あれ? 大根や巾着の話題が無く終わった!と思った地元の皆さん、お待たせしました。



待乳山聖天のシンボル・マークといえば、二本が交叉する二股大根と、巾着袋です。
待乳山聖天のHPに、大根と巾着袋の示す意味が書いてあるので、こちらを読んでいただいた上で、以下もう少し深ぼります。

(大根がたくさん奉納されている)

 

【なぜ大根?】

前回でも紹介した『聖天信仰のすすめ』(宗教法人本龍院教科部 1995年)の「大根まつり」の項に解説があるので、以下参照します。

「大根は同じように、他の食物とよく調和いたします。そして私共の健康を損なうようなものを中和して、消化を助けるという働きがございます。

 そこで、大根は、尊天様の和合の精神を象徴するものとして、密教では三昧耶形(さまやぎょう)と申しまして、尊天様ご自身がお手にお持ちになっておられます。」

(四臂のガネーシャ神像 『歓喜天(聖天)信仰と俗信』より)

 

 待乳山本龍院が地元聖天町会との協賛で開催した浮世絵展の内容を江戸東京博物館の協力でまとめ発行した『浮世絵画集 名刹 待乳山聖天と周辺地域』(待乳山本龍院 2014年)に、大根については、以下の通り記載しています。

 

 「さて大根は、聖天さまへ必ず供える三種供物のひとつです。大根は、(いかり)(激情)の煩悩を表しており、その煩悩の大きな力を大根に託して聖天さまにお預けし、慈悲・和合の心に返していただく意味があります。

 また大根には消化を助けるはたらきのあることから、心身の健康のシンボルにもなっています。」

とは、いうものの、既に聖天さまの尊像が双身象頭人身像だと説明したので、大根自体の効能は後付けで、本来の由来は、聖天またはガネーシャ神由来の理由によると推測すべきでしょう。

 

【本来は大根じゃなかった】

 笹間良彦著『歓喜天(聖天)信仰と俗信』(雄山閣 1989年)は、歓喜天(聖天)を仏教にとどまらずヒンドゥー教のガネーシャ神に遡って起源を解き明かそうとした書で、このブログの知りたい趣旨にあった資料を提供してくれているので紹介しよう。

 

 「『大聖歓喜天使咒法経』では、阿伽木を取ること、一指節長の如し。四臂天を剋作し虫衣を着す。頭に七宝冠を戴き、右手は鉞斧を把り、また上手は歓喜団の盤を把る。左手は棒を執り、下手は牙を執る。左辺の牙は折れ、その嘴はめぐ(堯に辶)りて歓喜団を取る勢いあり。」とある。歓喜団については、後ほど巾着のところで解説する。ここの指摘は、四臂の歓喜天の姿を表現しているが歓喜天が持つ『牙』と、その表現が注目ポイントだ。

 

 笹間良彦氏は、「ガネーシャはエーカダンタ(一牙)という名前もあり、一本の牙をあらわし、一本は欠けた貌で表現される。これについてはインド神話では、

 パラシュラーマ(戦斧をもっているラーマ)がシヴァを訪ねてカイラーサにやってきたときにシヴァは眠っていた。その部屋の外にガネーシャは番をしていたが、ガネーシャはパラシュラーマを知らないので入室を拒んだ。そのために口論になり争いとなった。パラシュラーマは怒って手にした戦斧をガネーシャに投げた。ガネーシャはパラシュラーマを撃退することは手易いことだったが、その戦斧は父シヴァがつくったものであるから、無力な武器であることを知られたくないので、わざと牙で戦斧を受け止めた。そのために一本の牙は欠けてしまった。」と、ヒンドゥー教のプラーナと呼ばれる聖典の一つ、パドマ・プラーナを紹介している。

 

 ヒンドゥー教の神ガネーシャ(歓喜天)がもっている牙が、仏教に取り込まれ密教になり、日本に伝わったどこかの時点で、仏像の解説で歓喜天が蘿蔔根(らふくこん=大根)を持つと説明することになったのだろう。

 

【なぜ巾着?】

 次に、巾着にいってみよう。

 先に紹介した『浮世絵画集 名刹 待乳山聖天と周辺地域』に「巾着はもともとは聖天さまの三種供物のひとつ歓喜団(かんきだん)(聖天さまに供える菓子)が巾着のような形をしていたことから、シンボルマークとして転化したもので貪り(むさぼり)の煩悩を表しています。大根の場合と同様、その煩悩の力を歓喜団に託して聖天さまにお預けし、向上心として返して頂く意味があります。転化した巾着は財布を表していて、商売繁盛・事業繁栄のシンボルとなっています。」と説明しています。こちらは、歓喜天のお経『大聖歓喜天使咒法経』に沿って現代的に転化したことを認めた説明になっていますね。

(ガネーシャ・チャトゥルティ祭で歓喜団がお供えされたガネーシャ神 『歓喜天(聖天)信仰と俗信』より)

 

【財布じゃなくて食べ物】 

 さて、この歓喜団。多くの歓喜天(聖天)を解説するブログにも掲載があります。それは、お菓子だと。

 

 京都祇園の和菓子司 亀屋清永の代表菓子としても皆さん紹介されています。

 とても、詳しく紹介されているので、亀屋清永のHPリンクを貼り付けます。

https://kameyakiyonaga.co.jp/year01.html

 

(亀屋清永HPより清浄歓喜団)

「奈良時代に伝わった唐菓子の一種「団喜」です。略して「お団」と呼ばれています。 数多い京菓子の中で、千年の昔の姿そのままに、今なお保存されているものの一つで、この「清浄歓喜団」なしに和菓子の歴史を語ることはできません。 
亀屋清永はこのお菓子を製造する日本で唯一の和菓子処です。

「清め」の意味を持つ7種類のお香を練り込んだ「こし餡」を、米粉と小麦粉で作った生地で金袋型に包み、八葉の蓮華を表す八つの結びで閉じて、上質な胡麻油で揚げてあります。

伝来当時は、栗、柿、あんず等の木の実を、かんぞう、あまづら等の薬草で味付けしたらしく、小豆餡を用いるようになったのは徳川中期の後と伝えられています。」

 

と、詳しい説明をHPでされています。

 ここで、僕は餡こが好きなことから、お茶や和菓子について調べていたことがあり、和菓子のルーツを調べてメモした手帳があるのを思い出しました。以下は、数年前の読書メモのため著者と出典先の本のタイトルがわからないのですが、詳細に転記します。

 

菓子の歴史:

 古来、木の実、果実を常食としていた。「水菓子」というように、菓子は本来、木の実、果物、またはそれを材料とした餅や団子を保存食として木の実をつぶし、水にさらして団子状にしたものを加熱したと考えられ、それに植物の蜜や果実の汁で甘味をつけて味わった。

 

外来菓子

 遣唐使がもたらした唐菓子。平安時代中期(承平年間 10世紀)に纏められた『和名類聚抄』に「梅枝、桃枝、桂心、団喜、椿餅、環(偏が王ではなく米)餅、餛飩、煎餅と果餅」が記載されており、祭祀用として用い尊ばれた。

 

 上記の団喜が、これまで話してきた、歓喜団だと考えられています。巾着の原点はここにあります。

 

 と、なんだかんだと、待乳山聖天の大根や巾着にいちゃもんをつけたように感じられるでしょうが、そうではありません。なぜなら、大根や巾着を聖天さまのシンボルとしているのは、なにも待乳山聖天だけではないのですから。現代・現在に続く庶民信仰は、その祈り自体とその継続が大切であり、僕は敬わなければならないと思います。神さまは、敬う人びとがいることで力を得えるのだから。

 僕が知りたいのは、現代の姿として目に映る、文字に残る、または、その下に語られず、忘れ去られた江戸時代以前の東京・江戸・浅草周辺の姿を探して、どう現代につながっているかを知ることです。

 

 ここまで調べてくると、空海・最澄の遣唐使の帰国よりも早く創建された浅草寺よりも、また、その前に信仰の対象となった待乳山聖天は、その時代から継続的に大聖歓喜天を信仰していたのではない可能性が高い。理由は、牙を大根、歓喜団を巾着と間違って伝わるはずは原始伝来時点では考えられないからだ。

 

 また、「文徳天皇天安元年(857)、天台宗中興の祖、慈覚大師円仁、東国巡業の折、当山に参籠して21日間の浴油の修法を行い国家鎮護の祈願をされ、さらに供養法にのっとり、赤栴檀(しゃくせんだん)を用いて十一面観音菩薩の尊容を彫刻されたと伝えられている。」と『浮世絵画集 名刹 待乳山聖天と周辺地域』に縁起を記されているが、僕は十一面観音菩薩が主であり、聖天は従、ひょっとすると教えは無だったのではないかともおもう。

 

【慈覚大師を引き合いに出すのなら知識は人並みでは済まされない】

 慈覚大師円仁がだれなのか。円仁が何者なのかを知ると、円仁・大聖歓喜天・大根・巾着を一貫したコンテクストで語られることに無理があることが気づかないわけにはいかない。

 

 円仁をこのブログのどこかで引き合いにだしたようにおもうのだが、もう50話も書いていると、どこに書いたのかわからないので、あらためて書きますと。

 

 東洋の三大旅行記と言われる日記を残したことで世界的に有名な著述家でもある円仁は、天台宗の開祖最澄に15歳で弟子入りし、承和5年(838)に唐に渡り仏教の聖地五台山などで天台密教を9年に渡り学んだ天才です。

 

 

当然、師である最澄が空海の持ち帰った経典を借りて写経する中で、理趣経と呼ばれる経典を空海が貸しだすことを拒否し最澄自らが空海のもとで学ぶことと求めたことから絶縁したことからことも知っているはずです。その場合、天台密教の叡智の結集を収め天台座主ともなろうかたが、煩悩即菩薩と考える密教秘技中の秘技を「聖天さん=大根=巾着」ワンセットで当時地方の寺に教えるとは考えにくいと思いませんか? そうであったら良いなという感情は別にして、私は、教えるなら、最上位の高僧のいる寺で、「聖天さま=牙=歓喜団」と教えるはずと思うのです。

 

 とすると、慈覚大師円仁が浅草寺・待乳山にいらした折、伝えたのは天台密教であり、十一面観音菩薩の信仰であった。のちに、どこかの時点(「聖天さま=大根=巾着」とどなたかが解釈し、それを奈良生駒山や全国にひろめる時点)で、待乳山に聖天さまを勧進したのだと考えるほうが、「慈覚大師円仁の知識に疑問」を投げかけるより無理がないと思う。

 

 どなたか、聖天さまを信仰、または勉強しているかたで、同じようにこの疑問を覚え研究している方がいたら、ご意見を伺いたいと思います。よろしくおねがいします。

 

 香油供養、なぜガネーシャは大聖歓喜天となったのか神話、なぜ双身像なのか、など興味の尽きない話題がありますが、それは聖天さんをお祀りする修法や教えに関することなので、ぜひ、このブログを読んだり実際に聖天さんをお参りして知りたいと興味を持たれた方は、それがご縁のはじまりと言えますので、お坊さんにご相談ください。

 

 浅草寺・待乳山聖天の原始の形に、次回以降は取りあげてみようかと思います。