びっくりした。不思議な縁というものを感じることがあるものだ。

 先日の金曜日に、「さて次回予告した原始の浅草の話をおさらいしようか」と網野宥俊著『浅草寺史談抄』を読み直していたら・・

 

 「元来土師氏は野見宿禰に賜った姓で垂仁天皇二十七年(296)七月に皇后の日葉酢媛命が崩御のさい、宿禰の進言により、ハニワをもって殉死にかえ、掟とされた時に、土師職に任ぜられ、土師臣の性を賜ったもので、その折出雲の国から百人のハニワ造りが召されたことが書紀に見えている」(『浅草寺史談抄』より)

 

出典(国際日本文化研究センター HPより)

http://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/scaleupimage/?gid=GL026541&book_group=000062570&hid=1773&p=541&thumbp=

 

 浅草三社祭。三社様の筆頭である土師中知(名前に諸説あり)の祖先を語るエピソードです。この垂仁天皇と野見宿禰・埴輪をつくるエピソードは日本史の授業で古代の古墳と埴輪で取りあげられるかもしれない有名な話なので、読み流すはずが・・・?!「日葉酢媛命」?! 

 

 そう、ここで(!)を受けたのです。

 

 それは、先月2月に、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館を見学に行った時に話はさかのぼる。大学の歴史学の講義の中で頻繁に出てくる博物館で、全く存在を昨年まで知らなかったので初めて訪問したのでした。

 

 そこでの莫大な展示品の中で、最も気に入った展示品が古代の鏡です。有名な三角縁神獣鏡など大学博物館でも10点ほど常時展示されているので素通りしそうになったら、見慣れないデザインの鏡があり凝視したのです。そこには、中国の古代遺物に掘られているような文字のようなデザインが彫られていて、これは一定の法則などがあるのだろうかと、写真に撮影して後日自分で書き写してみようと思ったのです。

 

 それが、これ。佐紀陵山古墳出土資料(奈良県 佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の鏡を復元複製したもの。オリジナルは宮内庁書陵部が所蔵している。

 

(内向花紋鏡系和鏡 国立歴史民俗博物館所蔵)

 

 ほら、「日葉酢媛命陵」って。

 

 そこで、家には日本書紀は所蔵していないが福永武彦著『現代語訳 古事記』(河出文庫 2003年)があるので、日葉酢媛命の項を探してみました。ここは、原文で読むほどの正確さは必要ないので現代語訳で。

 

 「またその太后であるヒバスヒメノ命のなくなった時に、職としての石の棺をつくる石棺作、埴輪や土器をつくる土師部などの部の民を、それぞれ定めた。

 この后は、狭木の、寺間の陵(奈良市山稜町、佐紀陵山古墳か)に葬った。」

(古事記 中巻 42垂仁天皇の「時じくの木の実」より)

 

 古事記では、日葉酢媛命は比婆須命と日本書紀とは異なる当て字が使われているが、確かに、古事記にこう記されているから、平城京の北側、佐紀町(古事記では狭木)にあるこの陵墓が佐紀陵山古墳に比定されたのでしょう。

(google mapより)

 笑っちゃうのは、この場所は近鉄奈良線 大和西大寺駅に近い場所にあって、僕は仕事柄、両手では足りないほど大和西大寺駅の近鉄奈良店に行っていたのでした。

 

 江戸浅草の歴史を調べていて、直接には関係なさそうな、スポット・スポットや点と点が、あるとき直線で結ばれる発見をすると、これは何かの縁なのではないかと信心深くなってしまいます。

 

 奈良の古墳遺跡、千葉の博物館にある鏡、そして浅草の三社様。それをつなぐのが日葉酢媛命という古代の女性なんて、なかなか思い当たらない関連性ではないでしょうか。

 

 また、古いことを調べながら新しい発見をするというのは楽しいことだなぁ。と、つくづく思った次第。