こんにちは

ご無沙汰しております。

 

新型コロナウイルス・ネタも世間では尽きて「あ〜それね」的になっているこの頃。

僕は、大学がオンライン授業になったため、文献資料も図書館巡りをしてあちこちから借りてこれないという状況下で、学業のクオリティはそれほど高くありませんでした。

 

ただ、受講した講義はどれも面白かった。

振り返って青春時代の大学生活は、学業以外の趣味を楽しむために選択したこともあり、大学の授業自体になんら面白みがなかった。卒業するために受講して卒業したようなもんだ。でも、楽しむために大学を選んだその方面での結果は、むしろ就職に有利に働いたし、実際仕事も望んだ業種で仕事をできたので、よい結果を得られる選択をしたといえます。 何事も結果をよく捉えれば、どんな選択でも自分の選択には間違えはなかったといえてしまうのかもしれません。

 

でも、社会人を経験して、いま、やりたいことに沿った授業を大学で受講するというのは、「勉強って、こんなに楽しかったのか!」っていう、まさに世紀の大発見です。(^o^)

 

さて、本題に移りましょう。

 

前回予告は、#52の日葉酢媛命の話の前、#51の聖天様の中で「浅草寺・待乳山聖天の原初の形をさぐってみよう」でした。

 

いままで、毎回、1話完結か、3話完結形式で、ブログを綴ってきましたが、まずは、これまで気になっていて、調べたことをざざざっと、書いてみようと思います。

 

僕らは、目の前に見えるものを「むかしから、こうである」「むかしから、そう言われている」を鵜呑みにし過ぎる傾向がある。

簡単に言うと、浅草寺は、昔から今の場所にあんなに巨大建築だったわけではないわけで、では、どんなだったのか、を浅草寺に伝わる幾つかの縁起などや江戸時代から伝わる研究資料等から探るのが、このブログの目的です。

 

では、書き出してみましょう。

 

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まず、奈良時代の話とされている、浅草寺の縁起譚。

 

誤記を避けるために、浅草寺のホームページより、直接転載しましょう。

 

「時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、
はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)は
これを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、
自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。」

(浅草寺ホームページより https://www.senso-ji.jp

 

上記が今現在の浅草寺の公式見解です。

この「今現在の」浅草寺という点がポイントで、実はずっと浅草寺の創立縁起がこうだったわけではありません。

書かれている骨子は同じなのですが、微妙に違うのです。この微妙な違いが、いつ生まれたのか、どこで改変されたのか、元はどうだったのか、など疑問が生まれ、追求していくことになります。

 

そこで、最初の疑問は、土師中知の自宅はどこだったのか?

「え?そこ?」と思った方も少なからずいると思うのですが、伝承は、何もないところからは生まれないものです。

わざわざ、上段の縁起に書いてあるということは、「自宅を改めて寺となし」は重要だと古の人たちは深く考えたから、口伝えからはじまり文字になり、縁起として時代ごとに何度のも形を変えてまとめられて、現在に残ったと考えれれるのです。

 

浅草や浅草寺・三社様の浅草神社に少し深くご縁のあるかたなら、思い当たる場所があります。

そうです、駒形橋のたもとにある駒形堂ですね。

そして、再び参照しますが、浅草寺のホームページにも駒形堂の由来が詳しく説明されていますので、こちらも参照しましょう。

 

浅草寺発祥の地

駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。

(浅草寺のホームページより tps://www.senso-ji.jp/guide/guide16.html)

 

こう書いてあるのだから、問題解決!と、普通はここでおわりです。

ところが、浅草寺が大切に保管している紙本着色浅草寺縁起絵巻(伝応永縁起)というものがあります。

その縁起には、こう記されています。

 

檜前の浜成・竹成の網に観音像がかかったあとの文章は、以下に続く

「宝冠瓔珞蕩々として金色荘厳篤々たり。左に蓮花を持し、右に無畏を施したまふ。又五色の雲なひき、四華の露かふはし。これによりて漁師さらに機縁のあさからさる事をおもふに、信心ふかくもよほされて、一たひ霊容を拝したてまつるに、数行の涙におほる。いよいよ掌をあはせ頭を低て海人のかりそめふしの廬のまろ屋をあらためて、観音の濁にしまぬ蓮葉の台とそえせりけり。」第一巻第一図

ここで、最初に観音像を安置したのは、漁師の仮屋だったと伝えている。

 

そして第一巻第二図には「同十九日、浜成等霊像にむかひ奉り、掌を合て遊魚をのそみ其祈の詞にいはく。」と豊漁を観音像に祈願すると、たちまち豊漁になったことから、以下に続く。

「舎屋の男女貴賤おなしく観音の威験をあふきれり。これによりて旧居のすみかをあらためて、なかく新構の寺とす。彼時の土師の真中知、浜成、竹成は今の三所権現是也。」

つまり、寺になるのは漁師の仮屋から移転後ということになる。

 

この応永縁起は制作年が明記されおらず、学界では浅草寺の歴史考証の第一人者である網野宥俊氏の

永禄年中(1558〜70)と推定を支持している。

 

こうなると、浅草寺ホームページの公式見解では詳細に記されている事と、室町時代末期に制作されただろうとされる縁起絵巻に詳しく記されていることに違いがあるのが、おわかりいただけるだろう。

そう、浅草寺に保管されている縁起絵巻は、この伝応永縁起絵巻だけではないのです。ただ、この縁起絵巻が他の江戸時代に制作されたとされる慶安五年(1652)絵巻、寛文2年(1662)絵巻や、承応縁起と呼ばれる承応3年(1654)の紙本と比較して最も古いと想定されているのです。

 

つまり、現存する最古と考えられる縁起絵巻には、「今現在」の公式見解に書いてあることと共に、書いていないことも書いてある。ということになります。

 

そうなると、駒形堂の建つ場所は、漁師の仮屋なのか、それとも新構の寺とした場所なのかという疑問が生まれる。いや、漁師の仮屋=新構の寺なのだ、読み取る人も出てくるはずだ。しかし、「今現在」の公式見解をみると、浜成・竹成の漁師の家ではなく、土師中知が自宅を改めて寺とした、と書いてるぞ。

 

ほら、辻褄があわないでしょ?

 

と、長くなったので、このあたりで止めて、次回に続くとしましょう