〜写真を追加し、内容を2倍以上に加筆しました〜

 

 無事に期末試験も終わり、いったん脳を白紙にして、書きかけの続きから。

 

 靴を脱ぐ文化を語る前に、靴を履くのは西洋では、いつ頃からだったのかを前回書きましたが、宿題を出していたのでした。

 

 「履き物のデザインが多様になるのは古代ローマからですが、それはなぜ?」

でした。

 

 ローマ帝国の版図は、学生時代に見慣れた通り以下のような広大な領域です。

https://geoawesomeness.com/lets-travel-ancient-roman-empire-stanford-geospatial-network-model-roman-world/

 

 ここでの注目は、南はアフリカ大陸の地中海沿岸、北はイギリスまでですが、現在の国名に当てはめると、もっと身近に驚きます。

 それは、西は、ペルシャ湾やカスピ海まで突き抜けているので、イランや、アゼルバイジャン。北東は、黒海を囲んでしまっているので、東西ヨーロッパのパイプライン(紛争の火薬庫ともいえますが)旧ソ連のウクライナまで。

 つまり、温暖なイタリア半島から出て、地中海域世界を征服するだけならばイタリアとさして気候の異ならない服装で済んだのでしょうが、紀元前218年カルタゴのハンニバルがフランス側から天然の要害だと思っていたアルプス山脈を越えてきたあたりから、打って出ていかなければなくなる。必然と軍装も耐寒・耐極地仕様にならざるをえなくなります。そして、キリストが生まれたころには、現在のベルギーあたりまで版図に組み入れています。ことし、世界の異常気象でしょっちゅう話題になりましたが、フランスの地中海側は夏に40度とか。日本で考えると、それアフリカかアラビアなんじゃないか?という気がする最高気温になる一方、同じ時期にフランスの大西洋岸のルアーブルは8月平均気温が22度くらいで夏の札幌より寒いじゃん、といった大きな気温差があります。こうなると、当然、冬は平均気温が氷点下の地域もローマ帝国の版図になったわけです。

 

 つまり、広大なローマ帝国を築いたローマ人は酷暑や寒冷地へも行軍、それに加えて、平定後は、軍人だけではなく官僚も行政に、そして旅行にも赴いたため、実は、騎馬民族・遊牧民たちが履いていて先に発達したブーツなどのデザインも取り入れ、酷暑地域のサンダルから極寒地域のブーツに至るまでバリエーションのある靴を生活に取り入れたのでした。

 

(「アリンガトーレ」フィレンツェ国立考古学博物館所蔵)

https://museoarcheologiconazionaledifirenze.wordpress.com

 

 

この100年頃の180cmのブロンズ製彫像は、ブーツを履いている点に注目です。

 

 その一方、職務の理由から行動範囲が広くなった男性とは異なり、古代ローマにおいても古代ギリシア同様、女性は行動範囲は住んでいる土地に限られていたため、靴を履く頻度が少なく、サンダルを履く場合では靴底に革ひもが付いたシンプルなものが好まれたと研究されています。また、素材は、革だけではなく、フエルトも用いられていました。

 

 僕の好きな彫像をご覧に入れましょう。

(「女神アフロディーテ、パーンとエロス」の複製 オリジナルはアテネ国立考古学博物館所蔵)

https://www.namuseum.gr/en/

 

100年頃作られたと考えられているギリシア デロス島で出土した130cm大理石の彫像です。

言い寄るパーンにアフロディーテが脱いだ左足のサンダルを振り上げ威嚇しているユーモラスな構図。

よく見ると(拡大写真参照)、サンダルに鼻緒を通せるように穴が開けられています。ここまでリアリティを追求した芸術家は、この像を作ったとき、ひょっとしたら革紐を彫像のサンダルに通していたのかもしれないなぁ、なんて考えたりします。

 

 西ローマ帝国は世界史の教科書を開いた方は思い出されることでしょうが、ゲルマン人の大移動に伴う北方異民族によって滅ぼされてしまいます。その際に、栄華を誇ったローマの文化も西ヨーロッパでは失われます。お風呂好きの僕が最も許せないことと言えば、ローマが支配した土地には公共浴場が作られますが、その水を確保するために遠隔地と都市を結ぶ長大な水道をゲルマン人は破壊しお風呂が入れないことでローマの文化支配を根絶しようとしました。温浴文化の根絶と、イエスの"身を清める行為を重要視するよりも神への真摯な信心が大切"だとする反ユダヤ教の教えや、中世の黒死病の蔓延および当時の無知な医学などに理由によって、キリスト教社会における古代・中世・近世ヨーロッパ人は、たらいに冷水をいれ布で体をたまに拭く程度、または、リネン(亜麻布)の服を着替える・身に付けることが「清潔であるという清潔感」というおぞましい清潔感の暗黒時代になります。(ローマの温浴文化はヨーロッパ人によってではなく、イスラム教世界に引き継がれ現在に至ります。)(西洋はシャワー文化だとお思いでしょうが、シャワーも近代の発明で多くの人はシャワーを浴びるのを怖がったという記録があります。)

 

 欧州における「暗黒時代」という言葉を聞いたことがあると思いますが、実は14世紀ごろまでどんな服装をしていたのか欧米のファッション文化の研究でも資料が少なく、こと足元に関しては私が読んだ3冊程度の資料にも記載がありません。

 わかっていることは、1400年頃の遺物としてグリーンランドで発見されたホーズ(英語hose)またはショース(フランス語chausses)と呼ばれる長靴下を履いていたと考えられています。

http://www.kostym.cz/Anglicky/copyright.htm

 

 この布製のズボンは左右がそれぞれ別の部位になっていて、爪先から腰にかけて引き上げて履くようになっており、後年まで腰や腹、尻あたりで紐で縛ったり上衣類から吊るしたりして履いていたと想像されています。また、ローマ時代でも書きましたが、このホーズの足裏に直接当て革をしてロングソックス兼靴として使用していたことも考えられています。このホーズが左右一体化して足にフィットする形で靴とともに登場する西洋絵画の最も古いものは、私が西洋のファッション歴史書や美術でしらべた限りこの絵画でした

 

ディーリック・バウツ作「皇帝オットー3世の正義」15世紀中期 ブリュッセル王立博物館

 

 これを見ると、左下の白い首なし死体の真上に立つ左右違う色のズボンを履いている処刑執行人が、今も舞台で踊られているバレエ・ダンサーのタイツと同じだと気づくことでしょう。

これが、左右別々だった前述のホーズが左右一体になったものです。気づきましたか?女性のストッキングの類で腰まで履くものと同じ名前のルーツだということに。

 また、この絵を見ると、処刑執行人以外は、左右同色のホーズを履いていることから、当初この左右色違いのホーズ・スタイルは処刑執行人の服装だとわかります。年代が下ると槍を持った騎士が同様に左右色違いのホーズを履きますが、これはまた別の紋章由来の理由があります。興味がある人はご自身で調べてみてください。

 そして靴に目を移すと、膝丈ブーツと深いパンプスを履いているのが見て取れます。この先が極端に尖っているのが面白いですね。この後、近世初期まで爪先の極端に尖ったもの、背を高く見せるためヒールどころか台座が何十cmも高いもの、そして各種ブーツの誕生につながっていきますが、全て、現代、女性が履いている靴おおよそ全ては、男性が男性のために開発して権力とファッションを誇示するために履いていた履物のデザインだということがわかります。現代、日本では馴染みがありませんが、西洋の正装時の履物として、舞台を観劇する際に男性が履くオペラ・パンプスが唯一、現代では女性が履いていそうなものを男性が履く唯一の遺物かもしれません。

 

 さて、ここまで書いてきて、じゃぁ、日本の履物のもっとも古い考古学的遺物はないのか?

 

 日本人は、下駄に草鞋で遺物は腐ってなくなっちゃったのか?

 日本絵画でも、足元の履物を描いた作品はないのか?

 そう思って、見ているんですが、いままでなかなか出会ったことがなかったのです。

 

 ところが、先日、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で展示の中に見つけました。

(復元品 国立歴史民俗博物館所蔵)

これです。

これの現物は、1985年から発掘調査された6世紀後半の奈良県生駒郡斑鳩町にある円墳「藤ノ木古墳」からの出土品で、冠などとともに国宝に指定されています。場所は法隆寺から徒歩5分くらいの場所。

 

「金銅製履(こんどうせいくつ)A」

 

間違う人はいないと思いますが、念のために書きます。誰も金属製の靴なんて当時履いているとは考えられません。エジプトのミイラが履いている黄金製のサンダルと同様に、当時の衣装を貴重な金属で模して死後も履物に困らないように永続性があると思われる金属製の靴を履かせたのでしょう。その御蔭で、私達は当時の埋葬される身分にあった人びとの衣装がわかるわけです。

 

つまり、鼻緒のついたサンダル系の履物ではない、靴を履いていたことがこれでわかりました。

でも、なんで屋内で靴を脱ぐのかは、いまだわかりません。(笑)

推測していることはあるのですが、後押しする資料を見たことがないので、今回は意見の発表を控えて、この回をおわりにします。

 

ざっと、4000字も書いてしまいました。

 

参考図書

アドルフ・ローゼンベルグ著『図説 服装の歴史 上・下巻』国書刊行会 2001年

ブランシュ・ベイン著『ファッションの歴史〜西洋中世から19世紀まで』八坂書房 2006年