅草寺聖観音略縁起 上 竹内栄久編 明治16 国立国会図書館デジタル・アーカイブより)天慶(てんぎょう)3(940)年、将門征伐を命じる太政官符が発せられ、藤原忠文を征東大将軍、副将軍に前述の源経基を頂いた朝廷軍が編成される。また、平公雅と弟 公連、国香の息子貞盛という将門の3人の従兄弟達、藤原秀郷と、橘遠保が、坂東各地の三等官官僚『掾』に任じられると共に、反乱に対する武力鎮圧を任務とする『押領使』に任じられた。同年、2月14日将門は、平貞盛・藤原秀郷の軍勢との戦闘の中、矢を額に受け落命、反乱は、征東軍の到着を待たずに鎮圧される。この功績により、藤原秀郷は下野守・武蔵守・鎮守府将軍。平公雅は安房守に任じられた。同時期に瀬戸内海で起きていた『藤原純友の乱』という2つの戦は、臣籍降下された王の孫たちが、地方長官となった親世代とは異なる立身出世を模索する政治・武力闘争の渦中に起きた。結果、朝廷から「五位以上の殿上人としての官位」を得るために、「源氏・平氏・藤原氏」は、身内同士でしのぎを削る「武門の祖」となっていった。{純友は官位をチラつかせた朝廷の懐柔策により官位を得たが、将門は官位を得ることがなかった。他方、将門を討伐した押領使たちは官位を授かった)やっとこれで、浅草寺に戻ります。そう、浅草寺史には、天慶5(942)年 かねてより武蔵の国司への出世を浅草寺の聖観音菩薩に願っていた安房守平公雅は、藤原秀郷の後任として安房守から武蔵守に任じられたお礼に、将門の乱で荒廃していた浅草寺の堂塔伽藍を再建。この際に、それまでお堂(現在の駒形堂)のあった隅田川岸の崖っぷちはあぶないと、現在の本堂の場所に9m四方の本堂を建築。その際に、三重塔を含む七堂伽藍が作り、田園数百町を寄進したという。(金龍山浅草寺聖観音略縁起 上 竹内栄久編 明治16 国立国会図書館デジタル・アーカイブより)上の略縁起では、七堂伽藍はより詳細に以下の通り記載されています。本堂および宝塔・鐘楼・楼門・経蔵・法華常行の社壇を造立し、田園数百町と書いてあるようで、これは、江戸名所図会からの転記と思われる。ちょっとどこに記載されていたのか思い出せないのだが、この「法華堂・常行堂」が造立されていたことが、この時代には浅草寺が天台宗の寺院だったことを示していると書いてあったが、この2つのお堂を建てるのは平安時代の密教系寺院(天台宗と真言宗)の特徴とのこと。さて、長くなりました。平公雅は、浅草寺にとって重要な人物なのですが、彼が活躍した「平将門の乱(天慶の乱)」自体が、後世、天皇家の皇子の子孫達のうち武家として名を馳せていく家系の祖先がほぼ一同に会しているわけです。平氏が主に主人公でしたが、上記の勢力地図で相模を勢力とする源経基の子孫は、こんな家系図になります。下段の赤枠「義仲」は、平安時代末期、源義経と同時期に「木曽義仲」として後世に名を知られます。また、中段の八幡太郎義家の孫で緑枠の二人は、南北朝時代に活躍する新田義貞の祖(義重)と、室町幕府を興した足利尊氏の祖(義康)です。家系図を載せませんが、将門を討った藤原秀郷は、源義経を匿った奥州藤原三代の祖です。源氏ではないが、頼朝を支援し鎌倉幕府創設の立役者となり幕府執権となる北条氏が自身の祖先としていたのが、平直方(娘と源頼義の間の子が八幡太郎義家・義綱・義光「陸奥話記」)で、直方の祖先が国香の孫・貞盛の子:平維将。平直方が、娘とともに自領であった鎌倉を源頼義に譲り渡したことが、後年、頼朝に源氏のみならず関東各氏族の協力を得られた下地になっているようだ。(「詩林采葉抄」)ところで、なぜ平公雅は浅草寺に祈願したのでしょうか。ここは勝手な推測ですが、彼の祖父高望王と父は上総介。叔父(父の弟)は下総介。当時、武蔵国と下総国の境は隅田川でした。現在の墨田区(下総国)から対岸の(武蔵国)台東区をみると、まだ岸辺に建っていた浅草寺は、武蔵国そのものの象徴だったのかもしれません。伽藍が出来上がると「武蔵守が信仰した寺院・霊験あらたかな寺院」として名を馳せることになったのでしょう。次は、同じ平安時代 前九年の役に向かう源頼義・義家親子を追います。なかなか江戸時代までいきませんが、忘れないように方向性最後に、#19でリストした子供の頃からの関心をあらためて書いておきます。★ なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの? ⬅ 今回はここ。次回も続きます。★ 猿若町って変な名前・・(歌舞伎)★ 吉原って、どうして風俗街?★ 浅草の北側は、履物の町★ 山谷(周辺)って、浮浪者だらけで怖い★ あしたのジョーの町 ★ 当然ですが、お祭りと縁日の町 

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  • 08Jun
    • #21(1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?) 【平安時代〜仏教の変遷編】

      その最初の★の原点「浅草寺の起源で気になる点」1.起源は、推古36(西暦628)年~江戸最古の寺と2.三譜代はどのような素性の方~土師中知を前回 #20でまとめてみました。江戸最古の浅草寺は、人気観光地のお寺の創立で並べるとこうなります。浅草寺は、江戸最古であるのだが、仏教伝来後建てられ、現在まで存続している著名な寺院としては、最も初期です。「全国に国家鎮護のための国分寺を建立せよ」との聖武天皇の勅 天平13(741)年に従って建立された武蔵国の国分寺跡が、浅草寺が伝える創建年より1世紀もあとだ。そして、武蔵国分寺は残っていない。また、著名寺院の創建者の名前にも注目。浅草寺以外は、いずれもその時代の権力者または、頂点の高僧達だ。それだけ、浅草寺が特異な寺院であることがわかる。当初、浅草寺の宗派は律宗だったと伝わる。律宗は、最澄が唐で修めた天台宗、空海が同じく唐で修めた密教がもたらす前に伝わった仏教で、唐から幾度もの渡航失敗の末に来日した鑑真和上は、律宗の僧侶です。その後、遣唐使・最澄と空海が唐から帰国して、仏教の中でも特に、当時最先端の仏教だったという大乗仏教の密教が天皇・大和朝廷に国家鎮護宗教と認められ、その呪術的祈祷を行ったと言われる。『天照大神を祖先とする天皇家という氏族』の立場は以下のように変化する。(奈良県 檜原神社(元伊勢)〜10代崇神天皇が豊鍬入姫に命じて宮中から天照大神を遷座する地を探す旅にださせた仮宮。その旅の終着地が伊勢神宮)『氏族が自分の祖先をまつる』または『恵みや災いをもたらす神を鎮める』神社を祀る時代  ↓口伝の神話を書き起こし「統一した歴史神話」として臣従者(非征服者を含む)に知らしめる古事記・日本書紀(諸説アリなんだけど)時代  ↓自らの出自への信仰(神道)に並行して仏教(大乗仏教)を天皇家自身が信仰する時代  ↓そして、ヒンドゥー教を否定することから発生した原始仏教が、ヒンドゥー教と交わることで生まれた密教が日本に輸入された時代(この一文の意味は、別の機会で説明します)(比叡山延暦寺の根本中堂:大きすぎて正面からは撮影できなかった(^^)(内部を拝観できます。なかは、宇宙空間に立体曼荼羅を出現させたような異世界)  ↓いつの頃からだか定かではないが、本地垂迹(日本の八百万の神々は、さまざまな仏教の神が化身として日本に現れた姿~権現である)という都合のよい統合論が染み込んでいく。(例:天照大神は大日如来)さて、なんでここで、こんな話を浅草寺話題でするかというと、浅草寺がお寺だからです。そして、浅草が栄えた町になる理由は、この宗教性「聖」と、その対局「俗」があるからといえる。「平安初期の天安元年(857)、比叡山第3世天台座主慈覚大師円仁さまが来山した。 秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わる。」円仁は、最澄の弟子で自らも唐に渡って密教を学び、最澄の持ち帰った天台密教を完成させた高僧。彼の著書「入唐求法巡礼行記」は、マルコ・ポーロ「東方見聞録」、玄奘三蔵の「大唐西域記」と並ぶ「東アジアの三大旅行記」と言われ当時の唐の市井や寺院の生活から官僚や外国人にいたるまで詳細な日記で興味深い。そんな天台密教の最高指導者(天台座主という)が中興開山なのです。(円仁の旅行記の研究所『唐代中国への旅』の著者は、元駐日アメリカ大使でハーバード大学教授のライシャワー博士)僕は、浅草寺史での円仁のくだりは、気にもとめていませんでしが、のちのち大いに関係してきます。密教は、ヒンドゥー教(カースト制度前提の宗教)を取り入れた仏教。ここに、「聖・俗」に加えて、「貴・賤」さらには「不可触民」という依然現在でもインド周辺国に厳然とある思想が根ざしています。つまり、浅草寺は、今後を大きく左右する天台宗という線路に乗ったわけです。時代は下って江戸時代、天台宗だった浅草寺が、上野の寛永寺の配下に置かれる。線路の先には、大きなターミナル駅が現れたようなものでしょう。(東都名所 上野東叡山全図 一柳斎広重 国立国会図書館)上野の寛永寺は、山号を東叡山といい、意味は東の延暦寺。宗派は天台宗。3代家光が建て天海が開山した寛永寺は、後水尾天皇の皇子が第3代貫主に、のちに天台座主になられる。以後、明治維新を迎えるまで天皇の猶子が輪王寺宮(宮家)として本山である比叡山・日光山・東叡山の頂点である天台座主を兼ねます。必然的に、浅草寺は輪王寺宮天台座主もとに。しかし、決定的になるのは・・・浅草寺の歴史を語る際に、そのほとんどが徳川家康以降の歴史に終始しますが、それは、まさに波乱万丈だからです。その話は、また別の機会に。明治天皇が京都を離れ江戸に遷座されて大騒ぎは、いまでも京都の人には大騒ぎだろうが、天台宗を信奉する王侯貴族にとっては、天台座主が比叡山延暦寺から離れて、明暦元年(1655年)から江戸にいたなんて、もっとショックだろうな。その輪王寺宮の別当の居住したところが、浅草寺の本坊 伝法院です。そう、普段はお目にかかることができない国指定重要文化財の庭園があるところですね。浅草っ子には、浅草寺幼稚園のあるところです(^^)浅草という町が、なぜ、東京(江戸)といえば、浅草観光なの?という答えは、この浅草寺の持つ、「聖」と、「聖」が成り立つために必要な反対の概念「俗」。そして、権力の正当性の背景を血統で証明、維持するためには「異なる血統」「異なる身分」間の交配を制限し、「貴・賤」を具体的な「枠(わく)」内に押し込む。これが、征服者が社会安定後に図った統治手法で、その形が江戸では江戸城内と、浅草周辺といえます。枠組みされた「聖・俗」「貴・賤」を述べる前に、もう少し、次回は、徳川家康入府以前の浅草寺と浅草周辺を掘り下げます。最後に、#19でリストした子供の頃からの関心をあらためて書いておきます。★ なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの? ⬅ 今回はここ。次回も続きます。★ 猿若町って変な名前・・(歌舞伎)★ 吉原って、どうして風俗街?★ 浅草の北側は、履物の町★ 山谷(周辺)って、浮浪者だらけで怖い★ あしたのジョーの町 ★ 当然ですが、お祭りと縁日の町

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  • 06Jun
    • #20 (1.なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?) 【奈良時代以前〜江戸最古の寺編]

      #19でリストした、子供の頃からの関心★ なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?★ 猿若町って変な名前・・(歌舞伎)★ 吉原って、どうして風俗街?★ 浅草の北側は、履物の町★ 山谷(周辺)って、浮浪者だらけで怖い★ あしたのジョーの町 ★ 当然ですが、お祭りと縁日の町その第1番目から行きたいと思います。浅草観光といえば、その名も浅草の名前を関した浅草寺です。浅草寺の起源は、よく目にする通りです。(^^)端折っちゃう。浅草寺HP を御覧くださいhttp://www.senso-ji.jp/about/浅草寺の起源で気になる点は、ひっくるめると以下になります。1.起源は、推古36(西暦628)年〜江戸最古の寺2.三譜代は、どのような素性の方3.平公雅は、どのような素性の方4.徳川家康より入府まえの浅草周辺〜足利氏・後北条氏では、最初の回は、「1.起源は、推古36(西暦628)年〜江戸最古の寺」に関して。推古天皇は、歴史の教科書の通り、古事記・日本書紀に現れる歴代最初女性天皇で第33代天皇。第30代敏達天皇と自身の間の息子 竹田皇子亡き後、皇太子にしたのが厩戸皇子(聖徳太子)ですね。仏教に深く帰依した皇族として著名な聖徳太子の没年は推古30(622)年。仏教の伝来は、諸説あるが、渡来系氏族を政治力の背景にもっていた蘇我氏(大臣・蘇我馬子)と、古来からの近習であり古代神道の神事に関わっていた物部氏(大連・物部守屋)・中臣氏が反目していた時代。この両勢力は用明天皇2(587)年 丁未(ていび)の乱で、蘇我氏側(厩戸皇子も参戦)が勝利を収め、朝廷内において物部氏・中臣氏は力を失っていく。【浅草に関係ないが、これ関して興味深い話は、欄外サイドストーリー1】。この年に、蘇我馬子が発願したのが飛鳥寺。この戦いの際に厩戸皇子が勝利を祈り「四天王を安置する寺院を建てる」と請願を立て乱の勝利後建立されたのが、大阪の四天王寺。となる。だが、この時期はまだ天皇家・朝廷あげて仏教を帰依するにはなっていなかった。それは、天平13(741)聖武天皇の『国分寺建立の詔』としてもよいだろう。浅草寺の聖観音菩薩像が宮戸川(隅田川)で引き上げられた時代の仏教は、渡来系氏族や、一部の豪族が信仰する宗教だった。(『絵本 金龍山浅草寺千本桜 上』奥村政信〜国立国会図書館アーカイブ)では、なぜ、檜前浜成・竹成兄弟が引き上げた像を、郷司 土師中知は聖観世音菩薩像だとわかったのか。上段で長々と書いた全ては、奈良・摂津(大坂)で起きていたこと。渡来系が多く在住していたと言われる琵琶湖周辺からも遥かに遠い武蔵の国で、なぜその知識を持っていたのかという疑問があがります。この点に関しては、浅草寺の貫主を務め『浅草寺史談抄』をまとめられた網野宥俊氏も、土師中知が姓が示すとおり土師氏であり都にいたのだろうと推測されている。なぜ、そういえるのかというと、それは土師氏の名前の由来が『日本書紀』にある。古代の氏族 土師氏の祖先、野見宿禰は、第11代垂仁天皇の后がなくなった際に、それまでの慣例である古墳に生きたひとを埋める殉死の代わりに埴輪を作らせ埋めることを提案。天皇から「土師」の姓を賜った。このことから、土師氏は、古墳造営や葬送儀礼を司った家系。姓・身分・職は、古来より明治に至るまで切り離せない。【ここは、非常に大きなポイントだ】野見宿禰は、天皇家一族の葬送儀礼を一手に引き受ける莫大な権益を子孫に残すことができた。しかし、他方、野見宿禰が予想することなどかなわない重い身分の負担が彼の子孫 土師氏に降りかかることになる。【浅草に関係ないが、これ関して興味深い話は、欄外サイドストーリー2】(奈良 崇神天皇陵 この第10代崇神天皇の子が第11代垂仁天皇)そんな土師氏がなぜ、都(奈良・京)を離れ、武蔵の国にいるのか?歴史の教科書を思い出してほしい。3世紀後半から西日本に古墳が作られ続いて近畿地方に大規模な王墓が作られる。この頃から鏡や鉄製品などともに埋められるのが土師器だ。その後、近畿地方を中心に日本各地で大規模な前方後円墳が6世紀まで作られたが、7世紀になると規模を小さくした円墳や方墳が近畿・西日本で作られ、関東・東北地方では8世紀まで作られた。この地方に作られた古墳は、王族のものではなく地方豪族のもの。ここから、類推されることは、皇族の葬送儀礼に対する考え方が変わったといえる。皇族内では墳墓の大きさで権威を表した時代から、葬儀自体を簡素化する(大化2年 薄葬令)一方、臣従する地方の豪族に皇族と同じ墳墓を作ることを認める名誉欲を満たせてやることで一層の服従を強要したのであろう。また、近畿の7世紀に注目すると、これと時を同じくして、上段に述べた皇族と朝廷内における仏教の帰依が九州から関東北部まで拡がり、それが火葬の風習を広める結果も関連していたようだ。この意味は、土師氏の職は、当初大王とその親族達に奉仕する必要不可欠な職制だったが、皇族の墳墓が簡素化または作らないとなると、その役割である葬送儀礼を担当する、または、埋葬品を作る職人という地位が、朝廷内では下がってしまったのだろう。対して、「皇室の」という名誉部分が抜け落ちて、地方豪族からの埋葬品を作る需要は増える。土師氏の直系子孫は朝廷内の職に留まったとしても、傍系子孫は地方にその技術職を活かすため全国に拡がっていったことが容易に想像できる。もとにもどると、土師中知がなぜ仏教の仏像を知り得たか。土師中知の代まで彼自身が埴輪を作って古墳造営に携わっていたかどうかは疑わしいが、台東区でいえば上野の山の摺鉢山古墳が単独ではなく古墳群の一部だったことや、隅田川沿いの微高地だった鳥越でも古墳時代の遺跡が見つかっている。土師中知は家業の衰退と仏教の萌芽を感じていたと思われる。2.三譜代はどのような素性の方?の土師氏まで話が及んでしまった。長くなりましたが、読んでくださった方ありがとうございます。サイドストーリー1:物部氏は、大和王朝の軍事豪族、中臣氏は神事・祭祀を司る神祇官。後年、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新 大化2(646)の功労者となる藤原鎌足は、存命中は中臣鎌足といい、丁未の乱以降、朝廷の中央政権から祭祀の際に祝詞を用意する中臣氏の嫡流を配してしまったので、傍流の中臣氏を頼り、鎌足にも祭官につくように勧めたが固辞したと伝わる。そして、天智天皇より藤原姓を賜り中央に進出したのは、藤原鎌足次男の不比等で、藤原姓を名乗り太政官になれるのは不比等の子孫だけにとどめ、他の中臣氏子孫は、中臣姓のまま引き続き神祇官を務めたという。藤原不比等またはその子孫が、春日大社を造営するが、御祭神は藤原氏の御祭神鹿島神宮の武甕槌命を遷している。この時、神の使いである鹿に載せて運んだ。つまり、春日大社でみられる鹿たちは遠く茨城県鹿島から武甕槌命に従ってところ移りした鹿たちの子孫ということになる(^^)。サイドストーリー2:土師氏の子孫に、天満宮・学問の神様で有名な菅原道真がいる。なぜ、子孫が菅原氏なのかという理由が、ここではむしろ重要。ここは、本件の主要ではないので興味のある方は、wikipediaの「藤原古人」「秋篠安人」「大枝諸上」の項を参照すると簡単に概略はつかめる。なぜ、子孫が土師氏の姓を離れ姓を変えることを望んだのか。ここに以降見られる「差別」の1つの原初の形が見られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原古人秋篠安人https://ja.wikipedia.org/wiki/大枝諸上

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浅草・上野界隈で育つ。子供の頃目にしていた現在の町の地図の上に、地場産業の地図や、文化・歴史の目に見...

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