向島の本題に入りましょう。
さて、江戸時代の地図といえば、切絵図が江戸時代後期の江戸の町を詳細を残してあり、当時を想像しやすいです。
隅田川向島絵図 嘉永二年〜文久二年 尾張屋清七版(国立国会図書館デジタル・アーカイブ)
(注意:この切絵図は南北が逆になっているので、見慣れた北を上に直して掲載してます。)
切絵図に、現在のスカイツリーを書き込んでみました。
現在の地図で凡そ同じ地域を切り取ると、次の地図写真になります。
(Google Mapより)
左右に並べましょう。
これで、似ました。
この地図、よくよく眺めてみてください。
お気づきになりましたか?
江戸時代の水路・運河が、現在の幹線道路とほぼ同じ。
そして、現在の細い小路が、あっちこっちに向いているのは、江戸時代の畑を縫う道もまた、そんな調子です。
少し昔のことを調べたことがある人も、このブログを御覧になっていると思いますので、一箇所、この地図で「すごく似てるのに、実は、まるで、別物」というのがあるのを指摘しておきます。
それは、両方の地図の画面右側の川が、実は同じように、見えるのですが、実は現在の荒川とは別の川です。
江戸時代の画面右隅にある神社は、吾妻大権現と読める。(下段の北十間川の北側の神社)
この神社は、現在の地図でいうと、スカイツリーの右側にある駅、「小村井」の南側にある(地図では切れてしまっているが、そのさらに南に、北十間川が東西に流れている。
つまり、現在の地図は、江戸切絵図よりも広い1.5倍くらい広い範囲を収めていて、右の川は、現在の地図の「荒川放水路」ではなく、もう少し内陸にあった別の川なことがわかった。
ところが、江戸好きや地図好きな人は少なからずいると思いますが、この江戸切絵図にも川の名前は書かれていないし、また、僕の持っている江戸切絵図の本にも、この川の説明はない。
面倒なことに、「江戸時代の切絵図」と「荒川放水路の成立」を説明する各種開示情報や、他の方々のホームページにも、この「幕末」と「荒川放水路」の間を埋める地図を掲載しているページは見つからなかった。
ひょっとすると、墨田区北側の荒川放水路が成立する前の地図がネット上にでるのは初公開かもしれません。
僕が、探している切絵図に書かれた右側の川は、赤い枠に書かれた人工的な直線の川だったことがわかりました。
(『東京区分新図 大須賀龍潭編輯』 明治12年2月より一部抜き出し)
川を見つけたのはよいのだが、それでも川の名前が記されていない。後に上げる明治42年の地図でわかったのだが、この川の名前は、「古綾瀬川」という。
吉原の日本堤や、隅田公園の桜並木の堤防で記載したかもしれませんが、隅田川や上流の荒川、入間川などは度々氾濫をおこして、浅草から神田一体や向島から本所一体は洪水にみまわれたので、江戸幕府は河川治水事業を行いました。
が、日本堤の巨大堤防や墨田の墨堤では、洪水は防ぎきれず、明治元年から43年の間に、床上浸水は実に10回以上発生。洪水は、墨田区、台東区、江東区だけではなく上流の荒川区、北区でもたびたびおきていたことがわかった。
荒川下流河川事務所のホームページには、荒川放水路が作られた変遷が掲載されていますが
http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00026.html
特に、明治43(1910)年8月の大雨でおきた大洪水は、天保6(1786)年以来の大災害になったことを、この頃の絵葉書や新聞記事に残された資料からNPO法人あらかわ学会がとりまとめたページがある。その中にこの洪水時、北区岩槻あたりの荒川の水位は8m前後も上昇したという。
http://arakawa-gakkai.jp/pdf/tokyo_flood.pdf
だんだん、防災のページのようになってきたな (`` )
(東京一万分の一地形図 日本帝国陸地測量部)
自然の驚異を痛感する大災害にたいして、人間のそれに対抗する力もまた、凄まじい執念を感じます。
だって、ぼくらの目には、現在の姿しか目に浮かばないのですから。
この事実を目にすると、江戸幕府が御城下の北東の門を浅草御門にして、防衛ラインを神田川にしたのもわかる。
また墨田区でいえば、1657年におきた明暦の大火で町を拡大、本所・深川を碁盤の目に整備したのも、北十間川から南という、これまた水路を境に防衛ラインにしたようだ。
さて、では、鎌倉時代・室町時代の浅草の話を取り上げて来ていて、ここに来て、幕末・明治・現代の墨田区向島の土地の話をしたのか。種明かしです。
それは、「どうして、内陸なのに○島という名前の地名が多いんだ?」
なのです。
関東は徳川家康の入府から本格的に地図作成が始まったのでしょう。
現在、伝わる最古の江戸の地図は、後年の創作ではないかと言われている
(永楽年中相州小田原北條氏康時代相州江戸之図〜 北を上にして掲載)
この永楽年地図はいくつかの模写があり少しずつ少しずつ記載が違う箇所があるのだが、隅田川の対岸の向島は陸地なのは同じ。
しかし、不思議なのは、徳川幕府の天下普請で江戸前島を切り崩し、日比谷入江を埋め立てて東京湾を埋め立てていったとはいっても、全体的に水位が高かったのではないかと思う。
ここに元千代田区図書館主査 鈴木理生著『江戸と江戸城ー家康入城まで』の中に、下に掲載する想像図が出てくる。
現在の南千住・隅田川駅あたりから鳥越までを外島(豊島)とする大胆な説も書かれているが、ここは一旦脇においておいて、隅田川がもっと水量が多く墨田区の低湿地帯であった向島地域は扇状の広い河だったとするものだ。その結果、東に流れる隅田川(東流隅田川の岸辺が国境で、下総国はもっと小村井あたりまで後退していたのではないかという。
こうなると、浅草あたりの人が言う、隅田川の向こう側は向島(下総国)は実はこれも、江戸時代くらいからのことで。。。
『吾妻鏡』に出てくる源頼朝が泊まった隅田の宿は、武蔵国だと思ったから山の宿だという推論を展開したが、国境が交代してしまったら、川の中州に浮かぶ島でも泊まってもよいわけだ。
浅草といったら、向島。
向島は、実は調べてみ始めると、とても深いのです。
それなのに、東京府・江戸の地図だと、省略されたり、切られたり。
はては、洪水で流されたり。
僕らは、今、目に見えているものが、近代建築を除いて、地形などは昔から変わらない景色だと思いがちだが、100年 500年 1000年前は、実は全然違う地形で、交通ルートも今とは全く違っているかもしれない。
そんなことを地図や、古書から考える。
ひとまず、向島の「地形が変われば、歴史が変わる」の回、おしまい。
また、今度は別のテーマできっと向島を取り上げます。